お尻がキューンと痛む

説明が難しいが、便意を感じたときに、お腹というか腸なのか、ほとんど肛門のあたりがツーンというかキューンというか、痛むことがある。
その痛みは数秒くらい続いて収まるのだが何度か繰り返し、排便するとすっかり収まる。

痛みは結構強烈で、「痛い痛い」と声に出さずにいられないし、じっとしていられないほどである。

ただその痛みは、明るい痛みというか、下痢のときなどにおそわれる「シクシク」したような鈍い重い痛みではない。

下痢の正反対で、ウンコが硬すぎて痛くなるのかと思ったこともある。そんな痛みだ。

検索してみたら「突発性肛門痛」というのがあって症状が似ている。
「筋肉痛のようなもの」と書いてあるが、筋肉痛という感じではないので違うかな。

多分、経験している人は多いはずだ。
別に深刻な病気などではないと思うのだが、どうして痛むのかをしりたい。

クラウドって何?

私はいわゆる「IT」の仕事をしている。
もう20年以上になる。

もっとも、20年前に「IT」などという言葉はなかった。
「情報処理」とか「ソフトウェア産業」とか「コンピュータ関係」などと呼ばれていた。

コンピュータにおいて通信の役割が重要になってきたのは、いつ頃だったろうか。
決定的でよく覚えているのは1995年のWindows95の登場だった。
95によって一般人にインターネットが広まったといっても過言ではない。

ただ、インターネットの前に「パソコン通信」という世界があった。
私はNifty Serveを利用していた。

そして業務においては、コンピュータによる通信を「オンライン」と呼んでいた。
たとえば東京の本社と大阪支店の間で売上データをやりとりするなどである。

「オンライン」というものは、私が社会人になって2,3年で非常に重視されるようになった。

「ネオダマ」という言葉があった。これは「情報処理」界で注目すべき4つの新しい動向のことで、
「ネットワーク」、「オープン」、「ダウンサイジング」、「マルチベンダ」の頭文字である。
「ネオダマ」という言葉を初めて聞いたのは、1992年頃だったかな・・・・
勤めていた会社のある課長さんが何かのドキュメントに書いていたのを見たのだが、「なんだよネオダマって。頭文字とってくっつけただけで意味ないじゃん」と笑っていたのだが、世間でも使われていることを後で知った。


「IT」という言葉が使われるようになったのはいつ頃だろうか・・・。
Windows95が出た頃は、少なくとも私は使っていなかった。
1998年ごろ私がいた会社では、部署名に「IT」という文字が入っていたような覚えがある。
私が自分がしている仕事を「IT」だと言うようになったのは本当に最近、2010年くらいからだ。

今調べたら2000年に森首相が「イット」と読んだという。その頃は私はITという言葉は知っていたが、自分がITギョウカイにいるといわないのはもちろん、「IT」という言葉を使うこともしていなかった。


今では「IT」というのはソフトウェアとかコンピュータのことではなく、ネットワークつまり通信のことだといっても過言ではないくらいになった。そして、「クラウド」というものが現れた。

実は私は「クラウド」のことがよくわからない。

最近はなんでもかんでもインターネットを使うようになった、メールもパソコンでメーラーを使うのではなく、gmailなどのようにサーバ上でそのまま送受信をし、データもローカルに保存せずサーバに記録し、アプリケーションさえパソコンではなくサーバ上で実行するようになった、それは知っているというより身をもって体験してきたことだ。

しかし、それを「クラウド」と呼ぶのかと言われると、ちょっと困る。
広義ではgmailの利用もクラウドコンピューティングと言えるだろう。

クラウドというのは雲のことで、ネットワーク図を書くときにインターネットを「雲」として描いていた。
文字通りの雲、マンガで回想するときの吹き出しのようなものである。

なぜインターネットを雲として描いたのかはよく知らないが、インターネットというのは無数のコンピュータが網の目のように接続されていっこのカタマリとして存在しており、個々の装置やその間の配線などは把握しきれずまた考慮する必要もない、ということだった。

また、インターネットでなくても、ある程度の数のコンピュータが接続されたひとつのネットワークは雲として表現された。

そしてそのような雲であるネットワーク上でのコンピュータの利用を「クラウドコンピューティング」と呼ぶようになった。

昔は、昔といってもまだ10年くらいしかたっていないが、ネットワークにあるコンピュータのことを「サーバー」と呼んでいた。今でも呼ぶ。そしてサーバを利用するコンピュータの使い方を、「クライアント・サーバー」システムと呼んだ。

私にとっては、gmailとか、yahooとか、twitterとかは皆、「サーバー」である。
世間で言う「クラウドコンピューティング」というのは「サーバーコンピューティング」と言ったほうが自分のイメージに合う。

ではなぜ「クラウド」と呼ぶのだろうか?
それはおそらく、1台ではないからだと思う。
WWWサーバでも、メールサーバでも、ある程度の規模のものはたいてい複数台で構成されている。それは多重化とか冗長化とか言われる。

多重化とは複数台のコンピュータを組み合わせて1台のコンピュータのように動作させることで性能向上を図るもの、冗長化とは故障したときに切り替えてサービス停止を防ぐものである。

また、利用者がサービスとして使うWEBとか、メールとか、SNSなどは、複数の役割をもったコンピュータ等を組み合わせて構成されている。利用者を管理する名簿のような役割をもつデータベース、アドレスと名前の変換をおこなう名前解決サーバ、ユーザのコンテンツを保存する記憶装置など。

それらの多種多数の装置が組み合わされて提供されているサービスについて、利用者はその詳細を知る必要なく、遠いところに雲のようなカタマリがあって、そこに何かをリクエストすると何かが返ってくる、そういうものが「クラウド」と呼ばれる。


