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8月, 2012の投稿を表示しています

ワガママな人たち

http://youtu.be/814rcm4KC5w

911で2機目がWTCにつっこむ映像集である。

「911はアメリカの自作自演である」という人たちがいることは知っていたが、
その手のなんでもかんでも陰謀論とかにしておもしろがる人たちはいつもいるので、
まったく取り合わなかった。


今日、twitterで誰かが911が陰謀であるという映像をリンクしていたので見てみた。

それは、「自作自演である」というだけでなく、「WTCに突入する飛行機はCGだ」という映像であった。

関連動画で、同じようにCGを作っていたり、実際の映像にもう一機の飛行機を並べて突っ込ませている映像などがあった。

また、不鮮明な映像を拡大して「これは旅客機ではなくミサイルだ」などと言っている人もいた。



しかし、とりあえず冒頭にリンクした映像を見ると、これだけの数のさまざまな角度や距離から撮られた映像を見て、すべてがCGであると言える人はいないであろう。


あれらの飛行機がCGであるというのはとりあえず無視するとして、
それでもやはり、自作自演説を唱える人はいる。


私にも説明できない不可解なことはいくつかある。

・ビルがまるで故意に爆破したかのように全壊したこと。
・テロの数ヶ月前に所有者が変わり、新しい所有者が莫大な保険金をかけていてテロの後それを手にしたこと(真偽は不明だがテレビで大々的に放送されたので本当だろう)
・あまりに大掛かりでパイロットの訓練をするなど準備にも莫大な費用や時間がかかっているがそこまでする理由が不明
・飛行機が突入していない、第7ビルもきれいに崩落している。

など。


陰謀説、自作自演説にもいろいろあって、「テロ計画を事前に知っていたがあえて防がなかった」「アルカーイダと共謀した」などという人がいる。


しかし、いろいろ総合してみると、やはりこれはアルカーイダが自分たちの宗教的信念によって起こしたテロであるとしか考えられない。

万一、これが自作自演だと仮定して、あの飛行機をハイジャックしてWTCに突っ込んだ操縦士の役を誰がなんのために引き受けるだろうか?

これはダイアナ妃の事故死の陰謀説についても思ったことである。



確かに911は現実に起きたことが信じられないような事件である。

しかし、その信じられない出来事に対したときに、自作自演だとか陰謀だとか言う人に欠けているものは、それにたずさわる一人ひとりの人間に対する理解である…

えいじ君とまさお君

ある女性タレントが妊娠して、お腹の中の子にダウン症の疑いがあるが産むつもりだ、というニュースを見た。

子供を生むには高齢な女性がダウン症の子供を産む確率はかなり高いそうだ。
具体的な数値は忘れたが、最近ちょっとしらべて驚いた。

私にはよく知っているダウン症の人がいる。
彼は小学校の時、ひとつかふたつ下の学年の子だった。
えいじ君という。
本名である。
たしか漢字で栄治と書く。

えいじ君は、いわゆる「特殊学級」にいた。私の学校では「伊藤学級」「渡辺学級」とかいう、担任の先生の名前のついた学級だ。学年や組番号はない。
私は4年生のとき1組で、4年1組のとなりの教室がたしか伊藤学級だった。
そこにはえいじ君のほか、10人くらいの生徒達がいた。
私は当時はえいじ君がダウン症であるとは知らなかった。
言葉がしゃべれないし行動もおかしいので、何かの病気であろうとは思っていたが。

大学生のとき、ある人に、「ダウン症はみんな同じ顔になる」ということを聞いた。
そしてその顔こそ、えいじ君の顔だった。
バスの中でえいじ君そっくりな顔の子を見て驚いたことがあったが、
ダウン症の子は特徴的な顔をしていて、発見当時はそれがモンゴル人のような顔なので、
「mongolian idiocy(蒙古痴呆症)」などと呼ばれたそうだ。

