労働と価格

利潤の源泉は何か?

マルクスはそれは「剰余労働である」と言ったそうだ。
そして資本化がそれを搾取しているのだと。

これには同意しかねる。


そもそも、労働と価値の間にはなんの関係もない。

1年かけて苦労して作り上げたものと、10分で鼻歌まじりに作ったものと、
どちらが高く売れるかは、需給関係による。

ここでいう「価値」とは価格のことである。

「そのものの本当の価値」などというものは数字では表せない。

たとえば芸術品。
私は芸術品には経済的な価値はゼロだと考えている。

もちろん、芸術品の価値は認める。
だがそれは経済的な価値ではない。

高く売れるもの、多く売れるものが芸術的に価値があるとはいえないということは、
誰でも同意してくれるだろう。

しかし、「経済的な価値がまったくない」とまで言うと、「それはいいすぎじゃないか」
と言われるかもしれない。

まあ、それは置いておいて。



労働と価値の話に戻る。

もう一度言う。労働量(労働時間)と価値(価格)の間にはなんの関係もない。
だから、「必要労働」「剰余労働」などという考えは成り立たず、「利潤は剰余労働から生まれたもので資本家はそれを搾取している」という考えも成り立たない。



そもそも、時間で人(の労働力)を買う(測る)ことがおかしいのだ。
おかしいというか、これは便宜上そうしているだけである。

「1日8時間働いたら8000円払う」と決めただけだ。
「1時間の労働に1000円の価値がある」とも言えない。

「時給」というのは、600円から3000円くらいだろうか。

時給換算するともっと稼ぐ人はいるが、そうなると時給では換算しない。
そこにも、「労働時間で価値は決まらない」ということが現れている。

ごく単純で特別な技術を必要としない仕事であれば、時間で価値を測れるが、
そちらの方が例外なのである。




だから、「俺の労働に対して不当に安い賃金しか支払われていない」と怒るには、
他人との比較、自分の前年の賃金との比較などによって訴えるしかない。

労働時間や、その困難さ、疲労度などから正当な賃金を算出することは不可能である。

となると、労働者と資本家の間の交渉でしか賃金は決まらない。
労働者は賃金が安すぎると思えば働かなければいいし、資本家はどうしても働いてほしければ賃金をあげる。

その2者間の交渉でしか賃金は決まらない。そこに商品を購入する人の判断は関係しない。

だから、繰り返すが、労働と商品価値の間にも直接の関係は成り立たない。



もし、折鶴を一羽折ると1個10円で売れるとする。
そのとき、100羽折ると1000円になるし、1000羽折ると10000円になる。

しかしそれも、折鶴が1羽10円という価格があっての話である。
価格というのは今度は買い手と売り手の間の交渉であり、それ以外の事情は関係ない。

売り手が、「この鶴を折る人に1羽あたり5円払わないといけない」などと言っても、
買い手には関係ない。
逆に、どうしても欲しければ1000円でも出す。
そして、そのときに1000円で売れたからといって、資本家は労働者にそれに見合った賃金を払う必要もない。

疎外

私はマルクスの書いたものをほとんど読んでいない。
「経済哲学草稿」は大学の授業で教科書に指定されたがチンプンカンプンだった。
それから20年くらい経って、「賃金価格及び利潤」を読んで、ちょっとおもしろかった。
もちろん、「資本論」など読んでいない。
だが、「マルクスとはこういう考えを述べた」「共産主義とはこういうものだ」という話は、いろいろなところで聞いていて、私なりに彼がどういう人間で共産主義とはどういうものであるかは理解しているつもりであった。


昨日、「労働」についてのマルクスの考えに同意できない、ということを書いたが、私が労働について感じていることは、マルクスが言っている「労働が疎外されている」ということなのではないか、と気づいてもう一度「疎外」について調べてみた。

「疎外」という言葉は、現代では「のけものになる、つまはじきになる」という意味でも使われているが、マルクスのいう「疎外」はそのような意味ではない。

wikipediaを始めとしてさまざまな人のブログやらなんやらを読んでもどれもピンと来ないのであるが、要するに疎外というのは「本来の状態ではなくなっている」ことのようだ。

そしてマルクスは特に、労働者は働いても働いても満足を得られずかえって自分が生産したはずのモノに支配されるという状態になっている、と言ったのだと思う。

だとすると、私が感じている「労働なんか高尚なものじゃない」というのと疎外というものは似たものと言えるかもしれない。

だが、私はその状態を本来の姿ではないとは思っていない。だから、それを取り戻す必要もないと考える。
マルクス達は、人が働いて何かを生産してもその生産物の主人となれないことを問題視した。そしてそのような問題を起こしている元凶は資本家だとしたのである。・・・なぜそうなるのか?飛躍にも程がある・・・。