・・・何を書こうとしたのかわからなくなった。
とりあえずクラウドについての整理でした。

空っぽの自分

自分が空っぽになっていくような感覚がある。

それは、たとえばスポーツ選手が大会で負けてしまったとか、
何か大きなイベントがあって気が抜けたとか、
そんなものではなくて、もっとあいまいでもやもやしていて、
『なんかヘンだな』と感じるくらいの軽い感覚である。

別につらくもないし、不安であるとか焦るとかいうこともない。
ただ、人間はこんな状態でも生きていられるのか、いや、生きていかねばならないのか、
と、ちょっと唖然とする。

とりあえず、さしせまってやらねばならないことは何もない。
自分を急かすものも、自分を待っているものも何もない。
私はまるっきり自由だ。何をしても誰も何も言わない。私は完全に自由である。

しかし、私は何もする気にならない。元気がないというより、空っぽなのだ。
空っぽというのは、たとえば電池がないとか、エネルギーが切れたというのでもない。
自分の中にあった何かが消耗したという感じではない。それであれば、休むとか、
エネルギーを補給すれば回復するだろう。

困ったことは、本が読めないことだ。
何を読んでも頭に入ってこない。小説を読むと、たしかに字を追ってページもめくっているのに、
全然話の内容がわかっていない。どうでもいい昔のことを思い出したりしている。
ふと気づくと小説の登場人物が激しく怒ったり、どうしようもない状況に悩んだりしているのだが、どうしてそうなったのかがわからない。

絵を描いてみる。ギターを弾いてみる。キーボードを弾いてみる。
何も生まれない。誰かの作品をマネてみる。なるほど、すごいな、と思う。
とても自分にこんなものを創作することなどできないと、呆然とする。

今まで自分は何をしていたのだろう?
私だって、我を忘れて何かをすることはあった。気が付いたら一日が終わっていた、
あれ、もうこんな時間か、今週はあっという間だったな、ということもあった。
時間がない、あと3日しかない、3日じゃ無理だ、とあせることもあった。

だがそんな自分はもういない。私は空っぽの人間である。

酒のせいだろうか?
確かに私は特に最近は、いつも酒を飲んでいた。
夜はもちろん、週末は昼間から、下手をすれば朝から酒を飲んでいた。
酒を飲むとなんとなく楽になった。もしくは体がだるくなり、眠くなり、
何もできなくなって、あるいは苦しく不快になって、それが回復することだけを考えていれば、
時間はすぎ、なんとなく生きている感覚があった。

今はシラフだ。多分、この空っぽになる感覚はアルコールに依存していた自分が、
依存するものを失って戸惑っている状態だろう。

しかし、アルコールを抜いただけでこんな風に虚脱状態になってしまう自分自身とは一体なんだろう。やはりそれは問題ではないのか。もちろん、この状態で酒を飲んで酩酊し、
我を忘れてなんとなく時をやりすごす生活にもどることが解決ではないが、
だからといって正当な解決方法があるわけでもない。

酒をやめて数ヶ月程度暮らすことは最近でもあった。
やめたときにはやはりちょっと戸惑いというか、今までの自分に対する嫌悪や羞恥に苦しめられることもあったが、すぐに慣れ、酒をやめたことで自分が健康になり正常な判断力が帰ってくることもわかって、少し誇らしくなったりする。

酒を飲むと眠れるような気がするが、実は飲まないほうがよく眠れて寝覚めもよい。
余計なものをダラダラ食べることもないし、悩んでもしょうがない過去や未来についてあれこれ考えることも少なくなるし、変に怒りっぽくなったり、自己嫌悪に陥ったり、被害妄想にかられたりすることもない。

酒をやめると平穏そのものだ。

だが、それにもすぐに慣れる。酒をやめると、悪癖から抜け出して何もかも解決したような気になるが、実は自分のダメさも、世の中のどうしようもなさも、飲んでいようとシラフだろうとあまり変わらないのだ。

酔っているときの幸福がニセモノであるのと同じくらい、シラフになったときの自分の正常さもニセモノなのだ。

広告

このブログに広告をのせた。google adsenseである。
理由は、カネである。1円でもいいからカネが欲しいのだ。
(実際は1万円単位で支払われるらしいが)

私はインターネットの広告が大嫌いだし、インターネットで何か検索してその結果表示される広告をクリックして何か買う人なんてバカじゃないのかと思っている。

しかし、googleはそれによって大成功したのであり、google以外でもインターネット上のサービスはすべて広告によって利益を得ていると言っても過言ではない。だから、実際に効果があるのであろう。

私のブログは宣伝をしていないどころか、誰にもこんなものを書いていることを教えたことはなく、知っている人に見られたら恥ずかしいので個人情報などを書かないように細心の注意を払っているくらいだ。

そんなブログでも、統計情報を見ると、一日に数件程度であるがアクセスがある。検索エンジンの検索結果に私のブログの記事も表示されるのである。

このブログはまだ書き始めたばかりだが、ここではないあるサイトに書いた文章は、あるキーワードで検索するとトップに表示される。そんなに特殊な言葉ではないので少し驚いた。

SEO(だっけ?)とかいう、「いかに検索結果の上位に表示するか」ということが研究され、それを商売にしている人さえいるらしいが、ある程度検索語を選択し組み合わせるなどすれば、自分が書いた文章などはかんたんにgoogleで検索することができる。

このことは便利というより恐ろしいことである。


というわけで、私のブログにアクセスした人が広告をクリックするかもしれないと思って、広告をのせた。また、自分が書いているようなくだらない無色透明なブログにどんな広告が表示されるのかも興味があった。

