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2012年9月22日土曜日

共産主義

金日成は、「抗日パルチザン」の出身だそうだ。
彼はソ連で育ったので、第二次大戦が終わって民衆の前で演説したときに、
ろくに朝鮮語が話せなかったそうだ。

毛沢東も日本に対して戦った。

この、金日成とか毛沢東とかが日本と戦ったのは、単なる戦争とは違う。

少なくとも私は区別している。


彼らは自分或いは祖国を守るために戦ったのではない。

彼らは、戦うために戦ったのである。
そういう意味では、純粋な戦士である。


「共産主義」の恐ろしいところはそこである。
彼らは、戦うことを目的としている。ある目的のために戦っているのではないのである。


「共産主義とは何か」
ということを、たかがブログの1エントリーで喝破するつもりはないが、
私は直感的に、反射的に、嫌悪感というか違和感というか、拒否したくなる気持ちがある。


金日成のときもそうだったのだが、こういう「左翼活動」をおこなった人の生い立ちを聞くと、
なんともいえない切ない、やりきれない悲しさを感じる。
それはある意味、甘美とさえ言えるものである。

その甘美さというのは、ある種の献身、悲壮感、潔さ、みたいなものだ。

そして、彼らはその甘美さに見せられて身を共産主義に投じているのではないかと思う。


もともと、共産主義というのは世の中が戦いであると、歴史とは戦いであり争いであると、
そういう考えに端を発している。


誰もが衣食住に困らず平和に暮らせたらいいと思うのは当たり前である。
共産主義の意味はそこにあるのではない。

共産主義とはその「理想」を、実力行使によって獲得しようという物騒な考えのことを言うのである。
世の中に対する漠然とした不満に正当性と現実的な行動目的を与えたのである。


「現在の社会は理想からほど遠い。そしてわれわれは理想を実現するために現在の社会を破壊して新しい社会を建設すべきだ。建設しなければならない。」

共産主義の本質はここにある。

富める者と貧しき者がいて、貧しき者が富める者に仕えている。

この状態を、なるべくしてなったと考えずに、富める者が不正な手段によりつくりあげた歪んだ状態であるとみなしたのである。

確かに歪んだ状態であるかもしれない。私もそれを否定はできない。
しかし、肯定はもっとできない。



私が共産主義にもっとも反発を覚えるのは、「労働」に対する考えである。
私は「労働」というものに高尚さや神聖さを一切感じない。

労働は必要悪だと思っている。
働くことは楽しくないし、苦痛だし、面倒だし、みっともないものでさえある。

人は働くことで人らしくなるなんて絶対にウソで、
労働は人を疲弊させ卑しくさせるだけだ。

わたしにはそういう労働観がある。


でも、働かないと生きていけないので、働いて、
週末はのびのびと自分のしたい事をする。
そして月曜になると憂鬱だけど、生きていくためには仕方がない、
と仕事にでかける・・・。


共産主義というのは、このような多くの人が持っている「世の中こういうもんだろう」
という面倒臭さ、そんなに夢見たいな話はない、みたいな思いを、
逆の形に徹底する思想である。

「毎日遊んで暮らせる」「自分のやりたい放題やっていい」
ということが実現不可能なのは皆わかっている。

でも、だからと言って、毎日している自分の仕事が神聖で不可侵なものである、
などというのもしらじらしいというか、嘘であることもわかる。


今、共産主義を否定する人はたくさんいる。
否定しない人の方が少ないくらいだ。

だが、その理由ははっきりしない。
それは、「共産主義とは何か」ということがわかっていないからだ。


「共産主義は排他的な独裁を生む」
「計画経済は機能せず、逆に国家を貧しくする」

などが言われるが、それは結果に過ぎない。

なぜ、共産主義は独裁を生み、飢餓を産むのか。

そんなものに、どうして一時期世界中の人々が夢中になって国家さえ成立したのか。


ソ連が崩壊してベルリンの壁が崩壊して、いまや共産主義は過去の遺物となった観がある。
しかし、その本質は滅んでいない。

多くの人が、共産主義を、それにもとづく独裁者を、単なる「世界制覇の野望」みたいなものだと捉えている。

アレクサンダー大王とか、ローマ帝国とか、チンギス・ハーンとか、
世界中を自分の支配下におこうという途方もない野望実現のためのひとつの方法として、
共産主義というものがあらわれたと考えている人がいる。

そして、「そんなうまい話があるわけない」
ということで、終わった、と思っている。

そんな簡単なことだろうか?

そんな簡単なことで、何百万人の人を粛清できるものだろうか?