スキップしてメイン コンテンツに移動

ワガママな人たち

http://youtu.be/814rcm4KC5w

911で2機目がWTCにつっこむ映像集である。

「911はアメリカの自作自演である」という人たちがいることは知っていたが、
その手のなんでもかんでも陰謀論とかにしておもしろがる人たちはいつもいるので、
まったく取り合わなかった。


今日、twitterで誰かが911が陰謀であるという映像をリンクしていたので見てみた。

それは、「自作自演である」というだけでなく、「WTCに突入する飛行機はCGだ」という映像であった。

関連動画で、同じようにCGを作っていたり、実際の映像にもう一機の飛行機を並べて突っ込ませている映像などがあった。

また、不鮮明な映像を拡大して「これは旅客機ではなくミサイルだ」などと言っている人もいた。



しかし、とりあえず冒頭にリンクした映像を見ると、これだけの数のさまざまな角度や距離から撮られた映像を見て、すべてがCGであると言える人はいないであろう。


あれらの飛行機がCGであるというのはとりあえず無視するとして、
それでもやはり、自作自演説を唱える人はいる。


私にも説明できない不可解なことはいくつかある。

・ビルがまるで故意に爆破したかのように全壊したこと。
・テロの数ヶ月前に所有者が変わり、新しい所有者が莫大な保険金をかけていてテロの後それを手にしたこと(真偽は不明だがテレビで大々的に放送されたので本当だろう)
・あまりに大掛かりでパイロットの訓練をするなど準備にも莫大な費用や時間がかかっているがそこまでする理由が不明
・飛行機が突入していない、第7ビルもきれいに崩落している。

など。


陰謀説、自作自演説にもいろいろあって、「テロ計画を事前に知っていたがあえて防がなかった」「アルカーイダと共謀した」などという人がいる。


しかし、いろいろ総合してみると、やはりこれはアルカーイダが自分たちの宗教的信念によって起こしたテロであるとしか考えられない。

万一、これが自作自演だと仮定して、あの飛行機をハイジャックしてWTCに突っ込んだ操縦士の役を誰がなんのために引き受けるだろうか?

これはダイアナ妃の事故死の陰謀説についても思ったことである。



確かに911は現実に起きたことが信じられないような事件である。

しかし、その信じられない出来事に対したときに、自作自演だとか陰謀だとか言う人に欠けているものは、それにたずさわる一人ひとりの人間に対する理解である。くだけた言葉で言うと、「自分がその人だったらどうか」という洞察力のなさである。


自分がアメリカ大統領だったら、国務長官だったら、中継しているアナウンサーだったら、カメラマンだったら、テロリストだったら、首謀者だったら、ビルの所有者だったら、・・・・


世の中には自分の想像を絶する悪人や理解できない行動をする人間はいるだろう。

しかし、そういう人々があるひとつの事を実現するために協力して行動することなどありえない。

ひとりひとりは血も涙もなく理性もなく、自分の利益のため保身のためあるいは自分が所属する組織の命令のためになんでもする人間なのに、どうして「アメリカが石油利権を獲得するための壮大な擬似テロリズム」には協力するのだろうか?


私がおかしいと思うのは、まずは一人ひとりの人間に対する期待の低さ、みなケダモノか何かのように利己的に行動するという人間観なのだが、
さらに、そういう人間が悪の遂行には自分を犠牲にして忠実に利他的に行動するという都合のよい仮定をすることに疑問を持ち、腹も立つ。



日本の311の地震は「人工地震であった」と、堂々と主張する人もいる。
私も、どうしてあんなに原発周辺に集中して地震が起きたのか、まるで狙いすましたかのようだ、
と疑問に思ったことはあったが、人工地震を起こすなどという行為をする目的や動機が想像できないので、そんなことはないだろうな、と思うのである。