「飛躍」。
これはマルクスについての話を聞くとよく出てくる言葉である。彼を批判する言葉であるが、逆にそれがマルクスの魅力だという人もいる。
いわゆる「左翼」の人の話を聞いていると、私もよく「飛躍」を感じる。それはある意味思い切りのよさ、「喝破」であり、「よくぞ言った!」というところでもあるのだが、『・・・そんなうまい話があるかね・・・』と疑問を抱くところでもある。


というわけでマルクスたちの言う「疎外」の意味がよくわからないので、ここで私の「労働観」を述べよう。「なぜ労働がつまらないのか」「なぜ働いても働いても満足が得られないのか」。

別に難しいことや目新しいことを言うつもりはない。ごく常識的な、だれでも当たり前だと思っていることの確認である。


「働く」ということは、今日では多くの場合民間企業に雇用されることを言う。
医者とか、漁師とか、芸術家とかは例外とする。
公務員については、雇用と似ているが異なるのでこれも除外する。


人は働いて報酬を得る。このとき人は自分の体を一定時間拘束されて指定された労働をおこなう以外に何も提供しない。しかし、その労働によってなんらかの生産物が生産される。この生産物の所有者は労働者ではない。現代であれば「会社のモノ」というところだが、「会社」とは何か?社員のことか?社長のことか?資本家?資本家とはオーナーのことである。オーナーとは出資者である。話をわかりやすくするために、出資者が一人であったとする。

出資者は社員を100人やとって自動車を1台生産したとする。
その車を200万円で売ったとする。
社員には一人1万円の給料を払ったとする。
自動車を生産するためのその他の費用が50万円だったとする。
すると、50万円の利益を資本家は得ることになる。


これを「搾取」、つまり本来労働者が得るべき利益を資本家が不正に奪っている、と言うのがマルクス達の言い分である(というのが私の理解である)。

しかし、そんな言い分は負け惜しみというか逆恨みのようなものでしかない、というのが現代の常識であろう。


資本家が何の努力もしていなかったとしても、自動車を製造するための設備を持ち労働者に払う給料も持っているのだから、製造した自動車は買い手がつくのであればいくらで売ってもなんら責められることはない。

ただし、あまりに安い賃金しか支払われなければ労働者は当然不満を持つ。
しかし、労働者には転職という選択肢がある。もっと高い賃金を払ってくれる資本家の下で働けばよいのである。かくして資本家は労働者が逃げない程度の賃金をはらうようになる。

実際にはそんなに簡単に転職したり賃金が上下したりはしないだろうが、だからといって暴力革命を起こして社会を変革して変えるようなことでもない。

資本家だって生産物が売れなければ儲からないのでありリスクを負う。
なんなら労働者は賃金を貯金して自分も資本家となることもできる。

資本家が成功すれば莫大な利益を得られるのはリスクの見返りである。
そしてそれは別に誰が許可しているわけでもなく、自然法則である。

一方労働者の労働が概して単純でつまらないのは、自らリスクを負わず、
その代わり大きな損失を被ることもないという安全に対する見返りである。


共産主義のような発想が生まれそれに共感する人が大勢いたのは、
このような少数で楽をして大きな利益を得る資本家と、多数で身を粉にして働くものの貧しい生活をする労働者達という社会の構成があったからだろう。


だが、このような構成(あえて構造と言わない)になったのは誰のせいでもない。
特定の人間の発明でもなければ、もちろん神の摂理でもない。
たんなる自然現象である。


これは経済に限らず、政治にも見える現象である。
いつの時代にも権力を独占し広大な領土を持とうとする者が現れる。
それを実現すると豪奢な生活をし、一部の管理層を除く被支配者を冷遇する。
不満が鬱積すると反乱が起き、反乱が起きても理不尽な独裁を続けていれば転覆が起こる。


共産主義も、そのような不当な独裁に対する反乱だとすれば、
無理もないことだと容認できる。

でも、そのような下層の人間による社会の転覆、つまり革命が起きた後は社会は混乱し、
その混乱を静めようと強権を発動するものが現れ、その者はまた新たな独裁者となっていくのである。歴史はそれを繰り返してきた。



その結果人々があらそい、殺し合いまでもして、社会は安定せず、人々は安心して暮らせない。それはよくないことである。
争うことなく、ほどほどの生活をして仲良く暮らしていければよい。


だが、合い争う歴史というものが誰が作ったものでもない限り、それを止めることは誰にもできない。もしいたとしたら、その人間はそれまでの歴史をすべて管理することのできるような超人である。


だが、ここで間違ってはならないのは、「だから資本主義が正しい。自由が正しい。」と結論付けることである。
それが「共産主義」であろうと、「資本主義」であろうとなんだろうと、「これが正しいのだ」という原理原則、ポリシーの下に運営されるシステムは必ず一部の独占と不当な格差を生む。


人が「世の中を変えたい」と考えるのは、自分が、せいぜいが自分の仲間たちが、不遇であることを改善したいという欲求にすぎない。
自分やその仲間が不当に虐げられていれば、怒り、正当な状態を回復するのは当然であるが、それ以上のことをしようとすれば、その人はやはり新たな独裁者となるのである。


