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10月, 2012の投稿を表示しています

お尻がキューンと痛む

説明が難しいが、便意を感じたときに、お腹というか腸なのか、ほとんど肛門のあたりがツーンというかキューンというか、痛むことがある。
その痛みは数秒くらい続いて収まるのだが何度か繰り返し、排便するとすっかり収まる。

痛みは結構強烈で、「痛い痛い」と声に出さずにいられないし、じっとしていられないほどである。

ただその痛みは、明るい痛みというか、下痢のときなどにおそわれる「シクシク」したような鈍い重い痛みではない。

下痢の正反対で、ウンコが硬すぎて痛くなるのかと思ったこともある。そんな痛みだ。

検索してみたら「突発性肛門痛」というのがあって症状が似ている。
「筋肉痛のようなもの」と書いてあるが、筋肉痛という感じではないので違うかな。

多分、経験している人は多いはずだ。
別に深刻な病気などではないと思うのだが、どうして痛むのかをしりたい。

クラウドって何?

私はいわゆる「IT」の仕事をしている。
もう20年以上になる。

もっとも、20年前に「IT」などという言葉はなかった。
「情報処理」とか「ソフトウェア産業」とか「コンピュータ関係」などと呼ばれていた。

コンピュータにおいて通信の役割が重要になってきたのは、いつ頃だったろうか。
決定的でよく覚えているのは1995年のWindows95の登場だった。
95によって一般人にインターネットが広まったといっても過言ではない。

ただ、インターネットの前に「パソコン通信」という世界があった。
私はNifty Serveを利用していた。

そして業務においては、コンピュータによる通信を「オンライン」と呼んでいた。
たとえば東京の本社と大阪支店の間で売上データをやりとりするなどである。

「オンライン」というものは、私が社会人になって2,3年で非常に重視されるようになった。

「ネオダマ」という言葉があった。これは「情報処理」界で注目すべき4つの新しい動向のことで、
「ネットワーク」、「オープン」、「ダウンサイジング」、「マルチベンダ」の頭文字である。
「ネオダマ」という言葉を初めて聞いたのは、1992年頃だったかな・・・・
勤めていた会社のある課長さんが何かのドキュメントに書いていたのを見たのだが、「なんだよネオダマって。頭文字とってくっつけただけで意味ないじゃん」と笑っていたのだが、世間でも使われていることを後で知った。


「IT」という言葉が使われるようになったのはいつ頃だろうか・・・。
Windows95が出た頃は、少なくとも私は使っていなかった。
1998年ごろ私がいた会社では、部署名に「IT」という文字が入っていたような覚えがある。
私が自分がしている仕事を「IT」だと言うようになったのは本当に最近、2010年くらいからだ。

今調べたら2000年に森首相が「イット」と読んだという。その頃は私はITという言葉は知っていたが、自分がITギョウカイにいるといわないのはもちろん、「IT」という言葉を使うこともしていなかった。


今では「IT」というのはソフトウェアとかコンピュータのことではなく、ネットワークつまり通信のことだといっても過言ではないくらいになった。そして、「クラウド」というものが現れた。

