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2012年9月23日日曜日

疎外

私はマルクスの書いたものをほとんど読んでいない。
「経済哲学草稿」は大学の授業で教科書に指定されたがチンプンカンプンだった。
それから20年くらい経って、「賃金価格及び利潤」を読んで、ちょっとおもしろかった。
もちろん、「資本論」など読んでいない。
だが、「マルクスとはこういう考えを述べた」「共産主義とはこういうものだ」という話は、いろいろなところで聞いていて、私なりに彼がどういう人間で共産主義とはどういうものであるかは理解しているつもりであった。


昨日、「労働」についてのマルクスの考えに同意できない、ということを書いたが、私が労働について感じていることは、マルクスが言っている「労働が疎外されている」ということなのではないか、と気づいてもう一度「疎外」について調べてみた。

「疎外」という言葉は、現代では「のけものになる、つまはじきになる」という意味でも使われているが、マルクスのいう「疎外」はそのような意味ではない。

wikipediaを始めとしてさまざまな人のブログやらなんやらを読んでもどれもピンと来ないのであるが、要するに疎外というのは「本来の状態ではなくなっている」ことのようだ。

そしてマルクスは特に、労働者は働いても働いても満足を得られずかえって自分が生産したはずのモノに支配されるという状態になっている、と言ったのだと思う。

だとすると、私が感じている「労働なんか高尚なものじゃない」というのと疎外というものは似たものと言えるかもしれない。

だが、私はその状態を本来の姿ではないとは思っていない。だから、それを取り戻す必要もないと考える。
マルクス達は、人が働いて何かを生産してもその生産物の主人となれないことを問題視した。そしてそのような問題を起こしている元凶は資本家だとしたのである。・・・なぜそうなるのか?飛躍にも程がある・・・。

「飛躍」。
これはマルクスについての話を聞くとよく出てくる言葉である。彼を批判する言葉であるが、逆にそれがマルクスの魅力だという人もいる。
いわゆる「左翼」の人の話を聞いていると、私もよく「飛躍」を感じる。それはある意味思い切りのよさ、「喝破」であり、「よくぞ言った!」というところでもあるのだが、『・・・そんなうまい話があるかね・・・』と疑問を抱くところでもある。


というわけでマルクスたちの言う「疎外」の意味がよくわからないので、ここで私の「労働観」を述べよう。「なぜ労働がつまらないのか」「なぜ働いても働いても満足が得られないのか」。

別に難しいことや目新しいことを言うつもりはない。ごく常識的な、だれでも当たり前だと思っていることの確認である。


「働く」ということは、今日では多くの場合民間企業に雇用されることを言う。
医者とか、漁師とか、芸術家とかは例外とする。
公務員については、雇用と似ているが異なるのでこれも除外する。


人は働いて報酬を得る。このとき人は自分の体を一定時間拘束されて指定された労働をおこなう以外に何も提供しない。しかし、その労働によってなんらかの生産物が生産される。この生産物の所有者は労働者ではない。現代であれば「会社のモノ」というところだが、「会社」とは何か?社員のことか?社長のことか?資本家?資本家とはオーナーのことである。オーナーとは出資者である。話をわかりやすくするために、出資者が一人であったとする。

出資者は社員を100人やとって自動車を1台生産したとする。
その車を200万円で売ったとする。
社員には一人1万円の給料を払ったとする。
自動車を生産するためのその他の費用が50万円だったとする。
すると、50万円の利益を資本家は得ることになる。


これを「搾取」、つまり本来労働者が得るべき利益を資本家が不正に奪っている、と言うのがマルクス達の言い分である(というのが私の理解である)。

しかし、そんな言い分は負け惜しみというか逆恨みのようなものでしかない、というのが現代の常識であろう。


資本家が何の努力もしていなかったとしても、自動車を製造するための設備を持ち労働者に払う給料も持っているのだから、製造した自動車は買い手がつくのであればいくらで売ってもなんら責められることはない。