それを知ったときにはもうえいじ君のことも忘れていた頃だった。
今彼がどうしているのかは知らない。

えいじ君のことを思い出すと、もうひとり、やはり「特殊学級」にいたまさお君を思い出す。
まさお君は私と同じ学年である。彼もほとんど言葉を発することができず、よだれをたらしたり、誰が見ても正常ではないとわかる。


まさお君は、私が30歳の頃、見かけた。

彼は背格好は年齢相当で普通である。ぱっと見は30歳くらいの男性である。
しかし、彼はやはりうつろな表情で、幽霊というかゾンビのように、歩いていた。
畑の中の道で、石を投げたりしていた。

たしか私はそのときタクシーに乗っていたと思う。

まさお君は常軌を逸した行動をするのだが、内向的というか臆病なようなところがあって、
他人に危害を加えるようなことはまったくなかった。石を投げたりするときも、絶対に人に向けて投げることはなかった。


その時も、彼は人通りのない道で、誰もいない畑に向かって力なく、落とすように石を投げていた。

顔はやつれていた。


親御さんはどうしていたのだろうか。


彼は小学生の頃から、い…

休みたければ休もう

「こころの病」などと呼ばれる、「うつ病」、「境界性人格障害」、「統合失調症」など・・・。

こういう病気について、よく「誤解が多い」などといって医師がどういう病気か、どうやって治療するか、何をすべきで何をすべきでないかなどを説明しているのをよく見る。

その一方、「こころの病気などない。全部甘えだ」という、一般人の意見も非常によく見る。
どちらの意見も、聞いてみればもっともである。


私はあるときは医者のいう事に賛同し、あるときは否定論に同意した。

しかし、これほど多くの人に長い間根強く否定されていることは、もはや「誤解」ではすまされない。
これは誤解ではなく、「不可解」というべきだ。


まず感じるひとつの疑問であるが、神経伝達物質の減少(あるいは過剰)を調整するクスリを投与することにより治療するというのをよく聞く。

だが、もし本当にそれが原因であるなら、その病気は「こころの病気」ではなく、「神経の病気」あるいは「脳の病気」と呼ぶべきではないだろうか。

また、その「神経伝達物質の減少」というのは、病気の状態、結果にすぎないのではないか。熱が出たときに熱を下げることは治療ではないように、神経伝達物質を調節することは治療ではない。

など。


その辺の説明はお医者さんたちに任せるとして、
私はうつ病などの人々に対する接し方にも疑問を感じる。

よく言われるのが「『がんばれ』と言ってはいけない」ということである。疲れて動けない人に気合で動けというようなものだからいけない、というのはわかるが、このことが少し拡大解釈され、今では普通の人にさえ「がんばれ」ということがタブーになっているような雰囲気すら感じる。

仕事が忙しいとき、何か困難があったときに「がんばれ」と励ますことは「精神論だ』などといわれて嫌な顔をされる。もちろん、その「精神論」というのは否定的な意味だ。いまや精神論を語ることは日本ではタブーとなってしまった。



それからもうひとつ、「がんばれ」というのよりもっと危険だと思うのが、「あなたは病気じゃない」という言い方。私はこういうことを言う人をよく見てきた。こういう事をいうのは家族とか、ごく親しい人、職場の人間などその人のことをよく知っている人がよくいう言葉だ。似たものに「世の中にはもっと大変な病気を抱えている人がいる」という言葉がある。


本人は不安や無力感や恐怖など、なにかに押しつぶされそうになっている。医者に…

無罪

これは別に目新しいことでもなんでもないが、
多くの人が忘れているかわかっていないと思うのであえて書く。

「無罪」というのは、ある人に罪がないことを言うのではない。
「罪があることを立証できない」というだけのことである。

「無罪」であることを証明するのに、その人がその罪を、たとえば殺人であれば人を殺していないことを証明する必要はない。
もちろん、それが証明できるなら無罪の証明にはなる。

だが、法律上、裁判である人がある事件について罪があるかないかを争うには、そこまでする必要はない。その人が人を殺したことが立証できない、つまり、その人が犯人だとする証拠が無力であることを証明しさえすればよいのである。