実は私は「クラウド」のことがよくわからない。

最近はなんでもかんでもインターネットを使うようになった、メールもパソコンでメーラーを使…

空っぽの自分

自分が空っぽになっていくような感覚がある。

それは、たとえばスポーツ選手が大会で負けてしまったとか、 何か大きなイベントがあって気が抜けたとか、 そんなものではなくて、もっとあいまいでもやもやしていて、 『なんかヘンだな』と感じるくらいの軽い感覚である。
別につらくもないし、不安であるとか焦るとかいうこともない。 ただ、人間はこんな状態でも生きていられるのか、いや、生きていかねばならないのか、 と、ちょっと唖然とする。
とりあえず、さしせまってやらねばならないことは何もない。 自分を急かすものも、自分を待っているものも何もない。 私はまるっきり自由だ。何をしても誰も何も言わない。私は完全に自由である。
しかし、私は何もする気にならない。元気がないというより、空っぽなのだ。 空っぽというのは、たとえば電池がないとか、エネルギーが切れたというのでもない。 自分の中にあった何かが消耗したという感じではない。それであれば、休むとか、 エネルギーを補給すれば回復するだろう。
困ったことは、本が読めないことだ。 何を読んでも頭に入ってこない。小説を読むと、たしかに字を追ってページもめくっているのに、 全然話の内容がわかっていない。どうでもいい昔のことを思い出したりしている。 ふと気づくと小説の登場人物が激しく怒ったり、どうしようもない状況に悩んだりしているのだが、どうしてそうなったのかがわからない。
絵を描いてみる。ギターを弾いてみる。キーボードを弾いてみる。 何も生まれない。誰かの作品をマネてみる。なるほど、すごいな、と思う。 とても自分にこんなものを創作することなどできないと、呆然とする。
今まで自分は何をしていたのだろう? 私だって、我を忘れて何かをすることはあった。気が付いたら一日が終わっていた、 あれ、もうこんな時間か、今週はあっという間だったな、ということもあった。 時間がない、あと3日しかない、3日じゃ無理だ、とあせることもあった。
だがそんな自分はもういない。私は空っぽの人間である。
酒のせいだろうか? 確かに私は特に最近は、いつも酒を飲んでいた。 夜はもちろん、週末は昼間から、下手をすれば朝から酒を飲んでいた。 酒を飲むとなんとなく楽になった。もしくは体がだるくなり、眠くなり、 何もできなくなって、あるいは苦しく不快になって、それが回復することだけを考えていれば、 時間はすぎ、なんとなく生きている感覚があった。
今はシラフ…

広告

このブログに広告をのせた。google adsenseである。
理由は、カネである。1円でもいいからカネが欲しいのだ。
(実際は1万円単位で支払われるらしいが)

私はインターネットの広告が大嫌いだし、インターネットで何か検索してその結果表示される広告をクリックして何か買う人なんてバカじゃないのかと思っている。

しかし、googleはそれによって大成功したのであり、google以外でもインターネット上のサービスはすべて広告によって利益を得ていると言っても過言ではない。だから、実際に効果があるのであろう。

私のブログは宣伝をしていないどころか、誰にもこんなものを書いていることを教えたことはなく、知っている人に見られたら恥ずかしいので個人情報などを書かないように細心の注意を払っているくらいだ。

そんなブログでも、統計情報を見ると、一日に数件程度であるがアクセスがある。検索エンジンの検索結果に私のブログの記事も表示されるのである。

このブログはまだ書き始めたばかりだが、ここではないあるサイトに書いた文章は、あるキーワードで検索するとトップに表示される。そんなに特殊な言葉ではないので少し驚いた。

SEO(だっけ?)とかいう、「いかに検索結果の上位に表示するか」ということが研究され、それを商売にしている人さえいるらしいが、ある程度検索語を選択し組み合わせるなどすれば、自分が書いた文章などはかんたんにgoogleで検索することができる。

このことは便利というより恐ろしいことである。


というわけで、私のブログにアクセスした人が広告をクリックするかもしれないと思って、広告をのせた。また、自分が書いているようなくだらない無色透明なブログにどんな広告が表示されるのかも興味があった。

読者のみなさんには是非広告をクリックして商品を購入して頂きたい。

原稿用紙3750枚

twitterのアカウントを分析してくれるwhotwiというサイトで、私の今までツイートした文字数が50万字であることを知った。
50万字は400字詰め原稿用紙で1250枚になる。

twitter歴は約2年半である。

1日あたりにすると原稿用紙1枚ちょっとくらいで、たいしたことはないようだが、 それを2年半続ければ1250枚にもなるのである。継続は力なりである。
もっともツイートなんか、特に私は、思ったことを何も考えず推敲なども一切なく、「腹減った」だの「眠い」だののようなものばかりなのできわめて内容は薄い。
でも、それにしても、50万字ものツイートをしていたとは驚きだった。