読者のみなさんには是非広告をクリックして商品を購入して頂きたい。

原稿用紙3750枚

twitterのアカウントを分析してくれるwhotwiというサイトで、私の今までツイートした文字数が50万字であることを知った。
50万字は400字詰め原稿用紙で1250枚になる。

twitter歴は約2年半である。

1日あたりにすると原稿用紙1枚ちょっとくらいで、たいしたことはないようだが、
それを2年半続ければ1250枚にもなるのである。継続は力なりである。

もっともツイートなんか、特に私は、思ったことを何も考えず推敲なども一切なく、「腹減った」だの「眠い」だののようなものばかりなのできわめて内容は薄い。

でも、それにしても、50万字ものツイートをしていたとは驚きだった。


私はtwitter以外に、自分のブログをいくつか書いている。
また、ブログではないが、自分のウェブサイトにいろいろと書き連ねたものもある。
その文字数を数えてみたら、150万字もあった。
原稿用紙で3750枚である。

こちらを記述した期間は、10年近い。
これも思いついたことをメモする感覚で書いているが、twitterよりはややかしこまって、考えて書いている。ただし、これも推敲は一切していない。

私のこの文字を書く行動は、特に何かの訓練とか、必要とかに迫られてやっているわけではない。アクセス数を増やそうと工夫もしていない。広告などは一切のせていない。
(そういえばこのブログに広告をのせた。これについては後で書く。)

日記とか、ライフログとかいわれるような役割もないことはないが、
目的は「記録」ではない。

私は考えながら書くというか、書くことによって考える。
書き終えてから、「俺はこんなことを考えていたのか」と驚くことすらある。

私は小説を書いてみたいと思ったことが何度かある。実際に原稿用紙に書いてみたこともあるが、10枚も書けなかったような記憶がある。
ところが、口からでまかせみたいな感じで書けば原稿用紙何千枚分もの文字が書けるのだ。


お笑いブームの罪

最近職場で冗談を言う人が減った。
冗談でなくても、滑稽な動作とか、ちょっとしたミスとかで場が和むことがあった。
だが最近はめっきりそういうことが減ったように感じる。


具体的にと言われるとすぐに思いつかないが、くだらないダジャレとか、
たわいもない話をしていてある言葉を知らなくて「そんなことも知らないの?」とか、
「こんなバカな失敗をした」とか、くだらないことを自慢して「そんなこと自慢すんなよ(笑)」
とか、そういう事である。


そして私はそうなったのは、最近のお笑いブームのせいだと考えている。
その事は何度か主張してきた。
しかし、どうしてそうなのかを詳しく語ることはしてこなかった。
それは、たいしたことじゃないからというのと、時間や文字数の制限があるからだったが、
今はヒマで余裕があるので、自分でももやもやしたものを整理したいので、
ここに書いてみる。


お笑いブームとか、漫才ブームというようなものはいままでに何度かあったが、
現在ほどの大ブームは空前のものだと思う。
そして現在のブームが今までと違うのは、「お笑いがカッコイイ」という考えが出てきたことである。

人を笑わせるには技術がいるとか、この芸人にはそれがあってあの芸人にはないとか、
この笑いは邪道だとか、自分の好みじゃないとか、
お笑いを真剣に語るような風潮があらわれたのである。


本当なら、お笑いブームがおとずれたら人々のお笑いセンスは磨かれ向上して、
日常生活の冗談もくだらないダジャレでなくもっと知的で高等なギャグになるはずだった。
ところがそうはならず、むしろ人々は人を笑わせることに慎重になってしまった。

「こんなことを言ったらベタか」「サブいと言われてしまう」という恐れから、
ただの潤滑油や場をあたためるだけのものでしかなかった軽い冗談がうかつに言えなくなってしまった。

本当は、その手の「オヤジギャグ」は、ベタでサブいからこそ、おもしろかったのだ。
緊張していたり、退屈である場に、くだらないことを言う脳天気なバカがいるのを見て、
「こんなときにオマエは何を言ってんだよ」と人に思わせることでその場がなごんだのだ。

だが、現在のお笑いブームはお笑いを真剣に、点数をつけたり賞金獲得のために争わせてそれによって感動をもたらすようなものにまでなってしまった。
人を笑わせることが仕事と同じくらいの深刻な重いものになってしまった。

昔ながらのダジャレは若者が真顔で否定する。
オヤジギャグを駆使していたオヤジ達はうかつなことが言えなくなる。

かくして職場に冗談は途絶えた。

お笑いブームのせいで。

ゴキブリを食べる

ゴキブリや芋虫、ヤスデなどの大食いコンテストで優勝した人がその直後に死亡したという事故があった。

話を聞いただけでうわぁっと思ったが、さらにそのときの様子をyoutubeで見た。
最初は動画が始まった直後にいったん見るのをやめたのだが、
意を決して見た。

優勝し死亡した男は30台くらいで少し太り気味の白人で、メガネをかけていた。
黄色いTシャツを着ていたが、胸のまわりが黒ずんでいた。

彼はゴキブリや芋虫、ヤスデなどを手当たり次第どんどん口につっこんで、口が閉まらないほどだった。

多分決勝戦の様子だったと思うが、5人くらいが並んで水槽に入ったゴキブリなどを全員が食べていた。優勝者以外はだいたい、むしゃむしゃとよく噛んで食べていたが、優勝者はほとんど噛まずに飲み込んでいるように見えた。

そしてコンテスト終了後、気分が悪くなってふらついているところまで映っていた。


コンテストを実施するくらいだから、ゴキブリなどは食べても問題のないものだったらしい。

死因はまだ不明だが、同じものを食べても他の出場者は無事だったことから、アレルギーなどが疑われているそうだ。

・・・

ここからが本題。

このコンテストの優勝商品は価格が7万円くらいのヘビだったそうだ。
7万円のためにゴキブリを食べるか?

