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2012年2月25日土曜日

2012年の幸福論

夕べの朝生の本来のテーマは若者の幸福論であった。

就職難で高齢者やバブル期のツケを若者が背負わされているのに若者は幸福だといっている、これはどうしたことか?という話から始まった。

幸福である、つまり現状に満足している、ということは、すなわち現状以上のことを期待していない、絶望の裏返しである、という意見が出た。

また、就職氷河期とかなんとか言っている世代の親は、バブル期にさんざんもうけて貯蓄してきた世代だからその元で何不自由なく暮らせている、という話もあった。

また、幸福度といえば最近話題になったのがブータンで、経済的豊かさが幸福ではないのだといわれているが実はブータンは今高成長しているのだ、という話もあった。


私の考えは、「幸福かどうか」などということは、聞くのも答えるのもバカバカしい、ということになる。私は自分が何をしているときが幸福かという答えが見つからなかった。個人の幸福など、どうでもいいのである。二の次である。


さきほど書いたように、人は誰でも多少なりとも自分以外の何かのために生きている。それはしかたなくそうしていると、皆思っているかもしれないが、実は人は、自分自身のためだけに生きているだけでは満足しない存在なのである。


ただ生きていくだけなら、そんなに大変なことではない。死なない程度の衣食住環境を整えるだけなら、大学に行かなくても英語がしゃべれなくても教養がなくてもいい。


「幸福」というのは、「ただ生きているだけではなく、生きがいを感じるかどうか」ということだろう。

朝生で言われていたように、「本当は幸福じゃないけど現状以上を望まないから幸福と言っているだけだ」というのは、「もっとハングリーになってよりゼイタクな暮らしを目指せ」ということだろう。


しかし、それも間違っている。自分自身の生活を豊かにし、おいしいものを食べて、快適な生活を送ることには際限がない。いつかは飽きて、もっとゼイタクをしたくなる。幸福というものはそんなことではない。


このような「幸福感」というのは、先ほど述べた狭小な「愛国心」に通じるものだ。

ただ自分の生活を満足させる、という幸福感を目指す人は、自分が暮らす国が豊かになることだけを願う。それが「日本の国益」をどうこう言う人々だ。

だがそのような利己的な欲求の充足には限りがない。限りがないというのは、どんなにゼイタクをしても決して幸福を感じない、ということである。

現代の若者が経済的に不遇であっても幸福感を感じているというのは、カネだけではない価値観を見出しているのか、あきらめているのかわからない。

だが、少なくともオトナ達が期待しているような、『俺たちはダメなオトナたちが築いたダメな社会のせいでこんなに不幸になった、よし、立ち上がって日本を改革しよう!!』というような気概を持っている者は非常に少ないのは間違いないだろう。

なぜなら、ただ自分が幸せになるためだけの為に社会や国家を変革しようなどというのは、あまりにムダだからだ。自分の欲求充足だけなら、国家やら社会などどうでもよくて、適当に働いて適当に生活していれば済むのだ。オトナ達のいう幸福とはそれだけのことにすぎない。



私は、自分が幸福である、などということは恥ずかしいことであると思っている。

例えば、私の母はいつもグチを言っていた。社会に出られず、夫や子供たちの為に食事を作って洗濯をして掃除をして送り迎えをして、一銭ももらえない。仕事だからという名目でゴルフをしたり居酒屋で飲み食いして騒いだりカラオケでストレスを解消することもできない。私は生まれ変わるなら絶対男がいい、などと言っていた。彼女にアンケートをしたら、きっと幸福ではない、と答えただろう。

だが母はその後もずっと家事をし続けた。家事には休日がない。むしろ夫が在宅している休日の方が忙しいくらいだ。父が定年退職して家にいるようになると、家のことは何もできない父はなんでもかんでも母にやらせ、母はそのことにも愚痴をこぼしていた。やがて父は病に倒れた。母は夫を懸命に看病した。なんの報酬もない、自分になんの見返りもない行為である。

母は、死ぬまでこうやって誰かの為に生きているのだな、と私は思った。



母は、彼女自身の生活だけを見たら幸福ではなかった。おいしいものを食べて自分の趣味に没頭して言いたいことを言って過ごすのとは全く正反対の生活であった。

だが、彼女の人生を無価値であると言えるだろうか?むしろ、「幸福」ではなかったからこそ、彼女の人生に意義があったのではないか?夫や子の為に働いて、ゼイタクもできずぐっすり眠れなかったかもしれない、でも、夫や子供たちが幸せに暮らす姿を見て、彼女は充実感を感じていたのではないか?


人は、眠りたくてもいつまでも眠れるものではない。食べたり飲んだりするのだって、限りがある。
生きていくために必要なものというのはごくわずかである。

人が自分を不幸だと感じたり、生きがいを感じられないのはそのようなたんなる一個人の欲求が充足されないからではない。むしろ、本当の幸福を感じるためにはそのような欲求は犠牲にされるのである。


おそらく、現代では「幸福」という概念に、「自分が生きている意義を見出せている」というようなことは含まれていないだろう。ただ、楽しいとか、快適に暮らせるとか、治安がいいとか、そういうことでしかなくなっている。

「自分の欲求は充足されている」ということなら、今日本に暮らしていればほとんどの人がYESと答えるであろう。だが、「自分は生きている意義や喜びを感じている」ということになると、「そんなわけないじゃん、聞くまでもないだろ?」という感じではないだろうか。