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共産主義

金日成は、「抗日パルチザン」の出身だそうだ。
彼はソ連で育ったので、第二次大戦が終わって民衆の前で演説したときに、
ろくに朝鮮語が話せなかったそうだ。

毛沢東も日本に対して戦った。

この、金日成とか毛沢東とかが日本と戦ったのは、単なる戦争とは違う。

少なくとも私は区別している。


彼らは自分或いは祖国を守るために戦ったのではない。

彼らは、戦うために戦ったのである。
そういう意味では、純粋な戦士である。


「共産主義」の恐ろしいところはそこである。
彼らは、戦うことを目的としている。ある目的のために戦っているのではないのである。


「共産主義とは何か」
ということを、たかがブログの1エントリーで喝破するつもりはないが、
私は直感的に、反射的に、嫌悪感というか違和感というか、拒否したくなる気持ちがある。


金日成のときもそうだったのだが、こういう「左翼活動」をおこなった人の生い立ちを聞くと、
なんともいえない切ない、やりきれない悲しさを感じる。
それはある意味、甘美とさえ言えるものである。

その甘美さというのは、ある種の献身、悲壮感、潔さ、みたいなものだ。

そして、彼らはその甘美さに見せられて身を共産主義に投じているのではないかと思う。


もともと、共産主義というのは世の中が戦いであると、歴史とは戦いであり争いであると、
そういう考えに端を発している。


誰もが衣食住に困らず平和に暮らせたらいいと思うのは当たり前である。
共産主義の意味はそこにあるのではない。

共産主義とはその「理想」を、実力行使によって獲得しようという物騒な考えのことを言うのである。
世の中に対する漠然とした不満に正当性と現実的な行動目的を与えたのである。


「現在の社会は理想からほど遠い。そしてわれわれは理想を実現するために現在の社会を破壊して新しい社会を建設すべきだ。建設しなければならない。」

共産主義の本質はここにある。

富める者と貧しき者がいて、貧しき者が富める者に仕えている。

この状態を、なるべくしてなったと考えずに、富める者が不正な手段によりつくりあげた歪んだ状態であるとみなしたのである。

確かに歪んだ状態であるかもしれない。私もそれを否定はできない。
しかし、肯定はもっとできない。



私が共産主義にもっとも反発を覚えるのは、「労働」に対する考えである。
私は「労働」というものに高尚さや神聖さを一切感じない。

労働は必要悪だと思っている。
働くことは楽しくないし、苦痛だし、面倒だし、みっともないものでさえある。

人は働くことで人らしくなるなんて絶対にウソで、
労働は人を疲弊させ卑しくさせるだけだ。

わたしにはそういう労働観がある。


でも、働かないと生きていけないので、働いて、
週末はのびのびと自分のしたい事をする。
そして月曜になると憂鬱だけど、生きていくためには仕方がない、
と仕事にでかける・・・。


共産主義というのは、このような多くの人が持っている「世の中こういうもんだろう」
という面倒臭さ、そんなに夢見たいな話はない、みたいな思いを、
逆の形に徹底する思想である。

「毎日遊んで暮らせる」「自分のやりたい放題やっていい」
ということが実現不可能なのは皆わかっている。

でも、だからと言って、毎日している自分の仕事が神聖で不可侵なものである、
などというのもしらじらしいというか、嘘であることもわかる。


今、共産主義を否定する人はたくさんいる。
否定しない人の方が少ないくらいだ。

だが、その理由ははっきりしない。
それは、「共産主義とは何か」ということがわかっていないからだ。


「共産主義は排他的な独裁を生む」
「計画経済は機能せず、逆に国家を貧しくする」

などが言われるが、それは結果に過ぎない。

なぜ、共産主義は独裁を生み、飢餓を産むのか。

そんなものに、どうして一時期世界中の人々が夢中になって国家さえ成立したのか。


ソ連が崩壊してベルリンの壁が崩壊して、いまや共産主義は過去の遺物となった観がある。
しかし、その本質は滅んでいない。

多くの人が、共産主義を、それにもとづく独裁者を、単なる「世界制覇の野望」みたいなものだと捉えている。

アレクサンダー大王とか、ローマ帝国とか、チンギス・ハーンとか、
世界中を自分の支配下におこうという途方もない野望実現のためのひとつの方法として、
共産主義というものがあらわれたと考えている人がいる。

そして、「そんなうまい話があるわけない」
ということで、終わった、と思っている。

そんな簡単なことだろうか?

そんな簡単なことで、何百万人の人を粛清できるものだろうか?



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死を望む人の死生観

最近は死にたい気持ちがいっそう募ってきた。単なる慣用句また感動詞としての「死にたい」ではなく、本格的な「希死念慮」という奴である。

そしてまた自殺の方法を調べた。恐怖と苦痛が少なく迷惑もかけない死に方はないか・・・。

すると、2ちゃんねるの自殺未遂体験を語るスレッドが見つかった。
以前にもちょっと眺めたことはあるが、じっくり読んでみた。

多いのは薬物とリストカットと足がつく場所での首吊りだった。
失敗した原因は、同居人のいる自宅で遂行した、電話やメールで知人にほのめかすかあるいははっきり宣言して助けられた、恐怖で自殺を思いとどまった、などである。