書き忘れたが食べたゴキブリなどは全部生きているものだ。


私は今とてもカネに困っているが、1億円もらえて、1匹だけでもいいと言われても、生きたゴキブリは食べられないかもしれない。

親を殺すと言われたら、1匹なら死んだ気になっていけるかな・・・。

赤の他人なら見殺しにするかも・・・・。

それくらいありえない。


ごきぶりなど見ただけで震え上がるのに・・・。



私の認識論

こういうの、なんていうのでしょう、「唯我論」?「独我論」?
つまり、「ある人が認識している世界はその人の認識によるもの、つまりその人が作り出しているものであって実在しない」というような考え。

ショーペンハウエルの「意志と表象としての世界」とか、あと、仏教も基本的にそういう考えに近いのでしょうか?

三島由紀夫の「暁の寺」にもそういう話が出てきます。そこで唯識とか阿頼耶識とかいう言葉が出てきます。

先日、自己とは何か、と考えたときにそういうことを思い出しました。

私はそのような考えはおもしろい見方ではあると思うのですが、やはり世界という物はあきらかに存在していて、われわれが見ているものは多くの人と共有しているということは揺るぎないと考えています。

確かに、自分が死んだら世の中を認識することはできず、自分が見えないもの、感覚でとらえられないものは存在しないも同然です。しかし、われわれは書物や各種記録媒体に残される他人の「報告」によって、自分の感覚以外のところから、世界を認識するのです。


他人の報告というものは、自分が知らないことを知るだけでなく、自分が知っているものについて他人が違った見方をするのを確認させてもくれます。
または、あるものについて認識しているときに、それがそのものの一面にすぎず、違った方向から眺めると当然違ったように見えるということを気づかせてもくれます。


ただ、認識には主観性があって、同じものなら誰でも同じように見えるわけではありません。
「認識の主観性」というのは、「偏見」という悪い意味でもっぱら使われることが多いようですが、それだけでなく、「その対象から何を見ようとするのか」という姿勢のような意味があります。それを教えてくれたのはカントの「純粋理性批判」です。

引用しましょう。

要するに二等辺三角形を初めて論証した人(その人の名がタレスであろうと、或いはほかの何びとかの名であろうと)の心に一条の光が閃いたのである。彼は、自分がこの図形において現に見ているところのものや或いは図形の単なる概念などを追求して、これらのものから図形のさまざまな性質を学び取るというのではなくて、彼が概念に従って自分でア・プリオリに件の図形のなかへいわば考え入れ、また構成によって現示したところのものによって、算出せねばならないということ、また彼が何事かを確実にかつア・プリオリに知ろうとするならば、彼は自分の概念に従ってみずから対象の中へ入れたところのものから必然的に生じる以外のものを、この対象に付け加えてはならない、ということを知ったからである。

これは「第二版序文」の一部です。岩波文庫から引用しました。
私は「純粋理性批判」を2回読みました。線がたくさん引いてあります。私は基本的に本に線はひかないのですが、このときは段落に番号をつけたり黒、赤、青で線を引いたりしています。
上記の部分に線を引いたのは確か2回目に読んだときだったと思います。

私はこの意味がわかったときにすごく感動したことを覚えています。
認識というのはただ感覚が対象から一方的に受け取って脳(悟性とか理性とか)が組み立てるのではなく、自分が「考え入れる(ドイツ語ではなんと書かれているのかは後で調べてみます)」ことによって成立するのだ、というのです。

それは別に、誰でも言われなくてもしていることです。
それができるからすごいとかえらいとかいうことではありません。
また、それは先ほども言ったように「偏見」となってしまう恐れもあります。



ところが、この考え方を発展というか飛躍させて、ショーペンハウエルのように「認識は全部自分の作り出したもの、幻影のようなものだ」となってしまうと、私は行きすぎだと思うのです。

カントも、ソクラテス(プラトン)も、「物自体を認識することはできない」とは言いましたが、だからといって物自体が存在しないとはもちろん言っていません。

この認識についての考えは、その人の「神観」によるでしょう。
つまり、誰も神の顔を見ることはできない。神がどのような存在なのかはわからない。そのときに、「だから神はいないのだ」と言うのか、「でも神は存在する」あるいは「神が存在しないとは言えない」と言うのか。


純粋理性批判でもうひとつ印象に残っているのは、「神の存在証明について」です。
カントは神がいるという証明といないという証明を並べて示して見せて、どちらも矛盾なく証明できることを示しました。
そして彼は、「神の存在あるいは非存在を(哲学によって)証明することは不可能である」と言いました。


彼は神を信じていましたが、「神は絶対に存在する!」と、デカルトのようには言わなかったのです。
デカルトの「存在証明」はさらっと読みましたがなんか軽いなあと感じた覚えがあります。
カントの二つの証明の例も、どちらもちょっと強引じゃないのという感じがしなくもありませんでしたが、「存在することもしないことも証明なんかできないんだよ」という結論には非常に納得しました。



そして私は、純粋理性批判を読み、その意味がだいたいわかったところで、「哲学」というものに対する興味を失いました。
むしろ、「哲学」を憎むようにすらなったくらいです。

「哲学」というくくりはあいまいですが、私は「哲学」というのは、カントが不可能だと言った神の、特に、「非存在」証明をめざすものだと思っています。

要は、「なぜ私は神を信じる必要がないか」という理由を探し求めているのです。


私はヘーゲルを読んでいません。何度かトライしましたがチンプンカンプンです。
カントの哲学を引き継いで完成させた、とか言われているのでぜひとも読みたいのですが。
しかし、ヘーゲルが妻に「哲学を勉強したい」と言われたときに、「聖書を読めば哲学なんかいらない」とか言ったというのを聞いて、聖書を読んでいました。


申し遅れましたが私は神を信じています。
ただその神観は非常におぼろで、日々の過ごし方もけっして「敬虔なクリスチャン」のそれではありません。むしろ「神を知らないために無知になって情欲におぼれてすごす異邦人」です。



話がそれましたが、「唯我論」について、
その、世界が自分の認識でしかない幻影のようなものだということについてですが、
まず直感的に「そんなうまい話はない」と感じます。

自分の認識で、要は、でっち上げているというのなら、もっと世の中は自分にとって好都合な楽しい世界になるはずではないか、と誰でも思うのではないでしょうか?
人は自分で自分を苦しめるような世界を築いて生きる病んだ存在というのでしょうか?