人工地震説は極端だが、福島の原発の状況について政府や東京電力が真実を隠しているという人は多い。
私は真実を知らない。現場を見たわけでもない。枝野さんの言うこと、保安院とやらの人の言うこと、ニュースキャスターの言うこと、解説員の言うこと、ジャーナリストの言うこと、大学教授の言うこと、俳優の言うこと、名も知らぬ匿名アカウントがtwitterで言うこと、それらの誰が正しくて誰が間違っているのか、あるいは故意にウソをついているのか、たんなる思い込みなのか、ふざけ半分のデマなのか、わからない。


誰でも自分の生活は大事で、保身ということは考えるだろう。しかしそれと同じように、誰にも何かに貢献したいという気持ち、真実を知りたいという気持ち、偽りを憎む気持ちもある。


一般市民が真実を求める気持ちだけは純粋で、官房長官とか東京電力の責任者の人たちの発言は邪(よこしま)であると、どうして決め付けるのだろうか?その人の地位が、その人に真実を言わせないのだろうか?



私は、なんでもかんでも情報は公開すべきだとは思わない。たとえ事実であっても、真実であっても、言うべきでないことはある。むやみに情報を垂れ流すことはパニックを生むことにもなりかねない。


真実を、事実を求めるのは当然であるが、それがすべて公開されるのが当然だと考えるのは間違っている。あなたがただって、自分の仕事をしていて、業務上他言できない情報などがあるはずだ。お客さんに無理難題を言われても、自分ではどうにもならずにひたすら頭をさげるしかないというような状況があるはずだ。


ここでもやはり、「人の立場に立って考える」という能力のなさ、その意志のなさが見える。

もっと簡単にいうと、みんなワガママなのだ。




















このブログの人気の投稿

死を望む人の死生観

最近は死にたい気持ちがいっそう募ってきた。単なる慣用句また感動詞としての「死にたい」ではなく、本格的な「希死念慮」という奴である。

そしてまた自殺の方法を調べた。恐怖と苦痛が少なく迷惑もかけない死に方はないか・・・。

すると、2ちゃんねるの自殺未遂体験を語るスレッドが見つかった。
以前にもちょっと眺めたことはあるが、じっくり読んでみた。

多いのは薬物とリストカットと足がつく場所での首吊りだった。
失敗した原因は、同居人のいる自宅で遂行した、電話やメールで知人にほのめかすかあるいははっきり宣言して助けられた、恐怖で自殺を思いとどまった、などである。

共通しているのは、すべて自分が死ぬ覚悟ができていなかった、死ぬ恐怖に打ち勝てなかったということである。

自殺の話になるとまず言われるのは「自殺なんかしてはいけない。命は授かりものだ。」という自殺罪悪説である。それから、「自殺未遂なんて本気で死ぬつもりなどないのだ。死にたいのならとっとと死ね」という未遂に対する罵倒。そして、「何があったの?死ぬ前に誰かに相談すれば?生きてればいいことあるよ」という心配。

「自殺は素晴らしい」という人はまずいない。
だが、非常に潔く動機も生活苦などではない場合はそれが賞賛される場合もある。
乃木稀典とか、三島由紀夫とかである。

私はこの2人の自殺にも興味を持っていろいろと調べてみたが、あまり手放しでは賞賛できないような事実をいくつか知った。そして、2人の死について否定的な考えを表明している有名人も大勢いることを知った。



調べれば調べるほど、自殺というのは限りなく困難なもので、ほとんど不可能に近いと思えてくる。
ロープを用意し、山の中まで行って首を入れるところまでいってもやめてしまう人がいる。
薬の大量服用については、本人の意志に関係なく吐いてしまい、まず成功することがない。

未遂に終わった場合、「二度と自殺なんかしない」という人が多いが、中には「今度こそ」と考える人もいる。実際、自殺に成功した人は何度か未遂を繰り返した人が多いそうである。



私は自殺を試み未遂に終わる人たちがすべて本気で死のうとしていないとは思わない。
彼らは本当に絶望していて、生きることは苦痛以外の何物でもなく、死ぬしかないと思っている。
しかし、いざ死のうとすると苦痛と恐怖で思いとどまってしまう。

思いとどまるときに、たと…

グリーン車で横の席に荷物を置く人

私は常磐線で通勤しているのだが、最近朝がつらくて、
グリーン車に乗ることが多い。

私が乗る駅では、グリーン車は窓際はまず埋まっている。

窓際に人がいる隣の通路側の席に座る。


だが、そこにカバンを置いている人が非常に多い。

私はそれがとても頭にくる。というか、その神経が理解できない。


なぜそんなことができるのだろうか?