だが、人々は独裁を求める。自分が独裁するのでなければ、誰かが独裁することを求める。
自分の理想どおりであれば、独裁者はむしろ必要なのである。

これはどうしようもない人間の本性である。
人間は強力な権力を持った支配者を必要としている。

しかし人々は自ら求めた支配者にいつかあいそを尽かし、歯向かい、その足元をすくう。
そして新たな支配者を探し、それにへつらう。それを繰り返す。



今私に言えることは、「労働」というものがそういう人間の本性に逆らうものである、
ということである。

人は支配されることを望まない。支配する本性を持つ。


それが正当なものであれば、支配に従う。むしろ、支配されることを求める。
全くの自由放任、無重力状態のような世界を人間は嫌う。そこでは生きていけない。


ところが、現代の多くの人々がそうであるように、企業に雇用されて働く、ということは人が本来求める支配の形ではないのである。

それは、「本来の労働ではない」ということではない。

労働の本来の姿が、労働自体が、人間の本性に反するものなのである。
これが私の労働観である。



人間の本性に反することをしないと生きていけない。
これが人間である。

共産主義

金日成は、「抗日パルチザン」の出身だそうだ。
彼はソ連で育ったので、第二次大戦が終わって民衆の前で演説したときに、
ろくに朝鮮語が話せなかったそうだ。

毛沢東も日本に対して戦った。

この、金日成とか毛沢東とかが日本と戦ったのは、単なる戦争とは違う。

少なくとも私は区別している。


彼らは自分或いは祖国を守るために戦ったのではない。

彼らは、戦うために戦ったのである。
そういう意味では、純粋な戦士である。


「共産主義」の恐ろしいところはそこである。
彼らは、戦うことを目的としている。ある目的のために戦っているのではないのである。


「共産主義とは何か」
ということを、たかがブログの1エントリーで喝破するつもりはないが、
私は直感的に、反射的に、嫌悪感というか違和感というか、拒否したくなる気持ちがある。


金日成のときもそうだったのだが、こういう「左翼活動」をおこなった人の生い立ちを聞くと、
なんともいえない切ない、やりきれない悲しさを感じる。
それはある意味、甘美とさえ言えるものである。

その甘美さというのは、ある種の献身、悲壮感、潔さ、みたいなものだ。

そして、彼らはその甘美さに見せられて身を共産主義に投じているのではないかと思う。


もともと、共産主義というのは世の中が戦いであると、歴史とは戦いであり争いであると、
そういう考えに端を発している。


誰もが衣食住に困らず平和に暮らせたらいいと思うのは当たり前である。
共産主義の意味はそこにあるのではない。

共産主義とはその「理想」を、実力行使によって獲得しようという物騒な考えのことを言うのである。
世の中に対する漠然とした不満に正当性と現実的な行動目的を与えたのである。


「現在の社会は理想からほど遠い。そしてわれわれは理想を実現するために現在の社会を破壊して新しい社会を建設すべきだ。建設しなければならない。」

共産主義の本質はここにある。

富める者と貧しき者がいて、貧しき者が富める者に仕えている。

この状態を、なるべくしてなったと考えずに、富める者が不正な手段によりつくりあげた歪んだ状態であるとみなしたのである。

確かに歪んだ状態であるかもしれない。私もそれを否定はできない。
しかし、肯定はもっとできない。



私が共産主義にもっとも反発を覚えるのは、「労働」に対する考えである。
私は「労働」というものに高尚さや神聖さを一切感じない。

労働は必要悪だと思っている。
働くことは楽しくないし、苦痛だし、面倒だし、みっともないものでさえある。

人は働くことで人らしくなるなんて絶対にウソで、
労働は人を疲弊させ卑しくさせるだけだ。

わたしにはそういう労働観がある。


でも、働かないと生きていけないので、働いて、
週末はのびのびと自分のしたい事をする。
そして月曜になると憂鬱だけど、生きていくためには仕方がない、
と仕事にでかける・・・。


共産主義というのは、このような多くの人が持っている「世の中こういうもんだろう」
という面倒臭さ、そんなに夢見たいな話はない、みたいな思いを、
逆の形に徹底する思想である。

「毎日遊んで暮らせる」「自分のやりたい放題やっていい」
ということが実現不可能なのは皆わかっている。

でも、だからと言って、毎日している自分の仕事が神聖で不可侵なものである、
などというのもしらじらしいというか、嘘であることもわかる。


今、共産主義を否定する人はたくさんいる。
否定しない人の方が少ないくらいだ。

だが、その理由ははっきりしない。
それは、「共産主義とは何か」ということがわかっていないからだ。


「共産主義は排他的な独裁を生む」
「計画経済は機能せず、逆に国家を貧しくする」

などが言われるが、それは結果に過ぎない。

なぜ、共産主義は独裁を生み、飢餓を産むのか。

そんなものに、どうして一時期世界中の人々が夢中になって国家さえ成立したのか。


ソ連が崩壊してベルリンの壁が崩壊して、いまや共産主義は過去の遺物となった観がある。
しかし、その本質は滅んでいない。

多くの人が、共産主義を、それにもとづく独裁者を、単なる「世界制覇の野望」みたいなものだと捉えている。

アレクサンダー大王とか、ローマ帝国とか、チンギス・ハーンとか、
世界中を自分の支配下におこうという途方もない野望実現のためのひとつの方法として、
共産主義というものがあらわれたと考えている人がいる。

そして、「そんなうまい話があるわけない」
ということで、終わった、と思っている。

そんな簡単なことだろうか?