たとえば、ヒトラーやスターリンという存在。
まるで悪魔が地上に降り立ったような彼らの存在と、それを認識してそれについて述べる人々、それらもすべて私たちが作り上げているというのでしょうか?

さらには、私が認識しているたとえばショーペンハウエルなどの「唯我論」を主張する人も、わたしの認識の作り出した幻影なのでしょうか?



そもそも私は、哲学とは極端に言えば無神論研究、神への反逆、と捉えています。
「唯我論」のような考えの目的も神の否定であると考えています。
最初からそれを目指しているのですから、その人の主張を吟味して矛盾を指摘してもあまり意味はないでしょう。



これが私の認識論の基本です。
ほとんど、人生観といってもいいでしょう。

私は神を信じていたのです、びっくりですね。

死を望む人の死生観

最近は死にたい気持ちがいっそう募ってきた。単なる慣用句また感動詞としての「死にたい」ではなく、本格的な「希死念慮」という奴である。

そしてまた自殺の方法を調べた。恐怖と苦痛が少なく迷惑もかけない死に方はないか・・・。

すると、2ちゃんねるの自殺未遂体験を語るスレッドが見つかった。
以前にもちょっと眺めたことはあるが、じっくり読んでみた。

多いのは薬物とリストカットと足がつく場所での首吊りだった。
失敗した原因は、同居人のいる自宅で遂行した、電話やメールで知人にほのめかすかあるいははっきり宣言して助けられた、恐怖で自殺を思いとどまった、などである。

共通しているのは、すべて自分が死ぬ覚悟ができていなかった、死ぬ恐怖に打ち勝てなかったということである。

自殺の話になるとまず言われるのは「自殺なんかしてはいけない。命は授かりものだ。」という自殺罪悪説である。それから、「自殺未遂なんて本気で死ぬつもりなどないのだ。死にたいのならとっとと死ね」という未遂に対する罵倒。そして、「何があったの?死ぬ前に誰かに相談すれば?生きてればいいことあるよ」という心配。

「自殺は素晴らしい」という人はまずいない。
だが、非常に潔く動機も生活苦などではない場合はそれが賞賛される場合もある。
乃木稀典とか、三島由紀夫とかである。

私はこの2人の自殺にも興味を持っていろいろと調べてみたが、あまり手放しでは賞賛できないような事実をいくつか知った。そして、2人の死について否定的な考えを表明している有名人も大勢いることを知った。



調べれば調べるほど、自殺というのは限りなく困難なもので、ほとんど不可能に近いと思えてくる。
ロープを用意し、山の中まで行って首を入れるところまでいってもやめてしまう人がいる。
薬の大量服用については、本人の意志に関係なく吐いてしまい、まず成功することがない。

未遂に終わった場合、「二度と自殺なんかしない」という人が多いが、中には「今度こそ」と考える人もいる。実際、自殺に成功した人は何度か未遂を繰り返した人が多いそうである。



私は自殺を試み未遂に終わる人たちがすべて本気で死のうとしていないとは思わない。
彼らは本当に絶望していて、生きることは苦痛以外の何物でもなく、死ぬしかないと思っている。
しかし、いざ死のうとすると苦痛と恐怖で思いとどまってしまう。

思いとどまるときに、たとえば親であるとか、恋人や友人などの親しい人の顔が浮かんで思いとどまったというのは聞いたことがない。皆、苦痛と恐怖で思いとどまる。



何件もの自殺未遂の体験談を読んでいくうちに、私の疑問は「どうして死のうとするのか」ということから、「どうして死にたいのに死ねないのか」ということに変わっていった。自らの死にたいという意志にすら抵抗するこの強力な力はなんなのか?生命力とか本能などという生物学的な概念では捉えきれないもっと大きなものを感じる。

「命は授かりもので自分のものではない」という言葉はある意味核心をついていると思うが、自殺しようとしているものにとっては虚しい言葉だ。それが真実か否かは問題ではない。真実であっても、死を思いとどまる理由にはならない。むしろ、苦痛に満ちた生を与えた者を恨み、たたき返してやると思うだろう。

私はこの考えをさらに一歩進めて、「授かっているどころか自分のものですらない」と考えてみた。
命も、肉体も、授かり物でも借り物でもない。自分のものではない。

そもそも、命や肉体が自分自身であったら、それ自体が自分を滅ぼそうと考えるとは思えないのだ。


自殺というのはやはり、自分が思い描いている自己と現実の自己の乖離が引き起こすのだ。そしてそういうことを考えるのは、自己を意識できる何かが存在していて、それが自己を否定するのだ。


「心と体」もしくは「精神と肉体」などというように、一人の人間を二つに分ける考えがある。
ある人は、「心とは体の機能のことであるから、心など本当は存在しない」という。唯物論などと呼ばれる考えである。

また、「霊魂と肉体」という考えもある。これは「精神と肉体」と似ていて、実際に広い意味では同じ意味で使われる。

多くの人は、「心=精神=霊魂」と思っているのではないだろうか。

だが「霊魂」が大きく異なるのは、死後も存在し続けるということである。

「死んでも心は生きる」「死んでも精神は生きる」とはあまり言わない。
「その心は生き続ける」などと言うことがあるが、それは故人の遺志を残された人々が継ぐという意味である。