ただし、あまりに安い賃金しか支払われなければ労働者は当然不満を持つ。
しかし、労働者には転職という選択肢がある。もっと高い賃金を払ってくれる資本家の下で働けばよいのである。かくして資本家は労働者が逃げない程度の賃金をはらうようになる。

実際にはそんなに簡単に転職したり賃金が上下したりはしないだろうが、だからといって暴力革命を起こして社会を変革して変えるようなことでもない。

資本家だって生産物が売れなければ儲からないのでありリスクを負う。
なんなら労働者は賃金を貯金して自分も資本家となることもできる。

資本家が成功すれば莫大な利益を得られるのはリスクの見返りである。
そしてそれは別に誰が許可しているわけでもなく、自然法則である。

一方労働者の労働が概して単純でつまらないのは、自らリスクを負わず、
その代わり大きな損失を被ることもないという安全に対する見返りである。


共産主義のような発想が生まれそれに共感する人が大勢いたのは、
このような少数で楽をして大きな利益を得る資本家と、多数で身を粉にして働くものの貧しい生活をする労働者達という社会の構成があったからだろう。


だが、このような構成(あえて構造と言わない)になったのは誰のせいでもない。
特定の人間の発明でもなければ、もちろん神の摂理でもない。
たんなる自然現象である。


これは経済に限らず、政治にも見える現象である。
いつの時代にも権力を独占し広大な領土を持とうとする者が現れる。
それを実現すると豪奢な生活をし、一部の管理層を除く被支配者を冷遇する。
不満が鬱積すると反乱が起き、反乱が起きても理不尽な独裁を続けていれば転覆が起こる。


共産主義も、そのような不当な独裁に対する反乱だとすれば、
無理もないことだと容認できる。

でも、そのような下層の人間による社会の転覆、つまり革命が起きた後は社会は混乱し、
その混乱を静めようと強権を発動するものが現れ、その者はまた新たな独裁者となっていくのである。歴史はそれを繰り返してきた。



その結果人々があらそい、殺し合いまでもして、社会は安定せず、人々は安心して暮らせない。それはよくないことである。
争うことなく、ほどほどの生活をして仲良く暮らしていければよい。


だが、合い争う歴史というものが誰が作ったものでもない限り、それを止めることは誰にもできない。もしいたとしたら、その人間はそれまでの歴史をすべて管理することのできるような超人である。


だが、ここで間違ってはならないのは、「だから資本主義が正しい。自由が正しい。」と結論付けることである。
それが「共産主義」であろうと、「資本主義」であろうとなんだろうと、「これが正しいのだ」という原理原則、ポリシーの下に運営されるシステムは必ず一部の独占と不当な格差を生む。


人が「世の中を変えたい」と考えるのは、自分が、せいぜいが自分の仲間たちが、不遇であることを改善したいという欲求にすぎない。
自分やその仲間が不当に虐げられていれば、怒り、正当な状態を回復するのは当然であるが、それ以上のことをしようとすれば、その人はやはり新たな独裁者となるのである。


だが、人々は独裁を求める。自分が独裁するのでなければ、誰かが独裁することを求める。
自分の理想どおりであれば、独裁者はむしろ必要なのである。

これはどうしようもない人間の本性である。
人間は強力な権力を持った支配者を必要としている。

しかし人々は自ら求めた支配者にいつかあいそを尽かし、歯向かい、その足元をすくう。
そして新たな支配者を探し、それにへつらう。それを繰り返す。



今私に言えることは、「労働」というものがそういう人間の本性に逆らうものである、
ということである。

人は支配されることを望まない。支配する本性を持つ。


それが正当なものであれば、支配に従う。むしろ、支配されることを求める。
全くの自由放任、無重力状態のような世界を人間は嫌う。そこでは生きていけない。


ところが、現代の多くの人々がそうであるように、企業に雇用されて働く、ということは人が本来求める支配の形ではないのである。

それは、「本来の労働ではない」ということではない。

労働の本来の姿が、労働自体が、人間の本性に反するものなのである。
これが私の労働観である。



人間の本性に反することをしないと生きていけない。
これが人間である。