ad

2012年8月21日火曜日

私がうまくやっていけない理由

最近職場で接する人々との関係が悪化することがよくある。

まあ、にんげんだもの、意見の相違やケンカはしかたのないことだろう。

しかし私は、そういうイザコザに、たんなるケンカとはちょっと違うものを感じる。

これは強く感じていたことなのであるが、漠然としていて、説明が難しいのでこれまで誰にも話さなかったし書いたこともなかった。


ケンカが起こるひとつの理由はポリシーの違いである。
ある場合にAをするかBをするかで意見の対立が起こる。
それはしかたのないことかもしれないが、
そのときに、Aを主張する人が、「なんでAをしないんですか?Aをしましょうよ?」
というような言い方をするのが最近よくある言い方である。

「Aをするとこういうメリットがある。BはこういうリスクがあるからAを選ぶべきだ」
というような話し方をしない。

「Aに決まってんじゃん。なんでBなの。ありえない!」

常にこういう態度である。だから、論戦と言ってもみんなニヤニヤしている。
積極的に自分のポリシーを主張したり、こうすれば成功するからどうか協力してくれ、
というような必死さもない。

「俺はAしかないと思うけどな・・・Bでいいの?じゃあやれば、知らないよ俺は」

みたいな言い方をする。

要するに、みんなは結果などどうでもいいのである。
自分の主張をするだけ。それが吉とでるか凶と出るかは問わない。

Aを主張した人が、譲歩してBが実施されそれが成功したときに、
なんの恥じることもしない。「へー、Bでもいけるんだ。」というような、
たまたま成功したんだろ、みたいな態度をとる。
「A説を主張してた俺が間違ってたな、エヘヘヘ・・・」とアタマをかくようなことはしない。


どうしてこうなったのだろうか?

どうして私はそうならなかったのだろうか?


この2者の違いには、人々が理解しあうということについての基本的な認識の差がある。

それは、「人と人は話せばわかるものだ」という認識と、「人と人はまずわかりあえない」という違いである。


性善説と性悪説と似たものである。

同じ人間なのだからわざわざ説明しなくても常識的なことであれば理解しあえる、という考えと、


他人は自分とは違うのだから、自分が当たり前だと思っていることでも説明し相手の意見も拝聴したのちにどうするかを決定する、という考えである。


常識という物は重要である。私は、「常識なんて不明確なものは存在しない」などというつもりはない。常識は確固として存在し、それを重んじることは必要である。

だが、何かを主張したり、人を説得するときに「それが常識だから」と根拠にすることは許されない。



「マナー」というものを強制したらもはやマナーではなくなる。
自主的に守るからそれがマナーなのである。




この辺のことが、どうやらわかってない人たちが多い。
そういう人たちと、私はうまくやっていけない。