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2012年10月11日木曜日

私の認識論

こういうの、なんていうのでしょう、「唯我論」?「独我論」?
つまり、「ある人が認識している世界はその人の認識によるもの、つまりその人が作り出しているものであって実在しない」というような考え。

ショーペンハウエルの「意志と表象としての世界」とか、あと、仏教も基本的にそういう考えに近いのでしょうか?

三島由紀夫の「暁の寺」にもそういう話が出てきます。そこで唯識とか阿頼耶識とかいう言葉が出てきます。

先日、自己とは何か、と考えたときにそういうことを思い出しました。

私はそのような考えはおもしろい見方ではあると思うのですが、やはり世界という物はあきらかに存在していて、われわれが見ているものは多くの人と共有しているということは揺るぎないと考えています。

確かに、自分が死んだら世の中を認識することはできず、自分が見えないもの、感覚でとらえられないものは存在しないも同然です。しかし、われわれは書物や各種記録媒体に残される他人の「報告」によって、自分の感覚以外のところから、世界を認識するのです。


他人の報告というものは、自分が知らないことを知るだけでなく、自分が知っているものについて他人が違った見方をするのを確認させてもくれます。
または、あるものについて認識しているときに、それがそのものの一面にすぎず、違った方向から眺めると当然違ったように見えるということを気づかせてもくれます。


ただ、認識には主観性があって、同じものなら誰でも同じように見えるわけではありません。
「認識の主観性」というのは、「偏見」という悪い意味でもっぱら使われることが多いようですが、それだけでなく、「その対象から何を見ようとするのか」という姿勢のような意味があります。それを教えてくれたのはカントの「純粋理性批判」です。

引用しましょう。

要するに二等辺三角形を初めて論証した人(その人の名がタレスであろうと、或いはほかの何びとかの名であろうと)の心に一条の光が閃いたのである。彼は、自分がこの図形において現に見ているところのものや或いは図形の単なる概念などを追求して、これらのものから図形のさまざまな性質を学び取るというのではなくて、彼が概念に従って自分でア・プリオリに件の図形のなかへいわば考え入れ、また構成によって現示したところのものによって、算出せねばならないということ、また彼が何事かを確実にかつア・プリオリに知ろうとするならば、彼は自分の概念に従ってみずから対象の中へ入れたところのものから必然的に生じる以外のものを、この対象に付け加えてはならない、ということを知ったからである。

これは「第二版序文」の一部です。岩波文庫から引用しました。
私は「純粋理性批判」を2回読みました。線がたくさん引いてあります。私は基本的に本に線はひかないのですが、このときは段落に番号をつけたり黒、赤、青で線を引いたりしています。
上記の部分に線を引いたのは確か2回目に読んだときだったと思います。

私はこの意味がわかったときにすごく感動したことを覚えています。
認識というのはただ感覚が対象から一方的に受け取って脳(悟性とか理性とか)が組み立てるのではなく、自分が「考え入れる(ドイツ語ではなんと書かれているのかは後で調べてみます)」ことによって成立するのだ、というのです。

それは別に、誰でも言われなくてもしていることです。
それができるからすごいとかえらいとかいうことではありません。
また、それは先ほども言ったように「偏見」となってしまう恐れもあります。



ところが、この考え方を発展というか飛躍させて、ショーペンハウエルのように「認識は全部自分の作り出したもの、幻影のようなものだ」となってしまうと、私は行きすぎだと思うのです。

カントも、ソクラテス(プラトン)も、「物自体を認識することはできない」とは言いましたが、だからといって物自体が存在しないとはもちろん言っていません。

この認識についての考えは、その人の「神観」によるでしょう。
つまり、誰も神の顔を見ることはできない。神がどのような存在なのかはわからない。そのときに、「だから神はいないのだ」と言うのか、「でも神は存在する」あるいは「神が存在しないとは言えない」と言うのか。


純粋理性批判でもうひとつ印象に残っているのは、「神の存在証明について」です。
カントは神がいるという証明といないという証明を並べて示して見せて、どちらも矛盾なく証明できることを示しました。
そして彼は、「神の存在あるいは非存在を(哲学によって)証明することは不可能である」と言いました。


彼は神を信じていましたが、「神は絶対に存在する!」と、デカルトのようには言わなかったのです。
デカルトの「存在証明」はさらっと読みましたがなんか軽いなあと感じた覚えがあります。
カントの二つの証明の例も、どちらもちょっと強引じゃないのという感じがしなくもありませんでしたが、「存在することもしないことも証明なんかできないんだよ」という結論には非常に納得しました。



そして私は、純粋理性批判を読み、その意味がだいたいわかったところで、「哲学」というものに対する興味を失いました。
むしろ、「哲学」を憎むようにすらなったくらいです。

「哲学」というくくりはあいまいですが、私は「哲学」というのは、カントが不可能だと言った神の、特に、「非存在」証明をめざすものだと思っています。

要は、「なぜ私は神を信じる必要がないか」という理由を探し求めているのです。


私はヘーゲルを読んでいません。何度かトライしましたがチンプンカンプンです。
カントの哲学を引き継いで完成させた、とか言われているのでぜひとも読みたいのですが。
しかし、ヘーゲルが妻に「哲学を勉強したい」と言われたときに、「聖書を読めば哲学なんかいらない」とか言ったというのを聞いて、聖書を読んでいました。


申し遅れましたが私は神を信じています。
ただその神観は非常におぼろで、日々の過ごし方もけっして「敬虔なクリスチャン」のそれではありません。むしろ「神を知らないために無知になって情欲におぼれてすごす異邦人」です。



話がそれましたが、「唯我論」について、
その、世界が自分の認識でしかない幻影のようなものだということについてですが、
まず直感的に「そんなうまい話はない」と感じます。

自分の認識で、要は、でっち上げているというのなら、もっと世の中は自分にとって好都合な楽しい世界になるはずではないか、と誰でも思うのではないでしょうか?
人は自分で自分を苦しめるような世界を築いて生きる病んだ存在というのでしょうか?

たとえば、ヒトラーやスターリンという存在。
まるで悪魔が地上に降り立ったような彼らの存在と、それを認識してそれについて述べる人々、それらもすべて私たちが作り上げているというのでしょうか?

さらには、私が認識しているたとえばショーペンハウエルなどの「唯我論」を主張する人も、わたしの認識の作り出した幻影なのでしょうか?



そもそも私は、哲学とは極端に言えば無神論研究、神への反逆、と捉えています。
「唯我論」のような考えの目的も神の否定であると考えています。
最初からそれを目指しているのですから、その人の主張を吟味して矛盾を指摘してもあまり意味はないでしょう。



これが私の認識論の基本です。
ほとんど、人生観といってもいいでしょう。

私は神を信じていたのです、びっくりですね。