「生前に悪い行いをしたものは地獄に行く」「自殺すると地獄に行く」というのは昔から言われることである。
このことに関してはどんな科学者も宗教家も肯定も否定もできない。
真理であると証明できないからといって偽であると断定することはできない。


私は今まで、自殺者の葛藤は、霊魂と肉体の葛藤であると思っていた。
霊魂というものの存在を信じていた。天国と地獄というものも、おおまかには存在するだろうと信じていた。今でもそれは変わらない。


だが、自己というもの、特に自殺をしようとするような状態で死のうとする主体とそれに抵抗する主体が何なのかということについてはわからなくなっている。

「霊魂と肉体」という風に二つのものが対立すると考えると、霊魂が死のうとして、肉体がそれに抵抗する、という風になるのか?それは、霊魂が肉体を離れようとする行為であり、それに肉体が抵抗するのだろうか?だとしたらそれは何故か?

「それは肉体としての、生物としての生存本能だ」と、自分でも考えていたが、それに疑問を感じる。


「生存本能」などというものは、「死んだら地獄行き」とか「神様が人間を作った」というのとなんら変わらない、都合のいい仮定にすぎないのではないだろうか?(地獄や神などが人間のでっちあげと言うなら)


「死にたい」と思うのは生存本能の衰えであり、それはつまり肉体の衰えであり、あるいは心の衰えであるという。だから、休養し、肉体や心の本来の姿を取り戻せば、また「生きたい」という欲求が、本能が取り戻せるという。本当だろうか?


生物は、肉体は本当に「生きたい」と思っているのだろうか?あるいはそのような本能があるのだろうか?

植物が芽を出し葉を出し、花を咲かせるのになんらかの意志が働いているだろうか?
私は働いているとは思わない。「思わない」だけである。実際どうなのかは知らない。

では動物はどうだろうか?アフリカの草原に生まれた一頭のライオンを考える。
生まれたときはネコのようで可愛いがすぐに大きくなりオスならばタテガミが生えてするどい牙も生えて獰猛な獣となる。

その成長に意志は働いているだろうか?これについても「否」である。
その有力な根拠のひとつは、どんなライオンも同じように成長する、ということである。
自分の意志であるなら多種多様な動物に成長するはずだ。

動植物の成長がなんらかの意志によらないとするなら、なんによるのか。
「本能」だろうか?「本能によって成長する」というのはちょっと変だ。
本能というのはその生物に備わる性質のことであって、その生物を成長させる力ではない。


さて、人間である。

人間も放っておいても背丈が伸びて成長する(もちろん飲食したり寝る必要はあるが)。
これは動植物と同じで、「オトナになろう」と意識し努力して大人になるのではない。


そして、自殺というのは、このような肉体的な成長を止めたいという欲求ではない。
そうではなく、存在の抹消を願うことである。抹消したいのは肉体よりもむしろ「意識」の方である。

自己を意識するときに肉体を対象として考え、その対象が消滅すれば自己の意識が消滅する、と考える人はまれだろう。

むしろ、自殺者が消滅させたいのは自己を意識している主体の方である。
少なくとも私はそうだ。

首をつるとか飛び降りることを考えるのは、それによって自己を意識する主体である何者かを消滅させたいのである。



でも、よく考えてみると少し不思議である。
どうして肉体を滅ぼせば自己が消滅すると考えるのだろうか?
私は霊魂の存在を信じているのではなかったか?
だとすれば、肉体が消滅しても自己は存在し続けるのではないか?
肉体を失ったとき、自己を意識する主体はどうなるのか?消えてしまうのか?



私は、ぼんやりとではあるが、次のようなことを想像している。

・・・・

まず、霊魂は存在し、人は死んでも霊魂は生きる。
霊魂が生きる場を霊界と呼ぶことにしよう。

霊界から地上界(私が肉体を持って生きている世界)のことは認識できるが、
地上界から霊界は認識できない。だが、まれに地上界の人間が霊界を認識できる場合がある。

天国と地獄のようなものは存在するが、それは生前の地上でのおこないによって振り分けられるようなものではなく、生前のおこないによりその人の霊魂の有り様が決定し、その有り様に応じた霊界に行くようになるというだけのことである。霊魂は地上界での肉体よりももっと激しくその姿が個別に変わっていて、ほとんど別の動物であるくらいなので、自分と同類の霊魂と以外はとてもではないが一緒には暮らせない。

その死因が自殺であろうと、他殺であろうと、事故死であろうと病死であろうと、それによって霊魂の有り様は変わらない。それまでの生き方によって霊魂の有り様はすでに定まっているのである。自殺するような人は多くはそれまでの人生が幸福ではないため、霊魂の有り様はあまりよくない。だから、結果だけいうといわゆる「地獄に落ちた」ような状態になる。

問題は、そのような各霊魂が自分の有り様に応じた霊界に暮らすことがその霊魂にとって幸せなのかどうか、ということである。地上界でも、高級車に乗り、美食と酒を楽しみ毎晩パーティーをするのが幸福だと思う人もいれば、何もない田舎でぼーっとして暮らすのが幸福だと思う人もいるだろう。部屋の中でずっと読書したり映画を見たりしているのが好きな人もいれば、海や山で遊ぶのが好きな人もいる。それぞれを逆の環境に置いたら、どちらも苦痛である。いわゆる「天国と地獄」もそのようなものである。つまり、巷に言われているほど地獄は恐ろしい場所ではないのである。

これは、倫理的な観点からすると不公平のように思われるかもしれない。たとえば強盗や殺人を犯したものも、死んだら楽しく暮らせるのはおかしいではないかと。確かにそうかもしれないが、強盗や殺人という地上では重罪とされていることも、霊界ではそれほど重い罪とはみなされない。

