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休みたければ休もう

「こころの病」などと呼ばれる、「うつ病」、「境界性人格障害」、「統合失調症」など・・・。

こういう病気について、よく「誤解が多い」などといって医師がどういう病気か、どうやって治療するか、何をすべきで何をすべきでないかなどを説明しているのをよく見る。

その一方、「こころの病気などない。全部甘えだ」という、一般人の意見も非常によく見る。
どちらの意見も、聞いてみればもっともである。


私はあるときは医者のいう事に賛同し、あるときは否定論に同意した。

しかし、これほど多くの人に長い間根強く否定されていることは、もはや「誤解」ではすまされない。
これは誤解ではなく、「不可解」というべきだ。


まず感じるひとつの疑問であるが、神経伝達物質の減少(あるいは過剰)を調整するクスリを投与することにより治療するというのをよく聞く。

だが、もし本当にそれが原因であるなら、その病気は「こころの病気」ではなく、「神経の病気」あるいは「脳の病気」と呼ぶべきではないだろうか。

また、その「神経伝達物質の減少」というのは、病気の状態、結果にすぎないのではないか。熱が出たときに熱を下げることは治療ではないように、神経伝達物質を調節することは治療ではない。

など。


その辺の説明はお医者さんたちに任せるとして、
私はうつ病などの人々に対する接し方にも疑問を感じる。

よく言われるのが「『がんばれ』と言ってはいけない」ということである。疲れて動けない人に気合で動けというようなものだからいけない、というのはわかるが、このことが少し拡大解釈され、今では普通の人にさえ「がんばれ」ということがタブーになっているような雰囲気すら感じる。

仕事が忙しいとき、何か困難があったときに「がんばれ」と励ますことは「精神論だ』などといわれて嫌な顔をされる。もちろん、その「精神論」というのは否定的な意味だ。いまや精神論を語ることは日本ではタブーとなってしまった。



それからもうひとつ、「がんばれ」というのよりもっと危険だと思うのが、「あなたは病気じゃない」という言い方。私はこういうことを言う人をよく見てきた。こういう事をいうのは家族とか、ごく親しい人、職場の人間などその人のことをよく知っている人がよくいう言葉だ。似たものに「世の中にはもっと大変な病気を抱えている人がいる」という言葉がある。


本人は不安や無力感や恐怖など、なにかに押しつぶされそうになっている。医者に行くとあなたは病気であるといわれ、仕事を休みクスリを服用するように言われる。そんな人に「あなたは病気じゃない」ということは熱を出して寝ているひとに「カゼくらいで休むな」というようなものである。


こころの病は見た目は病気のように見えないことがある。しかし、この病気の恐ろしさは高確率で自殺をするところにある。最初にいろんな病名をあげたが、要するに全部、「死にたくなる病気」と言える。こんなに高確率で死ぬのは、医者としては病気として扱わざるを得ない。


ですから、この手の病気の人と接するときは、とにかく自殺をさせないことだ。罪悪感を感じさせないこと。私は自殺のもっとも大きな理由は罪悪感だと思う。「おまえは病気じゃないのに病気といって休んでいる」ということは、非常に大きな罪悪感を背負わせる。



べつに、仮病だっていいじゃないか。
あなただって、二日酔いとか、どうしても起きれなくて仮病で休んだことが一度や二度はあるだろう?


たかが仕事じゃないか。たかが学校じゃないか。
数ヶ月でも数年でも、どうしてもいけなければ休んでいればいい。
世の中仕事がない人であふれてるそうだから。
高いお金をだして塾に行って受験料を払って学校に競争して入るんだから。

あなたの代わりに働いて、学校に行ってくれる人なんかいっぱいいるさ。


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死を望む人の死生観

最近は死にたい気持ちがいっそう募ってきた。単なる慣用句また感動詞としての「死にたい」ではなく、本格的な「希死念慮」という奴である。

そしてまた自殺の方法を調べた。恐怖と苦痛が少なく迷惑もかけない死に方はないか・・・。

すると、2ちゃんねるの自殺未遂体験を語るスレッドが見つかった。
以前にもちょっと眺めたことはあるが、じっくり読んでみた。

多いのは薬物とリストカットと足がつく場所での首吊りだった。
失敗した原因は、同居人のいる自宅で遂行した、電話やメールで知人にほのめかすかあるいははっきり宣言して助けられた、恐怖で自殺を思いとどまった、などである。

共通しているのは、すべて自分が死ぬ覚悟ができていなかった、死ぬ恐怖に打ち勝てなかったということである。

自殺の話になるとまず言われるのは「自殺なんかしてはいけない。命は授かりものだ。」という自殺罪悪説である。それから、「自殺未遂なんて本気で死ぬつもりなどないのだ。死にたいのならとっとと死ね」という未遂に対する罵倒。そして、「何があったの?死ぬ前に誰かに相談すれば?生きてればいいことあるよ」という心配。

