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芸術商品論

お笑い芸人と放送作家、小説家と編集者、ミュージシャンとプロデューサー、野球選手とエージェント・・・。

こういう関係がある。私が見たり聴いたりするエンターテイナーやアーチストと呼ばれる人の背後にこれらの人々がいて、かなり重要な役割を果たしている。

今までも、そのような人々の存在を全く知らないわけではなかった。でも、そういう人たちは演者の才能のおこぼれにあずかっているだけであり、実際は演者が大金を動かしているのだと思っていた。

しかしその考えがかわりつつある。プロデューサーのような人々の果たす役割がかなり大きいことがわかってきた。そして最近は、もしかして芸術家というのは商業的には全く無価値なのではないかとさえ思えてきた。

それは、芸術を否定するのではない。文学、映画、お笑い、漫画、音楽、演劇、どれもすばらしいものは本当にすばらしいと思うし、なくてはならないと思う。でも、そのすばらしさと商業的な価値、つまりおカネになるかどうかは全く別の話なのではないか。


先日テレビである有名お笑い芸人がコント番組をやることになり、その企画会議の様子が放送されていた。そこでその芸人は次々に自分のアイディアを話していく。周りにいる放送作家たちがそれを聞いて笑いながらメモを取ったりしている。

そして後日実際にコントを収録することになって、芸人はセットや小道具を見て感心したりしている。当然だが、それらを作ったのは芸人自身ではない。さらに彼は、台本も書かない。台本は放送作家が書くのである。かれは案を出して演ずるのみである。


私が日々楽しんでいる音楽は、アーチストが作り出したものなのか、プロデューサーが作り出したものなのか。つまり、芸術品なのか、商品なのか。ということが、わからなくなってきた。

私はずっと、芸術というのはアーチストが生んだ希少なものに、せいぜいパッケージしたり宣伝したりする程度のことを施されていると思っていたのだが、プロデューサーとか編集者というものは、アーティストにこんなことをやったらどうか、こういう方向性で行ったらどうか、ということを提案したり指示したりするようだ。

主にテレビで活躍するアイドル歌手などは、ほとんど自分の意志と関係なく、言われるがままに歌わされ踊らされている。それはテレビだけだと思っていたが、どうやら小説家やミュージシャンにもそういうところがあるようなのだ。

私はそういう内幕を知ると、なんだか興ざめする。ある天才が創り出した作品を鑑賞しているのではなく、金儲けのために企画された商品を消費していただけだったのかと、アーチストというのは金儲けの為に製造される商品の一素材にすぎないのかと。

もちろん本当の天才、本当の芸術というのは存在する。でもきっと、その芸術そのものには経済的な価値は全くないのだ。私たちが芸術鑑賞において金銭を払うのはアーチストに対してではなく、その芸術を商品化して一般人が鑑賞できるようにした人々に対してが主なのである。

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死を望む人の死生観

最近は死にたい気持ちがいっそう募ってきた。単なる慣用句また感動詞としての「死にたい」ではなく、本格的な「希死念慮」という奴である。

そしてまた自殺の方法を調べた。恐怖と苦痛が少なく迷惑もかけない死に方はないか・・・。

すると、2ちゃんねるの自殺未遂体験を語るスレッドが見つかった。
以前にもちょっと眺めたことはあるが、じっくり読んでみた。

多いのは薬物とリストカットと足がつく場所での首吊りだった。
失敗した原因は、同居人のいる自宅で遂行した、電話やメールで知人にほのめかすかあるいははっきり宣言して助けられた、恐怖で自殺を思いとどまった、などである。

共通しているのは、すべて自分が死ぬ覚悟ができていなかった、死ぬ恐怖に打ち勝てなかったということである。

自殺の話になるとまず言われるのは「自殺なんかしてはいけない。命は授かりものだ。」という自殺罪悪説である。それから、「自殺未遂なんて本気で死ぬつもりなどないのだ。死にたいのならとっとと死ね」という未遂に対する罵倒。そして、「何があったの?死ぬ前に誰かに相談すれば?生きてればいいことあるよ」という心配。

「自殺は素晴らしい」という人はまずいない。
だが、非常に潔く動機も生活苦などではない場合はそれが賞賛される場合もある。
乃木稀典とか、三島由紀夫とかである。

私はこの2人の自殺にも興味を持っていろいろと調べてみたが、あまり手放しでは賞賛できないような事実をいくつか知った。そして、2人の死について否定的な考えを表明している有名人も大勢いることを知った。



調べれば調べるほど、自殺というのは限りなく困難なもので、ほとんど不可能に近いと思えてくる。
ロープを用意し、山の中まで行って首を入れるところまでいってもやめてしまう人がいる。
薬の大量服用については、本人の意志に関係なく吐いてしまい、まず成功することがない。