そんな簡単なことで、何百万人の人を粛清できるものだろうか?



独裁者

ひょんなことから北朝鮮について調べた。
別に仕事でもなんでもなく、純粋に興味を持ったのである。
今まで北朝鮮といえば、金正日、金正恩くらいしか知らなかった。
が、ニュースで見る映像や写真の周りにいる人が気になったのである。

きっかけはpicasaの顔認識機能であった。
たまたま保存してあった北朝鮮関連の映像の写真から、勲章をたくさんつけた老いた軍服姿の人物などの顔が抽出された。

独裁国家といっても、組織があって軍隊や党を統率する人間がいる。下っ端役人もいる。
その人事について話題にもなる。
日本で誰が総理になるとか大臣が辞めたとかニュースになるように。

北朝鮮の軍人や役人や幹部たちも、毎日寝起きして食事をしている。
「将軍様」に指示されたり、自分から提案やアドバイスをしたり。
おそらく後者の方が多いだろう。
顔写真を見ていても、ごく普通の、頭のよさそうな日本にいれば優秀なビジネスマンになったであろうような顔ぶれである。
なかにはゾっとするような冷徹そうな人物もいないこともないが・・・。


そして、北朝鮮の歴史をさかのぼるように調べていった。
北朝鮮は1948年に「建国」された新しい国であるから歴史といってもたいしたものはない。
ただ、北朝鮮を他の国々と同様のくくりで捉えるのは少し無理がある。

これは北朝鮮に限らず、私は最近痛感しているのだが、「日本」、「アメリカ」、「中国」を同じ「国」という概念で並列して扱うのはムリがあると思う。

特に、「アメリカ合衆国 (United states of America) 」については、世界で唯一の特殊な存在である。アメリカが「世界の警察」になっているのには理由がある。これはまたの機会に述べたい。


北朝鮮というのは1948年にポコっと突然現れた国ではない。そこに暮らしていた人々が急に独立心に目覚めたわけでもない。朝鮮半島で仲間割れが起きたのでもない。

北朝鮮の歴史を調べよう、と思って、あらためて当時日本が朝鮮半島を統治していたということを思い出す。

日本が戦争に負けて撤退する。
するとまるで朝鮮半島を米ソが奪い合うように南北で「建国」が起きて、2国間で戦争が起こる。
この戦争は「米ソ」、事実上は「共産主義と自由主義」の対決だと、理解されている。


というわけで北朝鮮について調べていくと、スターリンに行き当たる。
北朝鮮でも粛清や強制収容所の話があって恐ろしいなと思ったものの、スターリンのおこなった粛清の前には茶番に見える。
というか、逆にスターリンの粛清の方が大規模すぎて現実感がない。

スターリンに関するwikipediaの記述を一通り読んで、呆れて、いったいどうしたらこんな人間が生まれるのか、どうしたらこんな人間が一国を支配し、世界を股にかけて活躍するのか・・・・と不思議に思う。

そして、どうして「共産主義」というものがあんなに猛威をふるって各地に独裁者を生み粛清や虐殺をおこなわせたのかと、あらためて考える。

もはや、怒りすらわかない。ただただ、不思議だと思うばかりである。
ナスカの地上絵とか、ピラミッドとか、イースター島のモアイ像などのように、
不思議な、理解を超えたものである。


おそらく、そう感じるのは大勢の人間が、個々がそれぞれ独自に考えて行動した結果引き起こされた事件を、あたかも一人の人間が意図して計画して実現したかのように、後世の人が勝手に思い込むからだ。

独裁者達は確かに存在して、自分たちの偏狭なあるいは未熟な思想を実現しようとしたのだろう。しかし、独裁者といっても一人の人間だし、たくさんの部下を使って、自分もかつては誰かの部下であったり使い走りのようなことも経験し、人に使われ人を使って、親もいるし恋もするし、結婚して子供をもうけたりもしたのである。

独裁者とはいえ、世の中思うままにならないなあと思っていただろう。
自分が独裁者だなんてとんでもないとさえ思っていたかもしれない。
「自分は世界で一番惨めで弱い人間だ」と。


今回北朝鮮について調べてみて、ニュースで騒がれる金正恩の周りにはたくさんの「優秀な」ブレーンがいて、実際には彼らが実務をおこない国を、世界を動かしているのである。「独裁者」と言われるような人間も同様である。おそらく、独裁者であればあるほど、自分は何もしないのだろう。