人間は死ぬときに、地上で犯した罪(霊界から見て)を償わされる。それが死に伴う苦痛である。その苦痛をもって、人は肉体から解放され、生前の行いに応じて定まったそれぞれの霊魂の有り様に応じた霊界に行く。


・・・・


これが私の霊界観である。多くはスウェーデンボルグに影響されている。
別に霊感があって覗いてきたわけではない。

だから、私は自殺を否定しないのである。
自殺というのはほとんどはそれまでの人生から必然的に導かれるものである。
それを、「死んだら地獄に行く」「卑怯だ」「罪悪だ」などと言って許さないのも、私は決して全面的によい事だとは思わない。



さて、それでは人間が生きるとはどういうことなのか。
それがわからない。

私は、「人は死んだらどうなるか」ということについては上に述べたような考えを持っている。
しかし、生きることについてはその意味も、先ほど少し考えた生きる原動力のようなもの、生きる主体がなんなのか、ということさえわからない。

少なくとも、本能ではない。
また、よく言われるような「霊魂の修行」のためでもない。
たしかに地上の生活によって霊魂の有り様は決まる。しかしそれは多種多様なものであり、かくあるべしという規則のようなものはない。



とりあえず私が今思いつく生きる力の源として考えられるのは、「好奇心」のようなものだ。
かんたんに言えば、「おもしろい」から。

夕焼けがきれいだとか、星がきれいだとか、海がきれいで魚がたくさんいて波がバシャバシャしていておもしろい。

赤や黄色の実がなっていてそのあるものはすっぱく、あるものは甘く、おいしい。

ある植物は根が食べられる。稲のように、食べてくださいといわんばかりの不思議な実をつける植物もある。

牛、豚、鳥などは肉を食べるとおいしい。


そのような世界に生まれて、より楽しい事を追いもとめるために人間は生きる。
修行なんてとんでもない。努力とか苦労という概念はない。誰だって、自分が好きなことのために練習したり工夫したりすることが苦痛でないように。

「なんて脳天気な考えだ」と呆れられるかもしれないが、今のところこれしか思いつかない。


こう考えると、「死にたい」という人に言えるのは、生きていて楽しいことが何もなくつらいだけであれば、止めはしないが、本当に自分が楽しいとか美しいと思うものはないのか?と聞くことくらいだ。

まあ、自分自身が死にたいので、今のは自問でもある。


私にはまだ、美しいと思うもの、楽しい(だろう)と思うことがいくつかある。ただ、それをおとなしく鑑賞したり楽しんだりすることが、諸事情によりできない。それらのことを思うと胸が締め付けられるような複雑な思いになる。だから、あえてそれらのことを考えないようにしている。そうなるとやはり、わたしにとってこの世界はただの苦界でしかない。だから死にたいと思う。


ただ、このような人生を楽しめないような状態になったのは、今までの自分の生き方が導いた必然である。私は今までずっと上記のような脳天気な死生観を持っていたわけではない。どちらかというと、「この世は修行の場である」という考えに近く、快いもの、楽しいものはほとんど悪であるとみなして、それらの深みにはまらないようにそーっと生きてきた。それらを味わって楽しそうにしている人々を見て、『彼らは快楽におぼれて自分をダメにしてしまうに違いない』と思っていた。

ところが、ダメになったのは自分の方だった。もはや私はこの世に存在する美や快感を味わう術を知らず、それらの刺激が強すぎて苦痛に感じるようになってしまった。私はいつの間にか、影に隠れて本当は楽しくも快くもない暗い喜びに浸るようになっていた。そしていつの間にかその自分を苦しめるようなことでしかない暗い喜びにしか感じない存在になってしまった。


こう言うと、あたかも「罰が当たった」かのようであるが、この世には規則もなければ罪も罰もないのである。ただ、自分の思いと行動が自分を作り上げ、それ次第でこの世には居づらい状況ができあがるのだ。



どうしてそうなってしまうのか?

この世に人間が生きる原動力が好奇心のようなものだとしたら、どうしてそれを自由にのびのびと発散して、世界に踏み込んで生きていかない人間が存在するのか。


ここで、先ほど近づいて触れなかったあるものの存在がある。

それは、霊魂と肉体とは別の第三者である。

霊魂も、肉体も、生も、死も、すべて認識している、「私」というものである。

私とは霊魂であろうか?肉体であろうか?どちらであるともいえない。
霊魂と肉体が交流することによって生まれるものだろうか?それもわからない。


忘れ物の夢

また夢の話で恐縮である。

最近たくさん昼寝をして夢をよく見る。

今日見た夢で、私はスポーツバッグを持って合宿に出かけている。

その前に、乗ろうとした電車が発車間際で間に合いそうになかった。
ところが誰かが駆け込み乗車をしたか何かで電車が急停車し、
怒った口調のアナウンスがながれて車両や線路を点検することになった。

私はそのおかげで電車に乗ることができた。
やがて発車すると、ものすごいスピードを出し始めた。
点検をしたことでダイヤが遅れたからそれを取り戻そうとしているのだろうと思った。

そしてもうひとつ気づいたことは、流れる景色が実際に走っている景色に見えなかったことだ。
わたしは最前の車両の一番前の窓から外を見ていたのだが、
目の前に線路が見えないのだ。
まるでゲームのバグか何かであるように、流れさる景色が実際に見えるはずのものと違う。


それからしばらくして、電車はとても狭い路地を通り始めた。
そして木の枝などが前をふさぐので私はそれを懸命にどけていた。
だがとうとう道が完全にふさがれている場所に着いて、電車が停まってしまった。

私と、他の何人かがまた障害物をどけて道を空けようとした。
そのうち誰かが、「なんで俺たちがこんなことをしなきゃいけないんだ。客なのに?」と文句を言い始めた。
私ももっともだと思ったが、ふと、もう目の前の障害物はほんの小さな段ボール箱のようなものだけしかないことに気づいて、「これをどければ進めるんだからとりあえずどけてしまおうよ」と言ってそれをどける。

