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労働と価格

利潤の源泉は何か?

マルクスはそれは「剰余労働である」と言ったそうだ。
そして資本化がそれを搾取しているのだと。

これには同意しかねる。


そもそも、労働と価値の間にはなんの関係もない。

1年かけて苦労して作り上げたものと、10分で鼻歌まじりに作ったものと、
どちらが高く売れるかは、需給関係による。

ここでいう「価値」とは価格のことである。

「そのものの本当の価値」などというものは数字では表せない。

たとえば芸術品。
私は芸術品には経済的な価値はゼロだと考えている。

もちろん、芸術品の価値は認める。
だがそれは経済的な価値ではない。

高く売れるもの、多く売れるものが芸術的に価値があるとはいえないということは、
誰でも同意してくれるだろう。

しかし、「経済的な価値がまったくない」とまで言うと、「それはいいすぎじゃないか」
と言われるかもしれない。

まあ、それは置いておいて。



労働と価値の話に戻る。

もう一度言う。労働量(労働時間)と価値(価格)の間にはなんの関係もない。
だから、「必要労働」「剰余労働」などという考えは成り立たず、「利潤は剰余労働から生まれたもので資本家はそれを搾取している」という考えも成り立たない。



そもそも、時間で人(の労働力)を買う(測る)ことがおかしいのだ。
おかしいというか、これは便宜上そうしているだけである。

「1日8時間働いたら8000円払う」と決めただけだ。
「1時間の労働に1000円の価値がある」とも言えない。

「時給」というのは、600円から3000円くらいだろうか。

時給換算するともっと稼ぐ人はいるが、そうなると時給では換算しない。
そこにも、「労働時間で価値は決まらない」ということが現れている。

ごく単純で特別な技術を必要としない仕事であれば、時間で価値を測れるが、
そちらの方が例外なのである。




だから、「俺の労働に対して不当に安い賃金しか支払われていない」と怒るには、
他人との比較、自分の前年の賃金との比較などによって訴えるしかない。

労働時間や、その困難さ、疲労度などから正当な賃金を算出することは不可能である。

となると、労働者と資本家の間の交渉でしか賃金は決まらない。
労働者は賃金が安すぎると思えば働かなければいいし、資本家はどうしても働いてほしければ賃金をあげる。

その2者間の交渉でしか賃金は決まらない。そこに商品を購入する人の判断は関係しない。

だから、繰り返すが、労働と商品価値の間にも直接の関係は成り立たない。



もし、折鶴を一羽折ると1個10円で売れるとする。
そのとき、100羽折ると1000円になるし、1000羽折ると10000円になる。

しかしそれも、折鶴が1羽10円という価格があっての話である。
価格というのは今度は買い手と売り手の間の交渉であり、それ以外の事情は関係ない。

売り手が、「この鶴を折る人に1羽あたり5円払わないといけない」などと言っても、
買い手には関係ない。
逆に、どうしても欲しければ1000円でも出す。
そして、そのときに1000円で売れたからといって、資本家は労働者にそれに見合った賃金を払う必要もない。

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死を望む人の死生観

最近は死にたい気持ちがいっそう募ってきた。単なる慣用句また感動詞としての「死にたい」ではなく、本格的な「希死念慮」という奴である。

そしてまた自殺の方法を調べた。恐怖と苦痛が少なく迷惑もかけない死に方はないか・・・。

すると、2ちゃんねるの自殺未遂体験を語るスレッドが見つかった。
以前にもちょっと眺めたことはあるが、じっくり読んでみた。

多いのは薬物とリストカットと足がつく場所での首吊りだった。
失敗した原因は、同居人のいる自宅で遂行した、電話やメールで知人にほのめかすかあるいははっきり宣言して助けられた、恐怖で自殺を思いとどまった、などである。

共通しているのは、すべて自分が死ぬ覚悟ができていなかった、死ぬ恐怖に打ち勝てなかったということである。

自殺の話になるとまず言われるのは「自殺なんかしてはいけない。命は授かりものだ。」という自殺罪悪説である。それから、「自殺未遂なんて本気で死ぬつもりなどないのだ。死にたいのならとっとと死ね」という未遂に対する罵倒。そして、「何があったの?死ぬ前に誰かに相談すれば?生きてればいいことあるよ」という心配。

「自殺は素晴らしい」という人はまずいない。
だが、非常に潔く動機も生活苦などではない場合はそれが賞賛される場合もある。
乃木稀典とか、三島由紀夫とかである。

私はこの2人の自殺にも興味を持っていろいろと調べてみたが、あまり手放しでは賞賛できないような事実をいくつか知った。そして、2人の死について否定的な考えを表明している有名人も大勢いることを知った。



