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簡潔な文章とは

最近、職場の後輩に文章の書き方について注意をした。

「文章」と言っても、メールのことである。

彼の文章は言葉足らずで、「AはBです、CはDではありません。」
というようなことしか書かない。

「AはBなのでオッケーです。」「CはDなのでヤバいっす。」
というように事実とそれについての自分の判断や意見を書かない。

そして、人の言葉をまねる。だれかが書いたメールの文章をマネて、
単語だけ置き換えるような書き方をする。


私はちょくちょく、彼に質問した。
「このメールだけど、AはBですって書いてあるけどそれでいいの?」
「昨日はAはBだったのに今日はCになってるけどどっちが正しいの?違ってていいの?」

最初はこれだけであった。
それは、私にとっては「指導」「アドバイス」のようなものであった。

しかし彼は私の質問に対し、単に答えるだけで、
自分の書いた文章が説明不足であるとか誤解をまねく表現をしているなどとは思っていないようであった。

もしくは、私が彼を困らせる、あるいは彼のしたことを批判するようなつもりで言っていると思っているのか、困ったような顔をして答えないときもある。

私はだんだん語気を強めていった。

私は、どうも彼は「ビジネス文書は簡潔であるべき」ということにこだわりすぎているのではないかと思い始めた。

それはよく言われることであるが、「簡潔」というのは非常に難しいことである。
たしかに簡潔な文章は読みやすいが、そう簡単に簡潔な文章など書けない。

文章というのは、積み木のようなものではなく、彫刻のようなものだ。

積み木は積み増すことによって情報量が増していくが、彫刻は削ることによって情報量が増していく。

私が指導した後輩の文章はほとんど削られていない木片のようなものである。
見ようによっては「簡潔」である。
だが、そこには何の情報もない。
木片の角がひとつでも欠けていれば、「おや?」と思う。

「簡潔な文章」というのは、それを書く作業が少ない文章のことを言うのではない。
読み手にとっての作業が少ないものを言うのである。



短ければ簡潔なのではない。

・・・だ、・・・・である、という文体にすれば簡潔なのでもない。


「簡潔に」「要点を言え」というのは会社でよく言われることであるが、
それは非常に難しいことなのである。

人がしゃべったり書いたりするのは何か伝えたいことがあるからであり、
「AはBだ」だけでは不十分だからいろいろと加えるのである。


あと、「箇条書きでいいから」というのもよく言われる。
箇条書きの方が簡単、とされているのだ。

だが、私は「箇条書き」を好まない。
箇条書きをするにはある程度の整理や分類が必要で、
わたしにとっては面倒だ。

読むのも嫌いだ。

事実を羅列されるほどムカつくことはない。

「で?」
といいたくなる。



その、私が指導した後輩にも言ったことなのだが、
メールの文章なんかたかだか数百字。
原稿用紙1枚にも満たない。

多少文章が長くなったくらいで別に業務に差し支えるほどの時間のムダにはならない。

むしろ、暗号のような短い文章によって引き起こされる誤解や私がするような質問とか指導が発生することの方を気にするべきである。









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死を望む人の死生観

最近は死にたい気持ちがいっそう募ってきた。単なる慣用句また感動詞としての「死にたい」ではなく、本格的な「希死念慮」という奴である。

そしてまた自殺の方法を調べた。恐怖と苦痛が少なく迷惑もかけない死に方はないか・・・。

すると、2ちゃんねるの自殺未遂体験を語るスレッドが見つかった。
以前にもちょっと眺めたことはあるが、じっくり読んでみた。

多いのは薬物とリストカットと足がつく場所での首吊りだった。
失敗した原因は、同居人のいる自宅で遂行した、電話やメールで知人にほのめかすかあるいははっきり宣言して助けられた、恐怖で自殺を思いとどまった、などである。

共通しているのは、すべて自分が死ぬ覚悟ができていなかった、死ぬ恐怖に打ち勝てなかったということである。

自殺の話になるとまず言われるのは「自殺なんかしてはいけない。命は授かりものだ。」という自殺罪悪説である。それから、「自殺未遂なんて本気で死ぬつもりなどないのだ。死にたいのならとっとと死ね」という未遂に対する罵倒。そして、「何があったの?死ぬ前に誰かに相談すれば?生きてればいいことあるよ」という心配。

「自殺は素晴らしい」という人はまずいない。
だが、非常に潔く動機も生活苦などではない場合はそれが賞賛される場合もある。
乃木稀典とか、三島由紀夫とかである。

私はこの2人の自殺にも興味を持っていろいろと調べてみたが、あまり手放しでは賞賛できないような事実をいくつか知った。そして、2人の死について否定的な考えを表明している有名人も大勢いることを知った。