私は休日にもグリーン車に乗ることがあるが、

ガラガラでもとなりの席に荷物など置いたことはない。

なぜなら、グリーン車は有料だからだ。


距離によるが、550円とか770円とか、ランチが食べられるくらいの料金だ。


まあ、ガラガラであれば、カバンを置いても、私はしないが、まあ許せる。

でも、通勤ラッシュ時で、上野につくころにはほぼ満席になる常磐線のグリーン車で、

隣の席に荷物を置くのは許せない。

その荷物をつかんで放り投げたくなる気持ちを懸命に抑える。


時々、そういう人にむかって、「すいません」と言って席を空けてもらって座る人がいる。

謝るのは荷物を置いている方だろ!


そういうときに、荷物を置いている人が謝るのを見たことがない。

私は、絶対に謝らない。そこまでして座りたくない。


が、そういう人がいると、顔をじっと見る。

そうすると、だいたいどける。



最近わかってきたのだが、この行動は無神経であるとか気が利かないというのではなく、

隣に人を座らせたくないので故意にやっているようだ。


なんという、利己的な行為だろう。私はそういう行為が本当に嫌いだ。


私も、なるべく隣に人がいない席を選ぶ。隣に人が来て欲しくないという気持ちはわかる。

でも、だからって荷物を置いて座らせないようにするなんてことは絶対にできない。

そんなことまでしたくない。


昨日は、隣の席に荷物を置いて寝ている人に、「すいません」と声をかけている人がいたのだが、

寝ている人は2、3度声をかけられても起きなかった。

多分、気づいているのに起きなかったのだろう。



私は振り返って、その人がどんな顔をしているか見た。

年齢は私よりやや上、50歳前後だ。

上着を着ずにワイシャツとスラックスの、ごく普通のサラリーマン風の男性である。


特にバカそうでもズルそうでもダメ人間でもだらしない感じでもない。

でも、そういうごく普通の人間が、このような利己的な行為をするものなのである。

これは静かなる暴力と言ってもいい。


キンタマを掴まれる

この話はツイッターで言いたかったのだが、どうしても「キンタマ」と書く勇気が出なかったのでこっちに書く。

私は猥談が嫌いだ。
猥談なんかしていたのは高校生まで。
わけあって私は一切猥談をしなくなった。
飲み会でもしない。飲み会でそういう話題になると貝になる。

そして、「キンタマを掴まれる」という言葉には性的な意味はない。
それは常識かもしれないがやっぱりキンタマなどという言葉を口にすることははばかられる。
わたしも「キンタマ」などという言葉を思い出したのは久しぶりで、懐かしささえ感じた。

なんで思い出したかというと、夢の中でキンタマを掴まれたからだ。
その夢では、わたしは背後にぴったりと誰かが張り付いているのを感じていた。
それは見えないし、ぴったりではあるがそっとなので気のせいかなと思うくらいだ。
だが、間違いなく張り付いていると確信した。だが、それを自分で払いのけることはなぜかできない。

そこで、近くにいた知り合いと思われる人に、「ちょっとこれはがしてくれない?」と頼んだ。

それを頼んだときに掴まれたのか、その前から掴まれていたのかわからないが、
その背後にはりついていた何者かがわたしのキンタマを掴んでいた。
とても痛かった。その痛みは鋭いものではなく、鈍く、重いものだった。

そして結局背後にいるものがはがされないまま、目が覚めた。
その目が覚める瞬間に、キンタマの痛みもすーっと消えていった。
そして、わたしは「あ、これは自分が作り出している幻覚にすぎないな」ということがわかった。