私はtwitter以外に、自分のブログをいくつか書いている。 また、ブログではないが、自分のウェブサイトにいろいろと書き連ねたものもある。 その文字数を数えてみたら、150万字もあった。 原稿用紙で3750枚である。
こちらを記述した期間は、10年近い。 これも思いついたことをメモする感覚で書いているが、twitterよりはややかしこまって、考えて書いている。ただし、これも推敲は一切していない。
私のこの文字を書く行動は、特に何かの訓練とか、必要とかに迫られてやっているわけではない。アクセス数を増やそうと工夫もしていない。広告などは一切のせていない。 (そういえばこのブログに広告をのせた。これについては後で書く。)
日記とか、ライフログとかいわれるような役割もないことはないが、 目的は「記録」ではない。
私は考えながら書くというか、書くことによって考える。 書き終えてから、「俺はこんなことを考えていたのか」と驚くことすらある。
私は小説を書いてみたいと思ったことが何度かある。実際に原稿用紙に書いてみたこともあるが、10枚も書けなかったような記憶がある。 ところが、口からでまかせみたいな感じで書けば原稿用紙何千枚分もの文字が書けるのだ。

お笑いブームの罪

最近職場で冗談を言う人が減った。
冗談でなくても、滑稽な動作とか、ちょっとしたミスとかで場が和むことがあった。
だが最近はめっきりそういうことが減ったように感じる。


具体的にと言われるとすぐに思いつかないが、くだらないダジャレとか、
たわいもない話をしていてある言葉を知らなくて「そんなことも知らないの?」とか、
「こんなバカな失敗をした」とか、くだらないことを自慢して「そんなこと自慢すんなよ(笑)」
とか、そういう事である。


そして私はそうなったのは、最近のお笑いブームのせいだと考えている。
その事は何度か主張してきた。
しかし、どうしてそうなのかを詳しく語ることはしてこなかった。
それは、たいしたことじゃないからというのと、時間や文字数の制限があるからだったが、
今はヒマで余裕があるので、自分でももやもやしたものを整理したいので、
ここに書いてみる。


お笑いブームとか、漫才ブームというようなものはいままでに何度かあったが、
現在ほどの大ブームは空前のものだと思う。
そして現在のブームが今までと違うのは、「お笑いがカッコイイ」という考えが出てきたことである。

人を笑わせるには技術がいるとか、この芸人にはそれがあってあの芸人にはないとか、
この笑いは邪道だとか、自分の好みじゃないとか、
お笑いを真剣に語るような風潮があらわれたのである。


本当なら、お笑いブームがおとずれたら人々のお笑いセンスは磨かれ向上して、
日常生活の冗談もくだらないダジャレでなくもっと知的で高等なギャグになるはずだった。
ところがそうはならず、むしろ人々は人を笑わせることに慎重になってしまった。

「こんなことを言ったらベタか」「サブいと言われてしまう」という恐れから、
ただの潤滑油や場をあたためるだけのものでしかなかった軽い冗談がうかつに言えなくなってしまった。

本当は、その手の「オヤジギャグ」は、ベタでサブいからこそ、おもしろかったのだ。
緊張していたり、退屈である場に、くだらないことを言う脳天気なバカがいるのを見て、
「こんなときにオマエは何を言ってんだよ」と人に思わせることでその場がなごんだのだ。

だが、現在のお笑いブームはお笑いを真剣に、点数をつけたり賞金獲得のために争わせてそれによって感動をもたらすようなものにまでなってしまった。
人を笑わせることが仕事と同じくらいの深刻な重いものになってしまった。

昔ながらのダジャレは若者が真顔で否定する。

ゴキブリを食べる

ゴキブリや芋虫、ヤスデなどの大食いコンテストで優勝した人がその直後に死亡したという事故があった。

話を聞いただけでうわぁっと思ったが、さらにそのときの様子をyoutubeで見た。
最初は動画が始まった直後にいったん見るのをやめたのだが、
意を決して見た。

優勝し死亡した男は30台くらいで少し太り気味の白人で、メガネをかけていた。
黄色いTシャツを着ていたが、胸のまわりが黒ずんでいた。

彼はゴキブリや芋虫、ヤスデなどを手当たり次第どんどん口につっこんで、口が閉まらないほどだった。

多分決勝戦の様子だったと思うが、5人くらいが並んで水槽に入ったゴキブリなどを全員が食べていた。優勝者以外はだいたい、むしゃむしゃとよく噛んで食べていたが、優勝者はほとんど噛まずに飲み込んでいるように見えた。