もしかしたら、「独裁者」というものは、そのときの混乱の責任を負わされただけなのかもしれない。
あるいは、その混乱を巻き起こした張本人なのかもしれない。
だが、やはり、ただ一人の人間に、何百万人もの人間をアリでもふみつぶすように殺すことなどできるものではない。そういう粛清や虐殺を引き起こす原因は、一人の独裁者以外にいくつかあるはずである。むしろ独裁者はそれらの複数の条件が整ったところに自然に湧き出てくるようなものではないか。

過去の独裁者列伝を見ているとそんなふうに思えてならない。


笑顔の研究

顔の輪郭をよくみると、目じりのあたりがすこし狭まっていて、そこから頬骨のふくらみがあります。そして、頬骨のふくらみが終わったあたり、ちょうど唇の延長線上あたりを頂点にして、すこしふくらんでいます。この絵ではやや大げさにしました。

いろんな顔の写真をみてみましたが、皆、そうなっています。




「笑った顔を描いてください」
と言われたら、多くの人はこのように口角をあげた口を描くでしょう。

たしかに、これで笑った顔になります。







しかし、笑顔をよく観察すると、
口角以外にも変わるところがいくつかあります。

まず、顔の輪郭です。
先ほど説明した、唇のよこにあるふくらみが消えて、あごと頬骨を結ぶほぼ直線の輪郭に変わるのです。

これは大発見です。



 「目を細める」と言う言葉があるように、
笑顔になると目が細くなります。

この細くなり方ですが、まぶたは上下ともにうごくようです。

上まぶたは目じり側がやや下がる。
下まぶたは全体的にやや上がる。

しかし、目じりの位置自体は動きません。
当たり前ですがこれも大発見です。



 そしてもうひとつ。

鼻の形が変わります。
横に広がり、口角と同様、「鼻角」も少しあがります。


 とどめは、「歯を見せる」です。

上唇はほんの少ししか上にあがらず、
下唇が大きくさがることによって口が開き歯が見えます。


これは、「美しい笑顔の作り方」ではありません。
人は笑うと、自然にこうなるのです。

五目やきそばとタンメン

私は五目焼きそばが大好きだ。

いちおう説明しておくと、中華料理屋にある、ソース味ではない、炒めた麺に五目あんかけがかかっているものである。

店によっては「あんかけそば」とか、「五目かたやき」だったりする。
そばがかたやきと普通の両方の場合もあれば、かたやきしかない店がけっこう多い。

大好きなので中華料理屋に行くとよく注文するのだが、私が満足するものは非常に少ない。

まず多いのが、あんかけが多すぎるもの。
麺が見えないくらいにどばーっとかかっている。

あんかけなど気持ちでいい。なくてもいいくらいだ。
食べ終わったときに皿にほとんどあんかけが残らないくらいでよい。

次に、あんかけに片栗粉が多すぎる、つまりとろみが強すぎるもの。
これも気持ちでよい。


麺と具を一緒に炒めているのもダメ。

麺は太めがよい。日本でよくあるソース焼きそばの麺では細すぎる。


それ自体はきらいではないが、ピーマン、玉ねぎなどは五目焼きそばには入れないでほしい。
ニンジン、タケノコ、きくらげ、豚肉、白菜、とかかな。

「海鮮やきそば」というのが時々あって、ホタテとかイカとかエビとか入っていて価格がやや高めなのだが、あんまり好きじゃない。



あと、思い出したのでついでに、タンメン。

中華料理屋を開いていてタンメンがメニューにないというのは信じられない。

別に作るのは難しくない。その他のメニューを見ていると絶対にできるはずなのに、
なぜかメニューに載せない。

そういう店も、結構多い。


五目やきそばがおいしくて、タンメンもある店、今までに見たことがないかもしれない。

飲酒


飲酒

結盧在人境
而無車馬喧
問君何能爾
心遠地自偏
采菊東籬下
悠然見南山
山気日夕佳
飛鳥相与還
此中有真意
欲弁已忘言



酒を飲む

盧を結んで人境にあり
而も車馬の喧(かまびす)しき無し
君に問う何ぞ能く爾ると
心遠ければ地自ずから偏なり
菊を采る東籬の下
悠然として南山を見る
山気 日夕に佳く
飛鳥 相与(とも)に還る
此中に真意あり
弁ぜんと欲して已に言を忘る

簡潔な文章とは

最近、職場の後輩に文章の書き方について注意をした。

「文章」と言っても、メールのことである。

彼の文章は言葉足らずで、「AはBです、CはDではありません。」
というようなことしか書かない。

「AはBなのでオッケーです。」「CはDなのでヤバいっす。」
というように事実とそれについての自分の判断や意見を書かない。

そして、人の言葉をまねる。だれかが書いたメールの文章をマネて、
単語だけ置き換えるような書き方をする。


私はちょくちょく、彼に質問した。
「このメールだけど、AはBですって書いてあるけどそれでいいの?」
「昨日はAはBだったのに今日はCになってるけどどっちが正しいの?違ってていいの?」

