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2012年2月25日土曜日

危険な「愛国心」

夕べの朝生で、日本の人口が減少していることが話題になった。
出生率を上げるために、たとえば控除だとか、企業の子供を産んだ女性に対する待遇の改善などによって、なんとか人口を増やさないと日本は滅びる、ということが議論されていた。

それを聞いていて私は少し違和感を感じた。
人口が減少して何が困るのか?日本が衰退して何が困るのか?

最近、以前はタブーといってもよかった「愛国心」を表明することが恥ずかしいことではなくなってきた。しかし、私はやはり「愛国心」というのは非常に危険なものであると感じた。昨日の朝生で見られた「日本の将来のために人口を増やす」と考える、そのような「愛国心」は、危険な愛国心である。

つまり、国を至上としている。自国を愛するのは出身地を愛したり、家族を愛したりするようなほとんど本能のようなもので、努力してそれを培ったり維持していくようなものではない。

「国のため」を言う人が強権的というか高圧的というか、そうでない人を侮蔑するのは、「自分は自分という個よりも大きな存在を自覚しそれに奉じている。自分だけのために生きているのではない。国を愛さないものは自分だけのことしか考えない動物のような低次元な存在だ。」と考えているからだろう。

中にはそういう、自分のことしか考えない動物というか虫けらのような人間がいることは確かだ。だが、それはごく少数である。誰だって、自分の為だけでない、何かの為に生きている。そしてそれは、別に強いられているわけでも、脅かされているからでもない。中には強制的に何かの為に生きさせられている人もいるかもしれないが、そのような強制に甘んじているのもその人の意志である。いまどき、少なくとも日本では、「奴隷」は存在しない。存在しているのは自ら奴隷になっている人々のみである。

「愛国心」が危険なのは、「個よりも尊いものに奉じる」からではない。そのこと自体は尊く大切なことである。そうではなくて、往々にして「愛国心」は自国より尊いものを認めないからである。自国より尊いものとは何か。世界である。経済学者やジャーナリストはよく「国益」という。世界は国同士が争いだましあい闘いあって自国の利益をいかに確保するかを競う場であるというのが彼らの認識である。そういう認識に立つのでTPPとかPKOとかに反発するのである。私に言わせれば「国益」などというものを意識している人間は独裁者となんら変わらない。目指すところは独裁者と同じなのだが、自分が独裁する力をもっていないために妥協しているだけである。

日本の人口が減少して国家として成り立たないなら、どこかの国に服属でもされてしまえばいいのである。あるいはなんらかの共同体の一員となればいいのである。他国と競い合ってまで「日本国」というものを存続させる必要はない。

今までにも何度か書いたと思うが、おそらく多くの日本人がお手本にしているアメリカの「愛国心」は、日本国には適用できない。アメリカと日本では「国」の概念が全く違うからだ。アメリカ合衆国というのは、地理や人種などを超える枠組みである。そういうものに固執することをなによりも拒む共同体である。日本国を愛するというのは、それと全く反対のことだ。地理と民族に固執することだ。そういう「愛国心」は、かつて我々がタブーとしたのが正しかったのである。