「自白は証拠にならない」ということは皆さんご存知であろう。
たとえば取調べで脅迫されたとか、誰かの身代わりに犯人になったとか、
そういうことがあり得るからである。


ですから、裁判で無罪判決が出たときに、「身の潔白が証明された」というのは間違いなのである。
裁判での無罪というのは、そこまでのものではないのである。

デジタルの目的

最近はパソコンやiPhoneなどの携帯端末の解像度が高くなって、高画質の写真や動画がストレスなく見られるようになった。

私は最近、tumblrを見るようになった。写真がほとんどであるが、たまに古い絵画が混じっている。それを見るととても落ち着くのを感じる。

最近はCGとか3Dとかフィギュアとかアイコンとかの「デジタルなグラフィック」に囲まれて過ごしている。

「デジタルなもの」というのは、雑音がなく、正確で、容易に大量複製や加工が可能である。

これはある意味すっきりして「気持ちがいい」ものである。


ところが、「デジタルなもの」ばかりを見たり聴いたりしていると、なぜかイライラしてくる。いくら冷たいものを飲んでも喉の渇きが癒えないときのようなどうしようもない絶望に近いイライラを感じてくる。


そういうときに、古い絵画を見ると、すっと落ち着く。

私は単に、「デジタルは自然な美しさではない」とかいうアナログ懐古論を述べようとしているのではない。

最近あらためて気づいたのであるが、古い絵画を表示しているのもパソコンやらiPhoneというデジタルデバイスなのである。


私は若い頃、コンピュータグラフィックスというものに非常に感動した。それも、最近、映画で使われているような「ホンモノと区別がつかないリアルな絵」のようなものではなく、もっと単純な、フラクタル画像みたいな、「計算によって書かれた絵」である。

そういう感動は今でもある。今でもそういう「デジタル美」というものを求めるところはある。

しかし、減ってきている。



iPhoneで見るピカソの「アヴィニヨンの娘たち」は、デジタルデバイスで見るjpgファイルというデジタルコンテンツである。

アメーバピグのキャラクタと同じように、小さなドットの集まりである。

だが、そのドットが極小で膨大になったときに、ドットの存在は忘れてしまう。


小学生の頃、インベーダーゲームのインベーダーを方眼紙のマスをエンピツで塗りつぶして書いたことがある。
真っ白な紙にエンピツで絵を書くことも大好きだったが、方眼紙でドット絵を描くのはまた違った喜びだった。




何がいいたいかというと、私が感じていた「デジタル美」というのは、サブカルチャーのようなものではないかということである。


「サブカルチャー」という言葉も、今ではいろんな意味を持っているが、基本的にわたしは「ホンモノではない文化」と捉えている。アニメが…

治安

最近、2人の日本人女性が外国で亡くなったことが、新聞などで大きく報じられた。

一人はシリアでなくなったジャーナリストで、もう一人はルーマニアで殺された女子大生である。


私は全く面識のない人がなくなったときに「ご冥福をお祈りします」などということを、ブログとかtwitterに書かない。口頭でも言わない。「ご冥福をお祈りする」という言葉自体が嫌いだ。

人が死ぬのが悲しくつらいのは、3つの理由がある。1つは、死ぬ際に痛みや苦しみを伴うこと。もうひとつは、その人の人生が終わってしまうこと。3つめは、家族や友人と別れてしまうこと。

私は、その中でももっとも大きいのは死ぬときの本人の苦痛だと思う。

だが、人が亡くなったときの人々の反応には、「つらかったろうに、かわいそうに」という声が少ない。特に最近少なくなったように思う。


今回の2人の女性は残酷な殺され方をした。苦しく、痛かったであろう。

ジャーナリストは銃撃されたそうだが、これは戦争状態にある国のことだから、ある意味仕方のないことだ。本人も危険を承知で現地に行っていたはずである。

女子大生の方は、戦争中でこそないが、異国に一人で旅するという危険をおかしている。
私は最初にこのニュースを聴いたときはこの女性が無謀だったのではないかと感じたのだが、
続報を聞いているうちに、犯人の男がどうしてこんなことをしたのかということに疑問を持ち始めた。

