スキップしてメイン コンテンツに移動

危険な「愛国心」

夕べの朝生で、日本の人口が減少していることが話題になった。
出生率を上げるために、たとえば控除だとか、企業の子供を産んだ女性に対する待遇の改善などによって、なんとか人口を増やさないと日本は滅びる、ということが議論されていた。

それを聞いていて私は少し違和感を感じた。
人口が減少して何が困るのか?日本が衰退して何が困るのか?

最近、以前はタブーといってもよかった「愛国心」を表明することが恥ずかしいことではなくなってきた。しかし、私はやはり「愛国心」というのは非常に危険なものであると感じた。昨日の朝生で見られた「日本の将来のために人口を増やす」と考える、そのような「愛国心」は、危険な愛国心である。

つまり、国を至上としている。自国を愛するのは出身地を愛したり、家族を愛したりするようなほとんど本能のようなもので、努力してそれを培ったり維持していくようなものではない。

「国のため」を言う人が強権的というか高圧的というか、そうでない人を侮蔑するのは、「自分は自分という個よりも大きな存在を自覚しそれに奉じている。自分だけのために生きているのではない。国を愛さないものは自分だけのことしか考えない動物のような低次元な存在だ。」と考えているからだろう。

中にはそういう、自分のことしか考えない動物というか虫けらのような人間がいることは確かだ。だが、それはごく少数である。誰だって、自分の為だけでない、何かの為に生きている。そしてそれは、別に強いられているわけでも、脅かされているからでもない。中には強制的に何かの為に生きさせられている人もいるかもしれないが、そのような強制に甘んじているのもその人の意志である。いまどき、少なくとも日本では、「奴隷」は存在しない。存在しているのは自ら奴隷になっている人々のみである。

「愛国心」が危険なのは、「個よりも尊いものに奉じる」からではない。そのこと自体は尊く大切なことである。そうではなくて、往々にして「愛国心」は自国より尊いものを認めないからである。自国より尊いものとは何か。世界である。経済学者やジャーナリストはよく「国益」という。世界は国同士が争いだましあい闘いあって自国の利益をいかに確保するかを競う場であるというのが彼らの認識である。そういう認識に立つのでTPPとかPKOとかに反発するのである。私に言わせれば「国益」などというものを意識している人間は独裁者となんら変わらない。目指すところは独裁者と同じなのだが、自分が独裁する力をもっていないために妥協しているだけである。

日本の人口が減少して国家として成り立たないなら、どこかの国に服属でもされてしまえばいいのである。あるいはなんらかの共同体の一員となればいいのである。他国と競い合ってまで「日本国」というものを存続させる必要はない。

今までにも何度か書いたと思うが、おそらく多くの日本人がお手本にしているアメリカの「愛国心」は、日本国には適用できない。アメリカと日本では「国」の概念が全く違うからだ。アメリカ合衆国というのは、地理や人種などを超える枠組みである。そういうものに固執することをなによりも拒む共同体である。日本国を愛するというのは、それと全く反対のことだ。地理と民族に固執することだ。そういう「愛国心」は、かつて我々がタブーとしたのが正しかったのである。

このブログの人気の投稿

死を望む人の死生観

最近は死にたい気持ちがいっそう募ってきた。単なる慣用句また感動詞としての「死にたい」ではなく、本格的な「希死念慮」という奴である。

そしてまた自殺の方法を調べた。恐怖と苦痛が少なく迷惑もかけない死に方はないか・・・。

すると、2ちゃんねるの自殺未遂体験を語るスレッドが見つかった。
以前にもちょっと眺めたことはあるが、じっくり読んでみた。

多いのは薬物とリストカットと足がつく場所での首吊りだった。
失敗した原因は、同居人のいる自宅で遂行した、電話やメールで知人にほのめかすかあるいははっきり宣言して助けられた、恐怖で自殺を思いとどまった、などである。

共通しているのは、すべて自分が死ぬ覚悟ができていなかった、死ぬ恐怖に打ち勝てなかったということである。

自殺の話になるとまず言われるのは「自殺なんかしてはいけない。命は授かりものだ。」という自殺罪悪説である。それから、「自殺未遂なんて本気で死ぬつもりなどないのだ。死にたいのならとっとと死ね」という未遂に対する罵倒。そして、「何があったの?死ぬ前に誰かに相談すれば?生きてればいいことあるよ」という心配。

「自殺は素晴らしい」という人はまずいない。
だが、非常に潔く動機も生活苦などではない場合はそれが賞賛される場合もある。
乃木稀典とか、三島由紀夫とかである。

私はこの2人の自殺にも興味を持っていろいろと調べてみたが、あまり手放しでは賞賛できないような事実をいくつか知った。そして、2人の死について否定的な考えを表明している有名人も大勢いることを知った。