未遂に終わった場合、「二度と自殺なんかしない」という人が多いが、中には「今度こそ」と考える人もいる。実際、自殺に成功した人は何度か未遂を繰り返した人が多いそうである。



私は自殺を試み未遂に終わる人たちがすべて本気で死のうとしていないとは思わない。
彼らは本当に絶望していて、生きることは苦痛以外の何物でもなく、死ぬしかないと思っている。
しかし、いざ死のうとすると苦痛と恐怖で思いとどまってしまう。

思いとどまるときに、たと…

グリーン車で横の席に荷物を置く人

私は常磐線で通勤しているのだが、最近朝がつらくて、
グリーン車に乗ることが多い。

私が乗る駅では、グリーン車は窓際はまず埋まっている。

窓際に人がいる隣の通路側の席に座る。


だが、そこにカバンを置いている人が非常に多い。

私はそれがとても頭にくる。というか、その神経が理解できない。


なぜそんなことができるのだろうか?

私は休日にもグリーン車に乗ることがあるが、

ガラガラでもとなりの席に荷物など置いたことはない。

なぜなら、グリーン車は有料だからだ。


距離によるが、550円とか770円とか、ランチが食べられるくらいの料金だ。


まあ、ガラガラであれば、カバンを置いても、私はしないが、まあ許せる。

でも、通勤ラッシュ時で、上野につくころにはほぼ満席になる常磐線のグリーン車で、

隣の席に荷物を置くのは許せない。

その荷物をつかんで放り投げたくなる気持ちを懸命に抑える。


時々、そういう人にむかって、「すいません」と言って席を空けてもらって座る人がいる。

謝るのは荷物を置いている方だろ!


そういうときに、荷物を置いている人が謝るのを見たことがない。

私は、絶対に謝らない。そこまでして座りたくない。


が、そういう人がいると、顔をじっと見る。

そうすると、だいたいどける。



最近わかってきたのだが、この行動は無神経であるとか気が利かないというのではなく、

隣に人を座らせたくないので故意にやっているようだ。


なんという、利己的な行為だろう。私はそういう行為が本当に嫌いだ。


私も、なるべく隣に人がいない席を選ぶ。隣に人が来て欲しくないという気持ちはわかる。

でも、だからって荷物を置いて座らせないようにするなんてことは絶対にできない。

そんなことまでしたくない。


昨日は、隣の席に荷物を置いて寝ている人に、「すいません」と声をかけている人がいたのだが、

寝ている人は2、3度声をかけられても起きなかった。

多分、気づいているのに起きなかったのだろう。



私は振り返って、その人がどんな顔をしているか見た。

年齢は私よりやや上、50歳前後だ。

上着を着ずにワイシャツとスラックスの、ごく普通のサラリーマン風の男性である。


特にバカそうでもズルそうでもダメ人間でもだらしない感じでもない。

でも、そういうごく普通の人間が、このような利己的な行為をするものなのである。

これは静かなる暴力と言ってもいい。


キンタマを掴まれる

この話はツイッターで言いたかったのだが、どうしても「キンタマ」と書く勇気が出なかったのでこっちに書く。

私は猥談が嫌いだ。
猥談なんかしていたのは高校生まで。
わけあって私は一切猥談をしなくなった。
飲み会でもしない。飲み会でそういう話題になると貝になる。

そして、「キンタマを掴まれる」という言葉には性的な意味はない。
それは常識かもしれないがやっぱりキンタマなどという言葉を口にすることははばかられる。
わたしも「キンタマ」などという言葉を思い出したのは久しぶりで、懐かしささえ感じた。

なんで思い出したかというと、夢の中でキンタマを掴まれたからだ。
その夢では、わたしは背後にぴったりと誰かが張り付いているのを感じていた。
それは見えないし、ぴったりではあるがそっとなので気のせいかなと思うくらいだ。
だが、間違いなく張り付いていると確信した。だが、それを自分で払いのけることはなぜかできない。

そこで、近くにいた知り合いと思われる人に、「ちょっとこれはがしてくれない?」と頼んだ。

それを頼んだときに掴まれたのか、その前から掴まれていたのかわからないが、
その背後にはりついていた何者かがわたしのキンタマを掴んでいた。
とても痛かった。その痛みは鋭いものではなく、鈍く、重いものだった。

そして結局背後にいるものがはがされないまま、目が覚めた。
その目が覚める瞬間に、キンタマの痛みもすーっと消えていった。
そして、わたしは「あ、これは自分が作り出している幻覚にすぎないな」ということがわかった。