スキップしてメイン コンテンツに移動

雇用されて

転職をした。私は最近数年、個人事業主として働いていた。だが、それはあくまでも契約上の話で、やっていることは回りにいる雇用されたサラリーマン達となんら変わりなかった。社会保険も雇用保険も加入せず、退職金もない。「給料(雇用されていないので厳密には給料ではない)」は同年代同業と比較してやや少ないくらいだったから、サラリーマンとして働いていたらかなりの薄給に相当するだろう。それが私に対する社会の評価なのだ。

私はもっとカネが欲しかったし、仕事の内容にも不満を持っていた。忙しすぎるとかつらいとかいうことではなく、つまらなかった。やりがいもなかった。それまでの仕事をやめて、求職活動をした。本当は、辞める前に求職活動をし、転職先が決まったら辞める、という手順を踏むべきなのはわかっている。だが、私はどうしてもそれまでの仕事を続けたまま求職活動をする踏ん切りがつかなかった。辞めなければ、本気になれないと思った。というか、それまでの仕事にもう限界を感じていたので力尽きて辞めたというのが本当かもしれない。

求職活動は難航した。とりあえず短期の仕事をしたが、なんだかわからないが激しいストレス、違和感、歯がゆさ、物足りなさなどを感じた。その仕事を終えて再び求職活動をしたがロクな仕事が見つからない。それは景気がどうこうではなく、主な理由は私自身のキャリアと年齢によるものだと思う。また、仕事が見つかってもどうやら面談で私は悪い印象を与えるようだった。もしかしたら酒臭いこともあったかもしれない。私はその頃ひどく酒におぼれていて、睡眠も不定で、精神的にも不調であった。

そんな日々が3ヶ月近く続いて、ようやく仕事が決まった。しかも、まったく考えていなかった正社員としての雇用であった。正社員として雇用されるということはよいことのように聞こえるかもしれないが、私にとっては敗北したようなものである。私はもう死ぬまで個人事業主でやっていこうと思っていたところであった。年をとってもどんなことをしても働き続けてやろうと思っていた。会社員になって退職金や年金を期待して悠々自適な老後をすごそうなどという気はさらさらなかった。

今はもう、正社員になろうと悠々自適な老後を送ることのできる人などごく一部だろう。その人々も、その快適な老後の生活の為に自分の会社の他の社員、主に若い社員たちを冷遇したり非正規雇用の労働者を使ったりしなければならない。私も会社員になったら、自分がカネを稼ぐには会社に貢献するというよりも自分以外の社員を自分より低い待遇になるように仕向けなければならない。

私はいまだに、カネを稼ぐということの意味がわからない。働いて報酬を得ることのできる根拠がわからない。会社という団体の存在意義がわからない。個人事業主でもアルバイトでも、誰かの求めることをして報酬を得るのは同じだとは思うが、やはり正式に「雇用」されるというのは何かが違う。会社に雇用されてしまうと、私は先ほども言ったが「敗北感」を感じる。なんというのだろう、可能性を閉ざされるというか、将来を盗まれるというか、本音を押し込められるというような。


このブログの人気の投稿

死を望む人の死生観

最近は死にたい気持ちがいっそう募ってきた。単なる慣用句また感動詞としての「死にたい」ではなく、本格的な「希死念慮」という奴である。

そしてまた自殺の方法を調べた。恐怖と苦痛が少なく迷惑もかけない死に方はないか・・・。

すると、2ちゃんねるの自殺未遂体験を語るスレッドが見つかった。
以前にもちょっと眺めたことはあるが、じっくり読んでみた。

多いのは薬物とリストカットと足がつく場所での首吊りだった。
失敗した原因は、同居人のいる自宅で遂行した、電話やメールで知人にほのめかすかあるいははっきり宣言して助けられた、恐怖で自殺を思いとどまった、などである。

共通しているのは、すべて自分が死ぬ覚悟ができていなかった、死ぬ恐怖に打ち勝てなかったということである。

自殺の話になるとまず言われるのは「自殺なんかしてはいけない。命は授かりものだ。」という自殺罪悪説である。それから、「自殺未遂なんて本気で死ぬつもりなどないのだ。死にたいのならとっとと死ね」という未遂に対する罵倒。そして、「何があったの?死ぬ前に誰かに相談すれば?生きてればいいことあるよ」という心配。

「自殺は素晴らしい」という人はまずいない。
だが、非常に潔く動機も生活苦などではない場合はそれが賞賛される場合もある。
乃木稀典とか、三島由紀夫とかである。

私はこの2人の自殺にも興味を持っていろいろと調べてみたが、あまり手放しでは賞賛できないような事実をいくつか知った。そして、2人の死について否定的な考えを表明している有名人も大勢いることを知った。