調べれば調べるほど、自殺というのは限りなく困難なもので、ほとんど不可能に近いと思えてくる。
ロープを用意し、山の中まで行って首を入れるところまでいってもやめてしまう人がいる。
薬の大量服用については、本人の意志に関係なく吐いてしまい、まず成功することがない。

未遂に終わった場合、「二度と自殺なんかしない」という人が多いが、中には「今度こそ」と考える人もいる。実際、自殺に成功した人は何度か未遂を繰り返した人が多いそうである。



私は自殺を試み未遂に終わる人たちがすべて本気で死のうとしていないとは思わない。
彼らは本当に絶望していて、生きることは苦痛以外の何物でもなく、死ぬしかないと思っている。
しかし、いざ死のうとすると苦痛と恐怖で思いとどまってしまう。

思いとどまるときに、たと…

グリーン車で横の席に荷物を置く人

私は常磐線で通勤しているのだが、最近朝がつらくて、
グリーン車に乗ることが多い。

私が乗る駅では、グリーン車は窓際はまず埋まっている。

窓際に人がいる隣の通路側の席に座る。


だが、そこにカバンを置いている人が非常に多い。

私はそれがとても頭にくる。というか、その神経が理解できない。


なぜそんなことができるのだろうか?

私は休日にもグリーン車に乗ることがあるが、

ガラガラでもとなりの席に荷物など置いたことはない。

なぜなら、グリーン車は有料だからだ。


距離によるが、550円とか770円とか、ランチが食べられるくらいの料金だ。


まあ、ガラガラであれば、カバンを置いても、私はしないが、まあ許せる。

でも、通勤ラッシュ時で、上野につくころにはほぼ満席になる常磐線のグリーン車で、

隣の席に荷物を置くのは許せない。

その荷物をつかんで放り投げたくなる気持ちを懸命に抑える。


時々、そういう人にむかって、「すいません」と言って席を空けてもらって座る人がいる。

謝るのは荷物を置いている方だろ!


そういうときに、荷物を置いている人が謝るのを見たことがない。

私は、絶対に謝らない。そこまでして座りたくない。


が、そういう人がいると、顔をじっと見る。

そうすると、だいたいどける。



最近わかってきたのだが、この行動は無神経であるとか気が利かないというのではなく、

隣に人を座らせたくないので故意にやっているようだ。


なんという、利己的な行為だろう。私はそういう行為が本当に嫌いだ。


私も、なるべく隣に人がいない席を選ぶ。隣に人が来て欲しくないという気持ちはわかる。

でも、だからって荷物を置いて座らせないようにするなんてことは絶対にできない。

そんなことまでしたくない。


昨日は、隣の席に荷物を置いて寝ている人に、「すいません」と声をかけている人がいたのだが、

寝ている人は2、3度声をかけられても起きなかった。

多分、気づいているのに起きなかったのだろう。



私は振り返って、その人がどんな顔をしているか見た。

年齢は私よりやや上、50歳前後だ。

上着を着ずにワイシャツとスラックスの、ごく普通のサラリーマン風の男性である。


特にバカそうでもズルそうでもダメ人間でもだらしない感じでもない。

でも、そういうごく普通の人間が、このような利己的な行為をするものなのである。

これは静かなる暴力と言ってもいい。


キンタマを掴まれる

この話はツイッターで言いたかったのだが、どうしても「キンタマ」と書く勇気が出なかったのでこっちに書く。

私は猥談が嫌いだ。
猥談なんかしていたのは高校生まで。
わけあって私は一切猥談をしなくなった。
飲み会でもしない。飲み会でそういう話題になると貝になる。

そして、「キンタマを掴まれる」という言葉には性的な意味はない。
それは常識かもしれないがやっぱりキンタマなどという言葉を口にすることははばかられる。
わたしも「キンタマ」などという言葉を思い出したのは久しぶりで、懐かしささえ感じた。

なんで思い出したかというと、夢の中でキンタマを掴まれたからだ。
その夢では、わたしは背後にぴったりと誰かが張り付いているのを感じていた。
それは見えないし、ぴったりではあるがそっとなので気のせいかなと思うくらいだ。
だが、間違いなく張り付いていると確信した。だが、それを自分で払いのけることはなぜかできない。

そこで、近くにいた知り合いと思われる人に、「ちょっとこれはがしてくれない?」と頼んだ。

それを頼んだときに掴まれたのか、その前から掴まれていたのかわからないが、
その背後にはりついていた何者かがわたしのキンタマを掴んでいた。
とても痛かった。その痛みは鋭いものではなく、鈍く、重いものだった。

そして結局背後にいるものがはがされないまま、目が覚めた。
その目が覚める瞬間に、キンタマの痛みもすーっと消えていった。
そして、わたしは「あ、これは自分が作り出している幻覚にすぎないな」ということがわかった。