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空っぽの自分

自分が空っぽになっていくような感覚がある。

それは、たとえばスポーツ選手が大会で負けてしまったとか、
何か大きなイベントがあって気が抜けたとか、
そんなものではなくて、もっとあいまいでもやもやしていて、
『なんかヘンだな』と感じるくらいの軽い感覚である。

別につらくもないし、不安であるとか焦るとかいうこともない。
ただ、人間はこんな状態でも生きていられるのか、いや、生きていかねばならないのか、
と、ちょっと唖然とする。

とりあえず、さしせまってやらねばならないことは何もない。
自分を急かすものも、自分を待っているものも何もない。
私はまるっきり自由だ。何をしても誰も何も言わない。私は完全に自由である。

しかし、私は何もする気にならない。元気がないというより、空っぽなのだ。
空っぽというのは、たとえば電池がないとか、エネルギーが切れたというのでもない。
自分の中にあった何かが消耗したという感じではない。それであれば、休むとか、
エネルギーを補給すれば回復するだろう。

困ったことは、本が読めないことだ。
何を読んでも頭に入ってこない。小説を読むと、たしかに字を追ってページもめくっているのに、
全然話の内容がわかっていない。どうでもいい昔のことを思い出したりしている。
ふと気づくと小説の登場人物が激しく怒ったり、どうしようもない状況に悩んだりしているのだが、どうしてそうなったのかがわからない。

絵を描いてみる。ギターを弾いてみる。キーボードを弾いてみる。
何も生まれない。誰かの作品をマネてみる。なるほど、すごいな、と思う。
とても自分にこんなものを創作することなどできないと、呆然とする。

今まで自分は何をしていたのだろう?
私だって、我を忘れて何かをすることはあった。気が付いたら一日が終わっていた、
あれ、もうこんな時間か、今週はあっという間だったな、ということもあった。
時間がない、あと3日しかない、3日じゃ無理だ、とあせることもあった。

だがそんな自分はもういない。私は空っぽの人間である。

酒のせいだろうか?
確かに私は特に最近は、いつも酒を飲んでいた。
夜はもちろん、週末は昼間から、下手をすれば朝から酒を飲んでいた。
酒を飲むとなんとなく楽になった。もしくは体がだるくなり、眠くなり、
何もできなくなって、あるいは苦しく不快になって、それが回復することだけを考えていれば、
時間はすぎ、なんとなく生きている感覚があった。

今はシラフだ。多分、この空っぽになる感覚はアルコールに依存していた自分が、
依存するものを失って戸惑っている状態だろう。

しかし、アルコールを抜いただけでこんな風に虚脱状態になってしまう自分自身とは一体なんだろう。やはりそれは問題ではないのか。もちろん、この状態で酒を飲んで酩酊し、
我を忘れてなんとなく時をやりすごす生活にもどることが解決ではないが、
だからといって正当な解決方法があるわけでもない。

酒をやめて数ヶ月程度暮らすことは最近でもあった。
やめたときにはやはりちょっと戸惑いというか、今までの自分に対する嫌悪や羞恥に苦しめられることもあったが、すぐに慣れ、酒をやめたことで自分が健康になり正常な判断力が帰ってくることもわかって、少し誇らしくなったりする。

酒を飲むと眠れるような気がするが、実は飲まないほうがよく眠れて寝覚めもよい。
余計なものをダラダラ食べることもないし、悩んでもしょうがない過去や未来についてあれこれ考えることも少なくなるし、変に怒りっぽくなったり、自己嫌悪に陥ったり、被害妄想にかられたりすることもない。

酒をやめると平穏そのものだ。

だが、それにもすぐに慣れる。酒をやめると、悪癖から抜け出して何もかも解決したような気になるが、実は自分のダメさも、世の中のどうしようもなさも、飲んでいようとシラフだろうとあまり変わらないのだ。

酔っているときの幸福がニセモノであるのと同じくらい、シラフになったときの自分の正常さもニセモノなのだ。

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死を望む人の死生観

最近は死にたい気持ちがいっそう募ってきた。単なる慣用句また感動詞としての「死にたい」ではなく、本格的な「希死念慮」という奴である。

そしてまた自殺の方法を調べた。恐怖と苦痛が少なく迷惑もかけない死に方はないか・・・。

すると、2ちゃんねるの自殺未遂体験を語るスレッドが見つかった。
以前にもちょっと眺めたことはあるが、じっくり読んでみた。

多いのは薬物とリストカットと足がつく場所での首吊りだった。
失敗した原因は、同居人のいる自宅で遂行した、電話やメールで知人にほのめかすかあるいははっきり宣言して助けられた、恐怖で自殺を思いとどまった、などである。

共通しているのは、すべて自分が死ぬ覚悟ができていなかった、死ぬ恐怖に打ち勝てなかったということである。

自殺の話になるとまず言われるのは「自殺なんかしてはいけない。命は授かりものだ。」という自殺罪悪説である。それから、「自殺未遂なんて本気で死ぬつもりなどないのだ。死にたいのならとっとと死ね」という未遂に対する罵倒。そして、「何があったの?死ぬ前に誰かに相談すれば?生きてればいいことあるよ」という心配。