この事件については、ルーマニアの人々も驚いているという。犯人は女性を殺して遺体を捨てた上に持ち物を売るなどしていたそうで、終身刑になるだろうと言われている。

若い女性が外国で一人旅をするのは危険というが、そういう「危険」をもたらす加害者はどういう存在なのだろうか。どの国にも、野良犬のようにそういう危険人物が潜んでいるのだろうか。

でも、どうして外国人だと危険なのだろうか?日本のように治安がよくない、という意味だろうか?

言葉が通じないし習慣も違うからコミュニケーションがうまくいかずいざこざが起きるのだろうか?


今回の事件では、男は女子大生と一緒にタクシーに乗るのを目撃されている。
当然タクシー運転手も見ている。

ニュースを聞いただけだと、男は最初から殺して金品を奪うつもりで女子大生に近づいたかのような印象があるが、それにしてもあまりに無防備というか無計画すぎる。
森の中にあったという遺体も道から数メートルのところで、人通りが…

新大久保

私は週末などによく新大久保駅を利用する。

新大久保駅というのは、歌舞伎町から新宿とだいたい等距離ぐらいの場所にある。

この前、とても混雑していたので駅員に「何かあったんですか?」と聞いたら、「韓流ブームです」と言われた。

私が新大久保を利用するようになってから、日に日に利用客が増えていると感じる。

周辺の道路も整備され、新しく信号ができたりした。



新大久保といえば忘れられない事件がある。

もう10年くらい前になるが、新大久保駅のホームから人が転落し、それを助けようと2人の人がホームから降りて、3人とも亡くなった。

私は自分がよく利用するあの駅で起きた事件ということで非常にショックであった。

そして、人身事故はしょっちゅう起きているが、落ちた人を助けようとする人など滅多にいないのに珍しいなとも思った。

助けようとした一人は日本人、もうひとりは韓国人だったという。

新大久保周辺はコリアンタウンであり、歩いていると半分かそれ以上が韓国人である。



3人もの人がなくなった痛ましい事故現場というのは、なんだか縁起が悪いというか近寄りたくないと感じるものだが、この事件に関してはそういうことが一切ない。

わたしは新大久保駅に降りるとこの事件を必ず思い出すが、あまり嫌な気分にはならない。

なくなった方、その遺族の方にしてみればつらい記憶であろうが、
でも、その死というのは非常に尊いものである。

人の命を救おうとして、自分の命を顧みずに飛び込んだ。



不幸な出来事があった場所というのは、さびれてしまうのではないかと思う。
殺人事件があった家とか、住人が自殺した部屋などには誰でも住みたくないだろう。

でも、新大久保駅は、あれから10年経って、人であふれかえっている。
あの事故の影響がないどころか、むしろあの事故によって新大久保駅が活性化されたかのようにすら思える。

こんな言い方は亡くなった方に失礼だと思われてしまうかもしれないが、
私はまったく悪気はなく、そのように感じる。


この事故では結局、落ちた人を助けることはできなかった。

もし、2人が線路に下りずにいたら、2人は自分の人生を歩み、仕事をし、家族とすごし、
自分にも他人にも、幸せをもたらしただろう。

その人生が絶たれてしまったことは悲しい、かわいそうなことである。


でも、「2人は線路に下りるべきではなかった」と言えるだろうか?

2人の行為は愚かなことだっただろうか?