「自殺は素晴らしい」という人はまずいない。
だが、非常に潔く動機も生活苦などではない場合はそれが賞賛される場合もある。
乃木稀典とか、三島由紀夫とかである。

私はこの2人の自殺にも興味を持っていろいろと調べてみたが、あまり手放しでは賞賛できないような事実をいくつか知った。そして、2人の死について否定的な考えを表明している有名人も大勢いることを知った。



調べれば調べるほど、自殺というのは限りなく困難なもので、ほとんど不可能に近いと思えてくる。
ロープを用意し、山の中まで行って首を入れるところまでいってもやめてしまう人がいる。
薬の大量服用については、本人の意志に関係なく吐いてしまい、まず成功することがない。

未遂に終わった場合、「二度と自殺なんかしない」という人が多いが、中には「今度こそ」と考える人もいる。実際、自殺に成功した人は何度か未遂を繰り返した人が多いそうである。



私は自殺を試み未遂に終わる人たちがすべて本気で死のうとしていないとは思わない。
彼らは本当に絶望していて、生きることは苦痛以外の何物でもなく、死ぬしかないと思っている。
しかし、いざ死のうとすると苦痛と恐怖で思いとどまってしまう。

思いとどまるときに、たと…

グリーン車で横の席に荷物を置く人

私は常磐線で通勤しているのだが、最近朝がつらくて、
グリーン車に乗ることが多い。

私が乗る駅では、グリーン車は窓際はまず埋まっている。

窓際に人がいる隣の通路側の席に座る。


だが、そこにカバンを置いている人が非常に多い。

私はそれがとても頭にくる。というか、その神経が理解できない。


なぜそんなことができるのだろうか?

私は休日にもグリーン車に乗ることがあるが、

ガラガラでもとなりの席に荷物など置いたことはない。

なぜなら、グリーン車は有料だからだ。


距離によるが、550円とか770円とか、ランチが食べられるくらいの料金だ。


まあ、ガラガラであれば、カバンを置いても、私はしないが、まあ許せる。

でも、通勤ラッシュ時で、上野につくころにはほぼ満席になる常磐線のグリーン車で、

隣の席に荷物を置くのは許せない。

その荷物をつかんで放り投げたくなる気持ちを懸命に抑える。


時々、そういう人にむかって、「すいません」と言って席を空けてもらって座る人がいる。

謝るのは荷物を置いている方だろ!


そういうときに、荷物を置いている人が謝るのを見たことがない。

私は、絶対に謝らない。そこまでして座りたくない。


が、そういう人がいると、顔をじっと見る。

そうすると、だいたいどける。



最近わかってきたのだが、この行動は無神経であるとか気が利かないというのではなく、

隣に人を座らせたくないので故意にやっているようだ。


なんという、利己的な行為だろう。私はそういう行為が本当に嫌いだ。


私も、なるべく隣に人がいない席を選ぶ。隣に人が来て欲しくないという気持ちはわかる。

でも、だからって荷物を置いて座らせないようにするなんてことは絶対にできない。

そんなことまでしたくない。


昨日は、隣の席に荷物を置いて寝ている人に、「すいません」と声をかけている人がいたのだが、

寝ている人は2、3度声をかけられても起きなかった。

多分、気づいているのに起きなかったのだろう。



私は振り返って、その人がどんな顔をしているか見た。

年齢は私よりやや上、50歳前後だ。

上着を着ずにワイシャツとスラックスの、ごく普通のサラリーマン風の男性である。


特にバカそうでもズルそうでもダメ人間でもだらしない感じでもない。

でも、そういうごく普通の人間が、このような利己的な行為をするものなのである。

これは静かなる暴力と言ってもいい。


キンタマを掴まれる

この話はツイッターで言いたかったのだが、どうしても「キンタマ」と書く勇気が出なかったのでこっちに書く。

私は猥談が嫌いだ。
猥談なんかしていたのは高校生まで。
わけあって私は一切猥談をしなくなった。
飲み会でもしない。飲み会でそういう話題になると貝になる。

そして、「キンタマを掴まれる」という言葉には性的な意味はない。
それは常識かもしれないがやっぱりキンタマなどという言葉を口にすることははばかられる。
わたしも「キンタマ」などという言葉を思い出したのは久しぶりで、懐かしささえ感じた。

なんで思い出したかというと、夢の中でキンタマを掴まれたからだ。
その夢では、わたしは背後にぴったりと誰かが張り付いているのを感じていた。
それは見えないし、ぴったりではあるがそっとなので気のせいかなと思うくらいだ。
だが、間違いなく張り付いていると確信した。だが、それを自分で払いのけることはなぜかできない。

そこで、近くにいた知り合いと思われる人に、「ちょっとこれはがしてくれない?」と頼んだ。

それを頼んだときに掴まれたのか、その前から掴まれていたのかわからないが、
その背後にはりついていた何者かがわたしのキンタマを掴んでいた。
とても痛かった。その痛みは鋭いものではなく、鈍く、重いものだった。

そして結局背後にいるものがはがされないまま、目が覚めた。
その目が覚める瞬間に、キンタマの痛みもすーっと消えていった。
そして、わたしは「あ、これは自分が作り出している幻覚にすぎないな」ということがわかった。