「自殺は素晴らしい」という人はまずいない。
だが、非常に潔く動機も生活苦などではない場合はそれが賞賛される場合もある。
乃木稀典とか、三島由紀夫とかである。

私はこの2人の自殺にも興味を持っていろいろと調べてみたが、あまり手放しでは賞賛できないような事実をいくつか知った。そして、2人の死について否定的な考えを表明している有名人も大勢いることを知った。



調べれば調べるほど、自殺というのは限りなく困難なもので、ほとんど不可能に近いと思えてくる。
ロープを用意し、山の中まで行って首を入れるところまでいってもやめてしまう人がいる。
薬の大量服用については、本人の意志に関係なく吐いてしまい、まず成功することがない。

未遂に終わった場合、「二度と自殺なんかしない」という人が多いが、中には「今度こそ」と考える人もいる。実際、自殺に成功した人は何度か未遂を繰り返した人が多いそうである。



私は自殺を試み未遂に終わる人たちがすべて本気で死のうとしていないとは思わない。
彼らは本当に絶望していて、生きることは苦痛以外の何物でもなく、死ぬしかないと思っている。
しかし、いざ死のうとすると苦痛と恐怖で思いとどまってしまう。

思いとどまるときに、たと…

グリーン車で横の席に荷物を置く人

私は常磐線で通勤しているのだが、最近朝がつらくて、
グリーン車に乗ることが多い。

私が乗る駅では、グリーン車は窓際はまず埋まっている。

窓際に人がいる隣の通路側の席に座る。


だが、そこにカバンを置いている人が非常に多い。

私はそれがとても頭にくる。というか、その神経が理解できない。


なぜそんなことができるのだろうか?

私は休日にもグリーン車に乗ることがあるが、

ガラガラでもとなりの席に荷物など置いたことはない。

なぜなら、グリーン車は有料だからだ。


距離によるが、550円とか770円とか、ランチが食べられるくらいの料金だ。


まあ、ガラガラであれば、カバンを置いても、私はしないが、まあ許せる。

でも、通勤ラッシュ時で、上野につくころにはほぼ満席になる常磐線のグリーン車で、

隣の席に荷物を置くのは許せない。

その荷物をつかんで放り投げたくなる気持ちを懸命に抑える。


時々、そういう人にむかって、「すいません」と言って席を空けてもらって座る人がいる。

謝るのは荷物を置いている方だろ!


そういうときに、荷物を置いている人が謝るのを見たことがない。

私は、絶対に謝らない。そこまでして座りたくない。


が、そういう人がいると、顔をじっと見る。

そうすると、だいたいどける。



最近わかってきたのだが、この行動は無神経であるとか気が利かないというのではなく、

隣に人を座らせたくないので故意にやっているようだ。


なんという、利己的な行為だろう。私はそういう行為が本当に嫌いだ。


私も、なるべく隣に人がいない席を選ぶ。隣に人が来て欲しくないという気持ちはわかる。

でも、だからって荷物を置いて座らせないようにするなんてことは絶対にできない。

そんなことまでしたくない。


昨日は、隣の席に荷物を置いて寝ている人に、「すいません」と声をかけている人がいたのだが、

寝ている人は2、3度声をかけられても起きなかった。

多分、気づいているのに起きなかったのだろう。



私は振り返って、その人がどんな顔をしているか見た。

年齢は私よりやや上、50歳前後だ。

上着を着ずにワイシャツとスラックスの、ごく普通のサラリーマン風の男性である。


特にバカそうでもズルそうでもダメ人間でもだらしない感じでもない。

でも、そういうごく普通の人間が、このような利己的な行為をするものなのである。

これは静かなる暴力と言ってもいい。


キンタマを掴まれる

この話はツイッターで言いたかったのだが、どうしても「キンタマ」と書く勇気が出なかったのでこっちに書く。

私は猥談が嫌いだ。
猥談なんかしていたのは高校生まで。
わけあって私は一切猥談をしなくなった。
飲み会でもしない。飲み会でそういう話題になると貝になる。

そして、「キンタマを掴まれる」という言葉には性的な意味はない。
それは常識かもしれないがやっぱりキンタマなどという言葉を口にすることははばかられる。
わたしも「キンタマ」などという言葉を思い出したのは久しぶりで、懐かしささえ感じた。

なんで思い出したかというと、夢の中でキンタマを掴まれたからだ。
その夢では、わたしは背後にぴったりと誰かが張り付いているのを感じていた。
それは見えないし、ぴったりではあるがそっとなので気のせいかなと思うくらいだ。
だが、間違いなく張り付いていると確信した。だが、それを自分で払いのけることはなぜかできない。

そこで、近くにいた知り合いと思われる人に、「ちょっとこれはがしてくれない?」と頼んだ。

それを頼んだときに掴まれたのか、その前から掴まれていたのかわからないが、
その背後にはりついていた何者かがわたしのキンタマを掴んでいた。
とても痛かった。その痛みは鋭いものではなく、鈍く、重いものだった。

そして結局背後にいるものがはがされないまま、目が覚めた。
その目が覚める瞬間に、キンタマの痛みもすーっと消えていった。
そして、わたしは「あ、これは自分が作り出している幻覚にすぎないな」ということがわかった。