さいきん、駅のホーム…

知恵袋的なサイトの不快さ

何か調べ物をしていると、「Yahoo!知恵袋」が検索結果に表示されることがよくある。「Yahoo!」だけでなく、OK Waveとか、教えて!gooとか、発言小町とか、こういう匿名性の質問と回答サイトは最近たくさんある。


いちおう見てはみるが、ほとんど参考にならない。

参考にならないだけでなく、私はよくこの種の「知恵袋サイト」を見て不快感を覚える。



不快感を覚える理由はいくつかある。

・根拠のないいい加減な回答
・質問者の態度を諭すような説教じみた回答
・答えを知らないで、そんなの自分で調べろとかこんなところで聞くな、というだけの回答



質問者に不快を覚えることはほとんどない。


どうしてこうなるのか。
それは、回答者が回答したいという思いがないのに、義務的に回答している、
とりあえずなんか言っておこう、みたいな態度を感じる。


この手のさいとは匿名性+ポイント制になっている。参考になる回答をした回答者にはポイントがついて、「この回答者は信頼できる」という指標になる。

Amazonのレビューなどもこのしくみである。

匿名であっても、その発言者のユニーク性は保証されている。



2ちゃんねるとか、完全匿名性とは少し雰囲気が違うのはそのせいであろう。
一見、良心的で「まとも」な回答が多いように見える。


しかし、わたしは「知恵袋」にも2ちゃんねると同じかそれ以下の虫唾の走る思いを感じている。


それは、「ポイント制」のせいである。完全匿名制で、自分の発言になんの評価もくだされないなら人は言いっぱなしになるが、中途半端にまともな発言をして自分の好感度をあげようということも不可能である。


ところが知恵袋サイトでは、極端な悪口雑言がないかわりに、自分のポイントを少しでも稼ごうと言うような無難で無価値な発言が増える。これがなんとも言えない不快感を感じさせる。


また、これはあきらかにやらせだろう、ネタだろう、というような質問もよく見る。

この手のサイトの主催者よ、あなたたちは世間に相当バカにされていることを知ったほうがいい。



私がうまくやっていけない理由

最近職場で接する人々との関係が悪化することがよくある。

まあ、にんげんだもの、意見の相違やケンカはしかたのないことだろう。

しかし私は、そういうイザコザに、たんなるケンカとはちょっと違うものを感じる。

これは強く感じていたことなのであるが、漠然としていて、説明が難しいのでこれまで誰にも話さなかったし書いたこともなかった。


ケンカが起こるひとつの理由はポリシーの違いである。
ある場合にAをするかBをするかで意見の対立が起こる。
それはしかたのないことかもしれないが、
そのときに、Aを主張する人が、「なんでAをしないんですか?Aをしましょうよ?」
というような言い方をするのが最近よくある言い方である。

「Aをするとこういうメリットがある。BはこういうリスクがあるからAを選ぶべきだ」
というような話し方をしない。

「Aに決まってんじゃん。なんでBなの。ありえない!」

常にこういう態度である。だから、論戦と言ってもみんなニヤニヤしている。
積極的に自分のポリシーを主張したり、こうすれば成功するからどうか協力してくれ、
というような必死さもない。

「俺はAしかないと思うけどな・・・Bでいいの?じゃあやれば、知らないよ俺は」

みたいな言い方をする。

要するに、みんなは結果などどうでもいいのである。
自分の主張をするだけ。それが吉とでるか凶と出るかは問わない。

Aを主張した人が、譲歩してBが実施されそれが成功したときに、
なんの恥じることもしない。「へー、Bでもいけるんだ。」というような、
たまたま成功したんだろ、みたいな態度をとる。
「A説を主張してた俺が間違ってたな、エヘヘヘ・・・」とアタマをかくようなことはしない。


どうしてこうなったのだろうか?

どうして私はそうならなかったのだろうか?


この2者の違いには、人々が理解しあうということについての基本的な認識の差がある。

それは、「人と人は話せばわかるものだ」という認識と、「人と人はまずわかりあえない」という違いである。


性善説と性悪説と似たものである。

同じ人間なのだからわざわざ説明しなくても常識的なことであれば理解しあえる、という考えと、


他人は自分とは違うのだから、自分が当たり前だと思っていることでも説明し相手の意見も拝聴したのちにどうするかを決定する、という考えである。


常識という物は重要である。私は、「常識なんて不明確なものは存在しない」などというつもりはない。常識は確固と…