最初はこれだけであった。
それは、私にとっては「指導」「アドバイス」のようなものであった。

しかし彼は私の質問に対し、単に答えるだけで、
自分の書いた文章が説明不足であるとか誤解をまねく表現をしているなどとは思っていないようであった。

もしくは、私が彼を困らせる、あるいは彼のしたことを批判するようなつもりで言っていると思っているのか、困ったような顔をして答えないときもある。

私はだんだん語気を強めていった。

私は、どうも彼は「ビジネス文書は簡潔であるべき」ということにこだわりすぎているのではないかと思い始めた。

それはよく言われることであるが、「簡潔」というのは非常に難しいことである。
たしかに簡潔な文章は読みやすいが、そう簡単に簡潔な文章など書けない。

文章というのは、積み木のようなものではなく、彫刻のようなものだ。

積み木は積み増すことによって情報量が増していくが、彫刻は削ることによって情報量が増していく。

私が指導した後輩の文章はほとんど削られていない木片のようなものである。
見ようによっては「簡潔」である。
だが、そこには何の情報もない。
木片の角がひとつでも欠けていれば、「おや?」と思う。

「簡潔な文章」というのは、それを書く作業が少ない文章のことを言うのではない。
読み手にとっての作業が少ないものを言うのである。



短ければ簡潔なのではない。

・・・だ、・・・・である、という文体にすれば簡潔なのでもない。


「簡潔に」「要点を言え」というのは会社でよく言われることであるが、
それは非常に難しいことなのである。

人がしゃべったり書いたりするのは何か伝えたいことがあるからであり、
「AはBだ」だけでは不十分だからいろいろと加えるのである。


あと、「箇条書きでいいから」というのもよく言われる。
箇条書きの方が簡単、とされているのだ。

だが、私は「箇条書き」を好まない。
箇条書きをするにはある程度の整理や分類が必要で、
わたしにとっては面倒だ。

読むのも嫌いだ。

事実を羅列されるほどムカつくことはない。

「で?」
といいたくなる。



その、私が指導した後輩にも言ったことなのだが、
メールの文章なんかたかだか数百字。
原稿用紙1枚にも満たない。

多少文章が長くなったくらいで別に業務に差し支えるほどの時間のムダにはならない。

むしろ、暗号のような短い文章によって引き起こされる誤解や私がするような質問とか指導が発生することの方を気にするべきである。

名前

情雲(ジョン)

平太(ピーター)

王蘭堂(オーランド)

琶瑠(パール)

大也(ダイヤ)

地座洲(ジーザス)

亜浦露(アポロ)

是臼(ゼウス)

月(ムーン)

陽(サニー)

兎琉斧(ウルフ)

情璽(ジョージ)

情慈(ジョージ)

情爾(ジョージ)

座美得(ザビエル)

郎芭灯(ロバート)

吾霊駆聖(アレクセイ)

鵬醒堂(ポセイドン)

繁諏(ハンス)

華琉(カール)

純璃杏(ジュリアン)

諏爾(スージー)

守慈(スージー)

霊欧(レオ)

黎遠(レオン)

聖尊(ジェイソン)

彌芸郎(ミゲル)

炎聖瑠(エンゼル)

宮麗燈(グレート)

仁義守(ジンギス)

仁義州(ジンギス)

蹟士(セクシー)

寂志(セクシー)

絆斐(ハニイ)

繁李(ハニイ)

芸李(ゲイリー)

水董(スイート)

「キミねぇ・・・シュレーディンガーの猫も知らないのかい・・・・。全く文系はこれだから困るな・・・・あ、もしかして高卒?」


などという声が聞こえたので続きを書く。
私はシュレーディンガーの猫の話は知っている。ブルーバックスのなんかの本を読んでいたら出てきた。

さっきのロシアンルーレットの話を書きながら、『これはシュレーディンガーの猫と同じ事を言ってるんじゃないかな・・・』などと思っていた。



「猫」の話って、「確率」というもの自体の無意味さを指摘した話じゃないかと思ってしまうのだが、
そうじゃないんですよね・・・・


量子力学がどうこうという以前のハナシ、単に「確率」というものの定義があいまいもしくは誤解されているだけなんじゃないかと思うんですけどね・・・・




確率論

こないだモンティ・ホール問題について考え、それについて書いたブログの記事を読み返していて気づいたことがある。

私は、3つのドアから一つを選んだ後で、「自分が当たりのドアを選んだ確率」という言い方をした。

これは「確率」ではない。

わたしはすでにドアを選んでおり、そのドアの後ろにはヤギか車のどちらかが必ずいる。その後モンティ・ホールがのこりのドアの一つを開けようが何をしようがそれはかわらない。