そしてコンテスト終了後、気分が悪くなってふらついているところまで映っていた。


コンテストを実施するくらいだから、ゴキブリなどは食べても問題のないものだったらしい。

死因はまだ不明だが、同じものを食べても他の出場者は無事だったことから、アレルギーなどが疑われているそうだ。

・・・

ここからが本題。

このコンテストの優勝商品は価格が7万円くらいのヘビだったそうだ。
7万円のためにゴキブリを食べるか?

書き忘れたが食べたゴキブリなどは全部生きているものだ。


私は今とてもカネに困っているが、1億円もらえて、1匹だけでもいいと言われても、生きたゴキブリは食べられないかもしれない。

親を殺すと言われたら、1匹なら死んだ気になっていけるかな・・・。

赤の他人なら見殺しにするかも・・・・。

それくらいありえない。


ごきぶりなど見ただけで震え上がるのに・・・。



私の認識論

こういうの、なんていうのでしょう、「唯我論」?「独我論」?
つまり、「ある人が認識している世界はその人の認識によるもの、つまりその人が作り出しているものであって実在しない」というような考え。

ショーペンハウエルの「意志と表象としての世界」とか、あと、仏教も基本的にそういう考えに近いのでしょうか?

三島由紀夫の「暁の寺」にもそういう話が出てきます。そこで唯識とか阿頼耶識とかいう言葉が出てきます。

先日、自己とは何か、と考えたときにそういうことを思い出しました。

私はそのような考えはおもしろい見方ではあると思うのですが、やはり世界という物はあきらかに存在していて、われわれが見ているものは多くの人と共有しているということは揺るぎないと考えています。

確かに、自分が死んだら世の中を認識することはできず、自分が見えないもの、感覚でとらえられないものは存在しないも同然です。しかし、われわれは書物や各種記録媒体に残される他人の「報告」によって、自分の感覚以外のところから、世界を認識するのです。


他人の報告というものは、自分が知らないことを知るだけでなく、自分が知っているものについて他人が違った見方をするのを確認させてもくれます。
または、あるものについて認識しているときに、それがそのものの一面にすぎず、違った方向から眺めると当然違ったように見えるということを気づかせてもくれます。


ただ、認識には主観性があって、同じものなら誰でも同じように見えるわけではありません。
「認識の主観性」というのは、「偏見」という悪い意味でもっぱら使われることが多いようですが、それだけでなく、「その対象から何を見ようとするのか」という姿勢のような意味があります。それを教えてくれたのはカントの「純粋理性批判」です。

引用しましょう。

要するに二等辺三角形を初めて論証した人(その人の名がタレスであろうと、或いはほかの何びとかの名であろうと)の心に一条の光が閃いたのである。彼は、自分がこの図形において現に見ているところのものや或いは図形の単なる概念などを追求して、これらのものから図形のさまざまな性質を学び取るというのではなくて、彼が概念に従って自分でア・プリオリに件の図形のなかへいわば考え入れ、また構成によって現示したところのものによって、算出せねばならないということ、また彼が何事かを確実にかつア・プリオリ…

死を望む人の死生観

最近は死にたい気持ちがいっそう募ってきた。単なる慣用句また感動詞としての「死にたい」ではなく、本格的な「希死念慮」という奴である。

そしてまた自殺の方法を調べた。恐怖と苦痛が少なく迷惑もかけない死に方はないか・・・。

すると、2ちゃんねるの自殺未遂体験を語るスレッドが見つかった。
以前にもちょっと眺めたことはあるが、じっくり読んでみた。

多いのは薬物とリストカットと足がつく場所での首吊りだった。
失敗した原因は、同居人のいる自宅で遂行した、電話やメールで知人にほのめかすかあるいははっきり宣言して助けられた、恐怖で自殺を思いとどまった、などである。