共通しているのは、すべて自分が死ぬ覚悟ができていなかった、死ぬ恐怖に打ち勝てなかったということである。

自殺の話になるとまず言われるのは「自殺なんかしてはいけない。命は授かりものだ。」という自殺罪悪説である。それから、「自殺未遂なんて本気で死ぬつもりなどないのだ。死にたいのならとっとと死ね」という未遂に対する罵倒。そして、「何があったの?死ぬ前に誰かに相談すれば?生きてればいいことあるよ」という心配。

「自殺は素晴らしい」という人はまずいない。
だが、非常に潔く動機も生活苦などではない場合はそれが賞賛される場合もある。
乃木稀典とか、三島由紀夫とかである。

私はこの2人の自殺にも興味を持っていろいろと調べてみたが、あまり手放しでは賞賛できないような事実をいくつか知った。そして、2人の死について否定的な考えを表明している有名人も大勢いることを知った。



調べれば調べるほど、自殺というのは限りなく困難なもので、ほとんど不可能に近いと思えてくる。
ロープを用意し、山の中まで行って首を入れるところまでいってもやめてしまう人がいる。
薬の大量服用については、本人の意志に関係なく吐いてしまい、まず成功することがない。

未遂に終わった場合、「二度と自殺なんかしない」という人が多いが、中には「今度こそ」と考える人もいる。実際、自殺に成功した人は何度か未遂を繰り返した人が多いそうである。



私は自殺を試み未遂に終わる人たちがすべて本気で死のうとしていないとは思わない。
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思いとどまるときに、たと…

グリーン車で横の席に荷物を置く人

私は常磐線で通勤しているのだが、最近朝がつらくて、
グリーン車に乗ることが多い。

私が乗る駅では、グリーン車は窓際はまず埋まっている。

窓際に人がいる隣の通路側の席に座る。


だが、そこにカバンを置いている人が非常に多い。

私はそれがとても頭にくる。というか、その神経が理解できない。


なぜそんなことができるのだろうか?

私は休日にもグリーン車に乗ることがあるが、

ガラガラでもとなりの席に荷物など置いたことはない。

なぜなら、グリーン車は有料だからだ。


距離によるが、550円とか770円とか、ランチが食べられるくらいの料金だ。


まあ、ガラガラであれば、カバンを置いても、私はしないが、まあ許せる。

でも、通勤ラッシュ時で、上野につくころにはほぼ満席になる常磐線のグリーン車で、

隣の席に荷物を置くのは許せない。

その荷物をつかんで放り投げたくなる気持ちを懸命に抑える。


時々、そういう人にむかって、「すいません」と言って席を空けてもらって座る人がいる。

謝るのは荷物を置いている方だろ!


そういうときに、荷物を置いている人が謝るのを見たことがない。

私は、絶対に謝らない。そこまでして座りたくない。


が、そういう人がいると、顔をじっと見る。

そうすると、だいたいどける。



最近わかってきたのだが、この行動は無神経であるとか気が利かないというのではなく、

隣に人を座らせたくないので故意にやっているようだ。


なんという、利己的な行為だろう。私はそういう行為が本当に嫌いだ。


私も、なるべく隣に人がいない席を選ぶ。隣に人が来て欲しくないという気持ちはわかる。

でも、だからって荷物を置いて座らせないようにするなんてことは絶対にできない。

そんなことまでしたくない。


昨日は、隣の席に荷物を置いて寝ている人に、「すいません」と声をかけている人がいたのだが、

寝ている人は2、3度声をかけられても起きなかった。

多分、気づいているのに起きなかったのだろう。



私は振り返って、その人がどんな顔をしているか見た。

年齢は私よりやや上、50歳前後だ。

上着を着ずにワイシャツとスラックスの、ごく普通のサラリーマン風の男性である。


特にバカそうでもズルそうでもダメ人間でもだらしない感じでもない。

でも、そういうごく普通の人間が、このような利己的な行為をするものなのである。

これは静かなる暴力と言ってもいい。


キンタマを掴まれる

この話はツイッターで言いたかったのだが、どうしても「キンタマ」と書く勇気が出なかったのでこっちに書く。

私は猥談が嫌いだ。
猥談なんかしていたのは高校生まで。
わけあって私は一切猥談をしなくなった。
飲み会でもしない。飲み会でそういう話題になると貝になる。

そして、「キンタマを掴まれる」という言葉には性的な意味はない。
それは常識かもしれないがやっぱりキンタマなどという言葉を口にすることははばかられる。
わたしも「キンタマ」などという言葉を思い出したのは久しぶりで、懐かしささえ感じた。

なんで思い出したかというと、夢の中でキンタマを掴まれたからだ。
その夢では、わたしは背後にぴったりと誰かが張り付いているのを感じていた。
それは見えないし、ぴったりではあるがそっとなので気のせいかなと思うくらいだ。
だが、間違いなく張り付いていると確信した。だが、それを自分で払いのけることはなぜかできない。

そこで、近くにいた知り合いと思われる人に、「ちょっとこれはがしてくれない?」と頼んだ。

それを頼んだときに掴まれたのか、その前から掴まれていたのかわからないが、
その背後にはりついていた何者かがわたしのキンタマを掴んでいた。
とても痛かった。その痛みは鋭いものではなく、鈍く、重いものだった。

そして結局背後にいるものがはがされないまま、目が覚めた。
その目が覚める瞬間に、キンタマの痛みもすーっと消えていった。
そして、わたしは「あ、これは自分が作り出している幻覚にすぎないな」ということがわかった。