調べれば調べるほど、自殺というのは限りなく困難なもので、ほとんど不可能に近いと思えてくる。
ロープを用意し、山の中まで行って首を入れるところまでいってもやめてしまう人がいる。
薬の大量服用については、本人の意志に関係なく吐いてしまい、まず成功することがない。

未遂に終わった場合、「二度と自殺なんかしない」という人が多いが、中には「今度こそ」と考える人もいる。実際、自殺に成功した人は何度か未遂を繰り返した人が多いそうである。



私は自殺を試み未遂に終わる人たちがすべて本気で死のうとしていないとは思わない。
彼らは本当に絶望していて、生きることは苦痛以外の何物でもなく、死ぬしかないと思っている。
しかし、いざ死のうとすると苦痛と恐怖で思いとどまってしまう。

思いとどまるときに、たと…

グリーン車で横の席に荷物を置く人

私は常磐線で通勤しているのだが、最近朝がつらくて、
グリーン車に乗ることが多い。

私が乗る駅では、グリーン車は窓際はまず埋まっている。

窓際に人がいる隣の通路側の席に座る。


だが、そこにカバンを置いている人が非常に多い。

私はそれがとても頭にくる。というか、その神経が理解できない。


なぜそんなことができるのだろうか?

私は休日にもグリーン車に乗ることがあるが、

ガラガラでもとなりの席に荷物など置いたことはない。

なぜなら、グリーン車は有料だからだ。


距離によるが、550円とか770円とか、ランチが食べられるくらいの料金だ。


まあ、ガラガラであれば、カバンを置いても、私はしないが、まあ許せる。

でも、通勤ラッシュ時で、上野につくころにはほぼ満席になる常磐線のグリーン車で、

隣の席に荷物を置くのは許せない。

その荷物をつかんで放り投げたくなる気持ちを懸命に抑える。


時々、そういう人にむかって、「すいません」と言って席を空けてもらって座る人がいる。

謝るのは荷物を置いている方だろ!


そういうときに、荷物を置いている人が謝るのを見たことがない。

私は、絶対に謝らない。そこまでして座りたくない。


が、そういう人がいると、顔をじっと見る。

そうすると、だいたいどける。



最近わかってきたのだが、この行動は無神経であるとか気が利かないというのではなく、

隣に人を座らせたくないので故意にやっているようだ。


なんという、利己的な行為だろう。私はそういう行為が本当に嫌いだ。


私も、なるべく隣に人がいない席を選ぶ。隣に人が来て欲しくないという気持ちはわかる。

でも、だからって荷物を置いて座らせないようにするなんてことは絶対にできない。

そんなことまでしたくない。


昨日は、隣の席に荷物を置いて寝ている人に、「すいません」と声をかけている人がいたのだが、

寝ている人は2、3度声をかけられても起きなかった。

多分、気づいているのに起きなかったのだろう。



私は振り返って、その人がどんな顔をしているか見た。

年齢は私よりやや上、50歳前後だ。

上着を着ずにワイシャツとスラックスの、ごく普通のサラリーマン風の男性である。


特にバカそうでもズルそうでもダメ人間でもだらしない感じでもない。

でも、そういうごく普通の人間が、このような利己的な行為をするものなのである。

これは静かなる暴力と言ってもいい。


キンタマを掴まれる

この話はツイッターで言いたかったのだが、どうしても「キンタマ」と書く勇気が出なかったのでこっちに書く。

私は猥談が嫌いだ。
猥談なんかしていたのは高校生まで。
わけあって私は一切猥談をしなくなった。
飲み会でもしない。飲み会でそういう話題になると貝になる。

そして、「キンタマを掴まれる」という言葉には性的な意味はない。
それは常識かもしれないがやっぱりキンタマなどという言葉を口にすることははばかられる。
わたしも「キンタマ」などという言葉を思い出したのは久しぶりで、懐かしささえ感じた。

なんで思い出したかというと、夢の中でキンタマを掴まれたからだ。
その夢では、わたしは背後にぴったりと誰かが張り付いているのを感じていた。
それは見えないし、ぴったりではあるがそっとなので気のせいかなと思うくらいだ。
だが、間違いなく張り付いていると確信した。だが、それを自分で払いのけることはなぜかできない。

そこで、近くにいた知り合いと思われる人に、「ちょっとこれはがしてくれない?」と頼んだ。

それを頼んだときに掴まれたのか、その前から掴まれていたのかわからないが、
その背後にはりついていた何者かがわたしのキンタマを掴んでいた。
とても痛かった。その痛みは鋭いものではなく、鈍く、重いものだった。

そして結局背後にいるものがはがされないまま、目が覚めた。
その目が覚める瞬間に、キンタマの痛みもすーっと消えていった。
そして、わたしは「あ、これは自分が作り出している幻覚にすぎないな」ということがわかった。