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2012年8月24日金曜日

デジタルの目的

最近はパソコンやiPhoneなどの携帯端末の解像度が高くなって、高画質の写真や動画がストレスなく見られるようになった。

私は最近、tumblrを見るようになった。写真がほとんどであるが、たまに古い絵画が混じっている。それを見るととても落ち着くのを感じる。

最近はCGとか3Dとかフィギュアとかアイコンとかの「デジタルなグラフィック」に囲まれて過ごしている。

「デジタルなもの」というのは、雑音がなく、正確で、容易に大量複製や加工が可能である。

これはある意味すっきりして「気持ちがいい」ものである。


ところが、「デジタルなもの」ばかりを見たり聴いたりしていると、なぜかイライラしてくる。いくら冷たいものを飲んでも喉の渇きが癒えないときのようなどうしようもない絶望に近いイライラを感じてくる。


そういうときに、古い絵画を見ると、すっと落ち着く。

私は単に、「デジタルは自然な美しさではない」とかいうアナログ懐古論を述べようとしているのではない。

最近あらためて気づいたのであるが、古い絵画を表示しているのもパソコンやらiPhoneというデジタルデバイスなのである。


私は若い頃、コンピュータグラフィックスというものに非常に感動した。それも、最近、映画で使われているような「ホンモノと区別がつかないリアルな絵」のようなものではなく、もっと単純な、フラクタル画像みたいな、「計算によって書かれた絵」である。

そういう感動は今でもある。今でもそういう「デジタル美」というものを求めるところはある。

しかし、減ってきている。



iPhoneで見るピカソの「アヴィニヨンの娘たち」は、デジタルデバイスで見るjpgファイルというデジタルコンテンツである。

アメーバピグのキャラクタと同じように、小さなドットの集まりである。

だが、そのドットが極小で膨大になったときに、ドットの存在は忘れてしまう。


小学生の頃、インベーダーゲームのインベーダーを方眼紙のマスをエンピツで塗りつぶして書いたことがある。
真っ白な紙にエンピツで絵を書くことも大好きだったが、方眼紙でドット絵を描くのはまた違った喜びだった。




何がいいたいかというと、私が感じていた「デジタル美」というのは、サブカルチャーのようなものではないかということである。


「サブカルチャー」という言葉も、今ではいろんな意味を持っているが、基本的にわたしは「ホンモノではない文化」と捉えている。アニメがダメとかマンガがダメとかいうのではない。文化にはホンモノとニセモノがある、ということである。


そういう意味で、「デジタル美」というのはホンモノの美ではない、と思う。


「これはデジタルであれはアナログ」という区別自体が間違っている。
「アナログな人だなあ」とか、「デジタルじゃないなあ」とか、
先進的と後進的みたいな意味で使われることがあるが、
今われわれは、高性能デジタルデバイスで音声とか文字とか写真とか絵とかの「アナログな」コンテンツを楽しんでいるのである。


技術が向上すればするほど、コンテンツは「アナログ化」していく。


デジタル機器が登場した頃の、8ビットコンピュータのドットの粗い絵とか、PCMだかFM音源のいかにもコンピューターっぽい音楽とかいうものは、発展途上のデジタル技術の副産物であって、目指していたものではなかった。


キャンバスに油絵で描く絵を肉眼で見るときに、「解像度」はない。

今はパソコンで写真を見ても、実物を見ても、ほとんど区別がつかないくらいに解像度はあがった。


デジタルの目的はそこにある。

100年後、いや20年後には、「デジタル」という言葉は死語になっているだろう。


いや、10年後かな。