調べれば調べるほど、自殺というのは限りなく困難なもので、ほとんど不可能に近いと思えてくる。
ロープを用意し、山の中まで行って首を入れるところまでいってもやめてしまう人がいる。
薬の大量服用については、本人の意志に関係なく吐いてしまい、まず成功することがない。

未遂に終わった場合、「二度と自殺なんかしない」という人が多いが、中には「今度こそ」と考える人もいる。実際、自殺に成功した人は何度か未遂を繰り返した人が多いそうである。



私は自殺を試み未遂に終わる人たちがすべて本気で死のうとしていないとは思わない。
彼らは本当に絶望していて、生きることは苦痛以外の何物でもなく、死ぬしかないと思っている。
しかし、いざ死のうとすると苦痛と恐怖で思いとどまってしまう。

思いとどまるときに、たと…

グリーン車で横の席に荷物を置く人

私は常磐線で通勤しているのだが、最近朝がつらくて、
グリーン車に乗ることが多い。

私が乗る駅では、グリーン車は窓際はまず埋まっている。

窓際に人がいる隣の通路側の席に座る。


だが、そこにカバンを置いている人が非常に多い。

私はそれがとても頭にくる。というか、その神経が理解できない。


なぜそんなことができるのだろうか?

私は休日にもグリーン車に乗ることがあるが、

ガラガラでもとなりの席に荷物など置いたことはない。

なぜなら、グリーン車は有料だからだ。


距離によるが、550円とか770円とか、ランチが食べられるくらいの料金だ。


まあ、ガラガラであれば、カバンを置いても、私はしないが、まあ許せる。

でも、通勤ラッシュ時で、上野につくころにはほぼ満席になる常磐線のグリーン車で、

隣の席に荷物を置くのは許せない。

その荷物をつかんで放り投げたくなる気持ちを懸命に抑える。


時々、そういう人にむかって、「すいません」と言って席を空けてもらって座る人がいる。

謝るのは荷物を置いている方だろ!


そういうときに、荷物を置いている人が謝るのを見たことがない。

私は、絶対に謝らない。そこまでして座りたくない。


が、そういう人がいると、顔をじっと見る。

そうすると、だいたいどける。



最近わかってきたのだが、この行動は無神経であるとか気が利かないというのではなく、

隣に人を座らせたくないので故意にやっているようだ。


なんという、利己的な行為だろう。私はそういう行為が本当に嫌いだ。


私も、なるべく隣に人がいない席を選ぶ。隣に人が来て欲しくないという気持ちはわかる。

でも、だからって荷物を置いて座らせないようにするなんてことは絶対にできない。

そんなことまでしたくない。


昨日は、隣の席に荷物を置いて寝ている人に、「すいません」と声をかけている人がいたのだが、

寝ている人は2、3度声をかけられても起きなかった。

多分、気づいているのに起きなかったのだろう。



私は振り返って、その人がどんな顔をしているか見た。

年齢は私よりやや上、50歳前後だ。

上着を着ずにワイシャツとスラックスの、ごく普通のサラリーマン風の男性である。


特にバカそうでもズルそうでもダメ人間でもだらしない感じでもない。

でも、そういうごく普通の人間が、このような利己的な行為をするものなのである。

これは静かなる暴力と言ってもいい。


キンタマを掴まれる

この話はツイッターで言いたかったのだが、どうしても「キンタマ」と書く勇気が出なかったのでこっちに書く。

私は猥談が嫌いだ。
猥談なんかしていたのは高校生まで。
わけあって私は一切猥談をしなくなった。
飲み会でもしない。飲み会でそういう話題になると貝になる。

そして、「キンタマを掴まれる」という言葉には性的な意味はない。
それは常識かもしれないがやっぱりキンタマなどという言葉を口にすることははばかられる。
わたしも「キンタマ」などという言葉を思い出したのは久しぶりで、懐かしささえ感じた。

なんで思い出したかというと、夢の中でキンタマを掴まれたからだ。
その夢では、わたしは背後にぴったりと誰かが張り付いているのを感じていた。
それは見えないし、ぴったりではあるがそっとなので気のせいかなと思うくらいだ。
だが、間違いなく張り付いていると確信した。だが、それを自分で払いのけることはなぜかできない。

そこで、近くにいた知り合いと思われる人に、「ちょっとこれはがしてくれない?」と頼んだ。

それを頼んだときに掴まれたのか、その前から掴まれていたのかわからないが、
その背後にはりついていた何者かがわたしのキンタマを掴んでいた。
とても痛かった。その痛みは鋭いものではなく、鈍く、重いものだった。

そして結局背後にいるものがはがされないまま、目が覚めた。
その目が覚める瞬間に、キンタマの痛みもすーっと消えていった。
そして、わたしは「あ、これは自分が作り出している幻覚にすぎないな」ということがわかった。