共通しているのは、すべて自分が死ぬ覚悟ができていなかった、死ぬ恐怖に打ち勝てなかったということである。

自殺の話になるとまず言われるのは「自殺なんかしてはいけない。命は授かりものだ。」という自殺罪悪説である。それから、「自殺未遂なんて本気で死ぬつもりなどないのだ。死にたいのならとっとと死ね」という未遂に対する罵倒。そして、「何があったの?死ぬ前に誰かに相談すれば?生きてればいいことあるよ」という心配。

「自殺は素晴らしい」という人はまずいない。
だが、非常に潔く動機も生活苦などではない場合はそれが賞賛される場合もある。
乃木稀典とか、三島由紀夫とかである。

私はこの2人の自殺にも興味を持っていろいろと調べてみたが、あまり手放しでは賞賛できないような事実をいくつか知った。そして、2人の死について否定的な考えを表明している有名人も大勢いることを知った。



調べれば調べるほど、自殺というのは限りなく困難なもので、ほとんど不可能に近いと思えてくる。
ロープを用意し、山の中まで行って首を入れるところまでいってもやめてしまう人がいる。
薬の大量服用については、本人の意志に関係なく吐いてしまい、まず成功することがない。

未遂に終わった場合、「二度と自殺なんかしない」という人が多いが、中には「今度こそ」と考える人もいる。実際、自殺に成功した人は何度か未遂を繰り返した人が多いそうである。



私は自殺を試み未遂に終わる人たちがすべて本気で死のうとしていないとは思わない。
彼らは本当に絶望していて、生きることは苦痛以外の何物でもなく、死ぬしかないと思っている。
しかし、いざ死のうとすると苦痛と恐怖で思いとどまってしまう。

思いとどまるときに、たと…

忘れ物の夢

また夢の話で恐縮である。

最近たくさん昼寝をして夢をよく見る。

今日見た夢で、私はスポーツバッグを持って合宿に出かけている。

その前に、乗ろうとした電車が発車間際で間に合いそうになかった。
ところが誰かが駆け込み乗車をしたか何かで電車が急停車し、
怒った口調のアナウンスがながれて車両や線路を点検することになった。

私はそのおかげで電車に乗ることができた。
やがて発車すると、ものすごいスピードを出し始めた。
点検をしたことでダイヤが遅れたからそれを取り戻そうとしているのだろうと思った。

そしてもうひとつ気づいたことは、流れる景色が実際に走っている景色に見えなかったことだ。
わたしは最前の車両の一番前の窓から外を見ていたのだが、
目の前に線路が見えないのだ。
まるでゲームのバグか何かであるように、流れさる景色が実際に見えるはずのものと違う。


それからしばらくして、電車はとても狭い路地を通り始めた。
そして木の枝などが前をふさぐので私はそれを懸命にどけていた。
だがとうとう道が完全にふさがれている場所に着いて、電車が停まってしまった。

私と、他の何人かがまた障害物をどけて道を空けようとした。
そのうち誰かが、「なんで俺たちがこんなことをしなきゃいけないんだ。客なのに?」と文句を言い始めた。
私ももっともだと思ったが、ふと、もう目の前の障害物はほんの小さな段ボール箱のようなものだけしかないことに気づいて、「これをどければ進めるんだからとりあえずどけてしまおうよ」と言ってそれをどける。

・・・・


それからしばらくして、私は合宿所へ向かって歩いている。
その合宿では、ラグビーと野球をすることになっている。
どこかの強豪校がやってきて、試合をすることになっていて私は緊張している。

合宿所のグラウンドに近づいてから、私はふと、自分の荷物の中にグローブがないことに気づいた。
グローブだけではない、スパイクとか、ユニフォームとか、必要な道具が全然入っていないのだ。