調べれば調べるほど、自殺というのは限りなく困難なもので、ほとんど不可能に近いと思えてくる。
ロープを用意し、山の中まで行って首を入れるところまでいってもやめてしまう人がいる。
薬の大量服用については、本人の意志に関係なく吐いてしまい、まず成功することがない。

未遂に終わった場合、「二度と自殺なんかしない」という人が多いが、中には「今度こそ」と考える人もいる。実際、自殺に成功した人は何度か未遂を繰り返した人が多いそうである。



私は自殺を試み未遂に終わる人たちがすべて本気で死のうとしていないとは思わない。
彼らは本当に絶望していて、生きることは苦痛以外の何物でもなく、死ぬしかないと思っている。
しかし、いざ死のうとすると苦痛と恐怖で思いとどまってしまう。

思いとどまるときに、たと…

グリーン車で横の席に荷物を置く人

私は常磐線で通勤しているのだが、最近朝がつらくて、
グリーン車に乗ることが多い。

私が乗る駅では、グリーン車は窓際はまず埋まっている。

窓際に人がいる隣の通路側の席に座る。


だが、そこにカバンを置いている人が非常に多い。

私はそれがとても頭にくる。というか、その神経が理解できない。


なぜそんなことができるのだろうか?

私は休日にもグリーン車に乗ることがあるが、

ガラガラでもとなりの席に荷物など置いたことはない。

なぜなら、グリーン車は有料だからだ。


距離によるが、550円とか770円とか、ランチが食べられるくらいの料金だ。


まあ、ガラガラであれば、カバンを置いても、私はしないが、まあ許せる。

でも、通勤ラッシュ時で、上野につくころにはほぼ満席になる常磐線のグリーン車で、

隣の席に荷物を置くのは許せない。

その荷物をつかんで放り投げたくなる気持ちを懸命に抑える。


時々、そういう人にむかって、「すいません」と言って席を空けてもらって座る人がいる。

謝るのは荷物を置いている方だろ!


そういうときに、荷物を置いている人が謝るのを見たことがない。

私は、絶対に謝らない。そこまでして座りたくない。


が、そういう人がいると、顔をじっと見る。

そうすると、だいたいどける。



最近わかってきたのだが、この行動は無神経であるとか気が利かないというのではなく、

隣に人を座らせたくないので故意にやっているようだ。


なんという、利己的な行為だろう。私はそういう行為が本当に嫌いだ。


私も、なるべく隣に人がいない席を選ぶ。隣に人が来て欲しくないという気持ちはわかる。

でも、だからって荷物を置いて座らせないようにするなんてことは絶対にできない。

そんなことまでしたくない。


昨日は、隣の席に荷物を置いて寝ている人に、「すいません」と声をかけている人がいたのだが、

寝ている人は2、3度声をかけられても起きなかった。

多分、気づいているのに起きなかったのだろう。



私は振り返って、その人がどんな顔をしているか見た。

年齢は私よりやや上、50歳前後だ。

上着を着ずにワイシャツとスラックスの、ごく普通のサラリーマン風の男性である。


特にバカそうでもズルそうでもダメ人間でもだらしない感じでもない。

でも、そういうごく普通の人間が、このような利己的な行為をするものなのである。

これは静かなる暴力と言ってもいい。


キンタマを掴まれる

この話はツイッターで言いたかったのだが、どうしても「キンタマ」と書く勇気が出なかったのでこっちに書く。

私は猥談が嫌いだ。
猥談なんかしていたのは高校生まで。
わけあって私は一切猥談をしなくなった。
飲み会でもしない。飲み会でそういう話題になると貝になる。

そして、「キンタマを掴まれる」という言葉には性的な意味はない。
それは常識かもしれないがやっぱりキンタマなどという言葉を口にすることははばかられる。
わたしも「キンタマ」などという言葉を思い出したのは久しぶりで、懐かしささえ感じた。

なんで思い出したかというと、夢の中でキンタマを掴まれたからだ。
その夢では、わたしは背後にぴったりと誰かが張り付いているのを感じていた。
それは見えないし、ぴったりではあるがそっとなので気のせいかなと思うくらいだ。
だが、間違いなく張り付いていると確信した。だが、それを自分で払いのけることはなぜかできない。

そこで、近くにいた知り合いと思われる人に、「ちょっとこれはがしてくれない?」と頼んだ。

それを頼んだときに掴まれたのか、その前から掴まれていたのかわからないが、
その背後にはりついていた何者かがわたしのキンタマを掴んでいた。
とても痛かった。その痛みは鋭いものではなく、鈍く、重いものだった。

そして結局背後にいるものがはがされないまま、目が覚めた。
その目が覚める瞬間に、キンタマの痛みもすーっと消えていった。
そして、わたしは「あ、これは自分が作り出している幻覚にすぎないな」ということがわかった。