確率というのは、何かを複数回、とくに多数繰り返すような場合、その結果について、特定の状態が成立する頻度を言うのである。

確率でよく題材にされるのは、サイコロ、複数の玉やカードから一枚選択する、などである。

サイコロは正六面体である。実際には多少のゆがみや偏りがあるかもしれないが、ほぼ正六面体でないとサイコロとして使えない。

たとえば、あなたの前に誰かがいて、あなたに見えないようにサイコロを振ったとする。そしてあなたに、「今何の目が出たと思う?」と質問した。

この時に、「1の目である確率は1/6」というのは正しくない。

確率というのはすでに起きてしまった事について、特定の状態であるであろうその強さをいうのではない。

そういう場合は「蓋然性」という言葉を使うのが正しいようだ。
だが、「蓋然性」という言葉はあまり一般的とは言いがたく、会話中に「そのガイゼンセイは・・・」などと言ったら「ハァ?」と聞き返される確率が高い。


似た言葉に「可能性」というものがある。
殺人事件が起きて犯人がわからないときに不審な人物が職務質問されたということがあったときにニュースキャスターは「警察はこの男が犯人である可能性が高いと見ています」などと言う。

日常会話でも使う。「この計画は失敗する可能性が高い」などと。
だが、「可能」性なのに「失敗」するというのは何か変な感じがする。




確率に戻ろう。

単にサイコロを振るだけだと切迫感がないのでロシアンルーレットで例えよう。
リボルバーの拳銃に弾はいくつ入るのだろう?6個とか8個とかだと思う。
8個だとしよう。

いや、今調べたらコルトパイソンは6個だったので6個にしよう。

ご存知の通りロシアンルーレットとは拳銃に弾を1個だけ入れて、代わりばんこに自分の頭に銃口をつきつけて引き金を引くというゲームである。

あなたはロシアンルーレットをするはめになった。
仲介人がリボルバーの弾倉(シリンダー)をジャラララッと回してあなたに渡した。
あなたが引き金を引くと弾が出るかいなかはあなたも、相手も、仲介人も知らない。

弾倉には弾が6個入って、そのうちの1個だけに弾が入っているのだから、弾が出る確率は1/6である。サイコロと同じだ。サイコロを振って1が出る確率と同じだ。1/6だから、出ない確率の方が高い。

しかし、これはロシアンルーレットである。サイコロを振ってどの目が出るか、などという悠長な問題ではない。出たら100円もらえるとかいうギャンブルであったとしても命を懸けたギャンブルとは比較にならない。


あなたは銃を受け取った。もうあなたの運命は決まっている。1/6という確率は過去の話だ。あなたの運命はすでに決まっている・・・・・。

モンティ・ホール問題に納得

引き続きいろんな人の話を読んでみたが、
ある人の説明で納得した。

まずは、「最初の選択で当たりを引いたか否か?」ということを考える。

これは1/3なので、当たりでない確率の方が高い。

最初の選択をした後で、「あなたが選択したドアが当たりである確率と、残りの二つのドアのどちらかが当たりである確率のどちらが高いか?」という質問であれば誰も迷わない。

だが、残り二つのドアのどちらかが当たりである確率の方が高いとしても、そのうちのどちらか一方を選ばなければならないなら、選択を変えるのは危険である、というか、無意味だ。確率は等しいので。

しかし、その残り二つのうち、ハズレであるドアが明らかになったとしたら・・・!

これは単純に1/3と2/3のどちらを選ぶかという選択になる、変えない手はない!

ということになる。


モンティ・ホール問題に納得いかない(2)

やっぱり納得できない・・・。

が、この問題は「直感で考えると間違えやすい」ということまで含めて解説されており、
その解説を読んでもピンとこないが、私の確率に関する根本的な理解が不足しているのだろう。

以前にも、この問題とは違う、青いカードと赤いカードがどうこう、という問題があって、

それもなかなか納得できなかった記憶がある。
その問題は時間はかかったが最終的には納得できたのだが、
モンティ・ホールについては時間をかけても納得できず、「確率」という概念自体を疑う気にさえなっている。


先ほど10回ずつだけ試行したシミュレーションを続けてやっていくと、やはり選択を変える方が当たる回数が多くなった。



そして、それをやりながら、「自分の人生のようだ」と思った。

最初は自分のやり方に疑いをもたない。ちょっとだけ人より劣るかな、みたいな事を感じることがあっても、「がんばり」でカバーしたり、「気のせいだ」と思ってやりすごす。



しかし時が経つにつれて、だんだんうまくいかなくなってくる。つまらなくなってくる。
これは、自分の飽きっぽい性格のせいだとか、同じ事をずっとやっているから退屈するのだ、などと考えていたのだが、もしかして、「効率の悪い(成功する確率が低い)方法」を採用しているために起こる必然的な結果なのではないか・・・。


もちろん、仕事や世の中のできごとは確率で計算できるようなものではない。しかしまた、非常に多くのことはセンスも運も関係ない、単純な繰り返し作業のようなものであることも事実だ。