・・・・


それからしばらくして、私は合宿所へ向かって歩いている。
その合宿では、ラグビーと野球をすることになっている。
どこかの強豪校がやってきて、試合をすることになっていて私は緊張している。

合宿所のグラウンドに近づいてから、私はふと、自分の荷物の中にグローブがないことに気づいた。
グローブだけではない、スパイクとか、ユニフォームとか、必要な道具が全然入っていないのだ。

しかしそれに気づいても私はそのまま合宿所へ向かっている。そんなものを忘れているなんてとても言えないと思っている。

誰かに借りようか、後輩に借りようか、でも「グローブを忘れた」なんて恥ずかしくて言えない。
グローブやスパイクを買うカネも持ち合わせていない。
まずいな、と思いながらそのまま歩いていく。

そしてとうとうそのまま合宿所に着いてしまう。
わたしはやっぱり正直に言うしかない、そしてもう帰ろう、と決意して顧問の先生を探した・・・・。


そのあたりで目がさめた。



・・・


私は高校生のときにラグビー部だった。
ときどき、他校へ行って試合をしたり、合宿をしたりもした。
さすがにスパイクやユニフォームを忘れたことはなかった(と思う)。
野球はまあまあ好きだが、草野球しかやったことはない。

実は、こういう「グローブを忘れた」「スパイクを忘れた」という夢は今までにも何度か見ている。
いつも、試合に向かっていて、忘れていることに気づいて、どうしよう、いや、なんとかなるさ、と思っている。たいていは実際に試合が始まることはなく夢が終わる。

ボクシングの夢

夢の話は聞く人にとって退屈極まりないそうだが、夢の話である。


今日、昼寝しているときに、ボクシングのコーチをされている夢を見た。

最初は、私は自己流で誰かとスパーリングをしていた。
スパーリングといってもパンチをあてない、シャドーのスパーリングだ。
しかも打つのは私だけ。

そしてその様子を誰かが見ているのに気づいた。
私は、自分がいいパンチを出していると思われているような気がして、
得意げになって力が入った。
そして特に、左ジャブをたくさん打って、アピールした。


それからしばらくして、わたしはコーチに指導を受けていた。

「俺が左を打つから、それを右ひじでブロックして、その後左、右と打って」
と言われる。

左はストレートというかジャブ、右はフックで打てという。
右ひじの角度は「アルファベットのA」といわれ、私は肘を曲げてみると、
「もっと広く」と言う。

「それでいい」と言われた角度はほぼ90度で、私は『これじゃAじゃないじゃん』と思う。
そして、手首のあたりをポンポン叩かれる。
私は拳の上面を空に向けていたのだがそうではなくて、左側を空に向けるように言われる。

そして、左で打つのは相手つまりコーチの右目の下、右はコーチの左ほほと、
打つ場所まで指定される。

私は「(ボクシングではパンチによって)打つ場所まで決まっているものなんですか」とたずねると、
コーチは「それは、コンビネーションではってこと?」と、ちょっと困ったような反応をする。


・・・・

ざっとこんな話である。

どうしてこんな夢を見たのかまったくわからない。
ボクシングの試合をテレビなどで見たわけでもないし。

ボクシング自体は好きで、昔からよくテレビで見たりしてはいたが、
最近はボクシングのこともすっかり忘れかけていた・・・。

そういえば、西岡選手がタイトルマッチをやるとかいうニュースを、見出しだけちょっと見た。
その程度だ。

それにしても夢の内容が細かすぎないだろうか。
「アルファベットのA」とか、
拳の向きを直すとか。

ナイトとビショップ

ここ数年、チェスを少々やっている。

やるのはiPhoneのアプリで、コンピュータ相手である。

きっかけは、Windows Vistaのゲームにチェスがついてきたことなので、
始めたのはもうずいぶん前になる。

チェスは将棋とルールが非常によく似ている。
なので、私はいまだに一部の駒を将棋の駒の呼び方で呼ぶ。

ナイト=馬
ビショップ=角
ルーク=飛車

など。

クイーン、キング、ポーンはそのまま呼ぶ。


将棋は子供の頃にやったが、非常に弱かった。
そして将棋と似ているチェスもやはり弱い。

勝つ場合も、相手がクイーンやルークをミスのような形でとらせてくれた場合だけで、
その場合でも詰めるまでにやたらと手数がかかる。

自分が負けるときにやられるような、ビショップ+クイーンとかナイト+クイーンでズバっと決まるようなことはない。


そして最近気づいたのだが、私はビショップとナイトがうまく使えない。

いつも、クイーン+重ねたルークで攻める。

使えないだけでなく、相手にも、特にナイトに、いつもかき回される。
序盤にクイーンとキング両取りをよくやられる。そのときはresignである。

ナイトの駒の動きというのはちょっと変則的だから、動きをつかみにくいことは確かだが。


そして、そのビショップやナイトをうまく使えずそれらを守れないのは、
自分の直線的にしかものごとを考えて進められない思考法にあるような気がしてきた。


勝つときは、慎重に慎重に駒を動かしていき、たまたま相手のルークや運がよければクイーンを取ることができたときに、徐々に相手の駒を奪っていきキングをほとんど丸裸にした状態にした場合だけだ。



外国語を理解するために必要なこと

久しぶりの海外出張に行って感じたのは、翻訳ツールの充実ぶりである。 誰もがもっているスマートフォンでは無料で使用できる翻訳アプリが使える。 パソコンではgoogle翻訳をはじめとして、これも無料で使える翻訳サイトがたくさんあり、翻訳の精度もずいぶん向上した。 アプリ等...