しかしそれに気づいても私はそのまま合宿所へ向かっている。そんなものを忘れているなんてとても言えないと思っている。

誰かに借りようか、後輩に借りようか、でも「グローブを忘れた」なんて恥ずかしくて言えない。
グローブやスパイクを買うカネも持ち合わせていない。
まずいな、と思いながらそのまま歩いていく。

そしてとうとうそのまま合宿所に着いてしまう。
わたしはやっぱり正直に言うしかない、そ…

ボクシングの夢

夢の話は聞く人にとって退屈極まりないそうだが、夢の話である。


今日、昼寝しているときに、ボクシングのコーチをされている夢を見た。

最初は、私は自己流で誰かとスパーリングをしていた。
スパーリングといってもパンチをあてない、シャドーのスパーリングだ。
しかも打つのは私だけ。

そしてその様子を誰かが見ているのに気づいた。
私は、自分がいいパンチを出していると思われているような気がして、
得意げになって力が入った。
そして特に、左ジャブをたくさん打って、アピールした。


それからしばらくして、わたしはコーチに指導を受けていた。

「俺が左を打つから、それを右ひじでブロックして、その後左、右と打って」
と言われる。

左はストレートというかジャブ、右はフックで打てという。
右ひじの角度は「アルファベットのA」といわれ、私は肘を曲げてみると、
「もっと広く」と言う。

「それでいい」と言われた角度はほぼ90度で、私は『これじゃAじゃないじゃん』と思う。
そして、手首のあたりをポンポン叩かれる。
私は拳の上面を空に向けていたのだがそうではなくて、左側を空に向けるように言われる。

そして、左で打つのは相手つまりコーチの右目の下、右はコーチの左ほほと、
打つ場所まで指定される。

私は「(ボクシングではパンチによって)打つ場所まで決まっているものなんですか」とたずねると、
コーチは「それは、コンビネーションではってこと?」と、ちょっと困ったような反応をする。


・・・・

ざっとこんな話である。

どうしてこんな夢を見たのかまったくわからない。
ボクシングの試合をテレビなどで見たわけでもないし。

ボクシング自体は好きで、昔からよくテレビで見たりしてはいたが、
最近はボクシングのこともすっかり忘れかけていた・・・。

そういえば、西岡選手がタイトルマッチをやるとかいうニュースを、見出しだけちょっと見た。
その程度だ。

それにしても夢の内容が細かすぎないだろうか。
「アルファベットのA」とか、
拳の向きを直すとか。

ナイトとビショップ

ここ数年、チェスを少々やっている。

やるのはiPhoneのアプリで、コンピュータ相手である。

きっかけは、Windows Vistaのゲームにチェスがついてきたことなので、
始めたのはもうずいぶん前になる。

チェスは将棋とルールが非常によく似ている。
なので、私はいまだに一部の駒を将棋の駒の呼び方で呼ぶ。

ナイト=馬
ビショップ=角
ルーク=飛車

など。

クイーン、キング、ポーンはそのまま呼ぶ。


将棋は子供の頃にやったが、非常に弱かった。
そして将棋と似ているチェスもやはり弱い。

勝つ場合も、相手がクイーンやルークをミスのような形でとらせてくれた場合だけで、
その場合でも詰めるまでにやたらと手数がかかる。

自分が負けるときにやられるような、ビショップ+クイーンとかナイト+クイーンでズバっと決まるようなことはない。


そして最近気づいたのだが、私はビショップとナイトがうまく使えない。

いつも、クイーン+重ねたルークで攻める。

使えないだけでなく、相手にも、特にナイトに、いつもかき回される。
序盤にクイーンとキング両取りをよくやられる。そのときはresignである。

ナイトの駒の動きというのはちょっと変則的だから、動きをつかみにくいことは確かだが。


そして、そのビショップやナイトをうまく使えずそれらを守れないのは、
自分の直線的にしかものごとを考えて進められない思考法にあるような気がしてきた。


勝つときは、慎重に慎重に駒を動かしていき、たまたま相手のルークや運がよければクイーンを取ることができたときに、徐々に相手の駒を奪っていきキングをほとんど丸裸にした状態にした場合だけだ。