そういう生活においては、直感的に正しいと思うことを続けているといつのまにか損をすることになる・・・。
モンティ・ホールの場合では2倍もの差があるのだ・・・。

同じゲームをずっとやっていたら、所有する自動車の数が半分になってしまう・・・・。
まさに自分の人生ではないか・・・。


モンティ・ホール問題に納得いかない

「モンティ・ホール問題」というものを知った。

有名な問題だそうだが、一応説明しておく。

3つのドアがあって、そのうちの1つが「当たり」のドアである。
あなたは1つのドアを選ぶ。
あなたが選んだ後、正解をしっている人(それがモンティ・ホールである)が、残りの2つのドアのうち、ハズレであるドアを選んで開けて見せる。
そしてあなたに、「最初の選択を変えてもいいですよ?どうしますか?」
と言ったときに、変えるべきか、という問題である。


先に正解を明かすと、「ドアを変えないと当たる確率は1/3、変えると2/3なので変えるべきである」
である。


この問題はアメリカのテレビ番組で取り上げられたのだが、正解の説明に納得できない人から問い合わせが殺到したそうである。

私もいまだに納得できない。

最初に当たりを選ぶ確率は1/3である。これはよい。

3つのドアをA、B、Cとし、Aを選んだとする。このとき、Bが当たりである確率も、Cが当たりである確率も1/3である。

その後、あなたが選ばなかったB、Cのうち、ハズレのドアが開けられる。それがBだったとする。
このとき、Aがあたりである確率よりも、Cがあたりである確率の方が高い、それも2倍だというのである。

多くの人が直感的には『変えても変えなくても同じ』と思うのではないだろうか。
『2つあるハズレのうちひとつがわかったのだから、自分が選択しているドアか、残りのドアのどちらかが当たりである、確率は1/2だ。当たっていますように・・・・』

私だったら絶対選択を変えないだろう。もし外れていたら後悔しきれないからだ。
ちなみにこの「当たり」の景品は自動車である。


あるサイトにシミュレーションがあったのでやってみた。
10回ずつやって、どちらも70%で当たりであった。
試行回数が少ないのでこれでは反証にならないかもしれないが、
私の直感と同じ結果である。


不思議なのはどうしてこの確率に納得できないのか、ということである。


ちょっとルールを変えた場合を考えてみる。
3つのドアのうちのハズレを最初に開けて、残りの二つのドアのどちらかを選ぶとしたらどうだろうか?
この場合はどちらを選んでも1/2であろう。


私はモンティ・ホール問題とこのケースが同じことのように思えてしまうのだが、
どうして違うのだろうか?








アップルとサムスン

先ほどちょっと触れましたけど。

アップルとサムソンの間の訴訟についてです。

今朝の新聞に載っていたのは、日本の裁判ではアップルの訴えが認められなかった、という記事でした。

つい先日、どこでしたか、アメリカだかヨーロッパのどこかだか忘れましたが、アップルの訴えが認められてサムソンが何百億ドルだかの支払を命じられた、ということがニュースになりましたが、日本ではそうならなかったわけです。

あ、「サムスン」ですか。
どっちでもいいですけど。


私はiPhoneを使っています。androidを使っている人をよく見ますが、自分で使ったことはほとんどありません。なので、マネかどうかはわからないのですが、パッと見はマネなのはあきらかですよね。みんなわかってると思いますけど。


ただ、今自動車会社が世界中にたくさんありますけど、それを最初に車を作った人のマネだとは誰も言わないように、iPhoneのマネをして「スマホ」を各社が作ることを、私はカッコ悪いとは思いますが、悪いことだとは、犯罪行為だとまでは思いません。



今朝の記事を読んでいて、フーンと思ったのは、「同期の機能」についてです。
アップルは、同期するときのファイルが同じであるかの条件として、ファイル名、タイトル、サイズ、曲の長さなどをチェックしているのに対し、サムスンはファイル名とサイズだけしかチェックしない、というようなことが書いてありました。正確な内容ではないかもしれませんが、要するに、サムスンの方がチェックする項目が少ないのです。それをもって、特許の侵害ではない、という結論になったとのことでした。


また、これは今回の判決ではないのですが、イギリスだったかな、「サムスンの製品はアップル製品ほど洗練されていない」というような理由でアップルの訴えが却下されたというニュースも読みました。


どちらも、アップルは裁判で「負けた」わけですが、話をきくにつけ、アップルはすごいな、サムスンはしょぼいな、という印象が強くなっていきます。

そういう印象を与えることは、賠償金とかシェアとかと同じくらいにアップルにとって有益でしょう。

スティーブジョブズはそれだけでは満足しないかもしれませんが、アップルの幹部でも、それをもってよしとしている人は多いんじゃないでしょうか。

外国語を理解するために必要なこと

久しぶりの海外出張に行って感じたのは、翻訳ツールの充実ぶりである。 誰もがもっているスマートフォンでは無料で使用できる翻訳アプリが使える。 パソコンではgoogle翻訳をはじめとして、これも無料で使える翻訳サイトがたくさんあり、翻訳の精度もずいぶん向上した。 アプリ等...