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松本人志論


日本の歴史上の漫才師あるいはお笑い芸人のなかでもっとも偉大な存在といってもいい男、松本人志。

そのおもしろさ、お笑い界はもちろん日本の社会に与えた影響は誰もが認めるであろう。
ピークを過ぎたという話も聞くが、彼はもう二度と衰えることのない境地にまで達した男の一人である。

誰もが「まっちゃん」とか「まっつん」とか「松本さん」と、親しみをこめて呼ぶときの
その表情にはなんとも言えない柔和な、人を落ち着かせるものがある。

しかし、一体彼の偉大さはなんなのかを説明することは難しい。「やっぱまっつんおもろいわ」「まっちゃん天才だわwww」と言うしかない。そして、彼の面白さを学者や評論家に分析させないこと、とにかく彼の話を聞いて笑っていられればいい、と思わせていることも、彼の偉大さの一つである。

しかしこれほどの境地に達してくると、彼の偉大さを説明してみたくなる。「松本人志の何がすごかったのか」ということを。

そして私は先ほど数学Aの教科書で排他事象などについて書かれているところを読んでいるときに、それがわかったのだ。

松本人志の偉大さ、彼がこれほどまでの支持を獲得した理由は、彼がまれにみる常識者であったことである。

彼が作ったもしくは流行らせたといわれている言葉がいくつかある。「逆ギレ」「空気読め」「スベる」「サブい」「ブルーになる」など。これらは皆、確固たる常識が存在していないと意味をもたないことばである。

その二人の関係と二人の行動から誰が怒るべきなのかを理解しているから、そうでない怒り方をしたときにそれを「逆ギレ」と言える。

「ブルーになる」という言葉は、松本以前にも使用されていたが、その意味はもっと曖昧で心情的なものであった。しかし松本の使い方はいままでよりももっと倫理的な意味が強い。そう、今挙げた言葉の意味には、倫理的なものが強く含まれているのである。

彼についてはその感覚とかセンスが賞賛されてきた。センスのある芸人、彼を理解するにはセンスが必要、などと。

しかし、彼がもっていたのはセンスではなく、倫理観、常識性だった。センスはセンスでも、コモンセンスであったのだ。

常識性は松本だけでなく、大衆に受け入れられた芸人達は多かれ少なかれ皆が持っていたものである。それがなければ笑いは生まれない。

テレビが登場してさらにそれがほとんど一人一台ずつ占有できるのに近い状態になり、人がテレビに対して求めるものは非常にシビアになった。それはもはやお茶の間で食事時に見るものではなくなった。人々の生活に公的なものと私的なものがありそれは典型的には仕事あるいは学業と家庭であったが、テレビはその私的なものの中にさらにもう一段階極私的な世界を作った。

テレビ以前のさまざまな媒体、映画、小説、漫画などには、私的さが足りなかった。むしろそれは家庭にもどって接するときには仕事よりも公的な存在だった。しかしテレビにはそのような高尚さ、近寄りがたさはなかった。テレビは自分自身の生活ではないものの中で、もっとも身近で卑小な、気楽な世界を見せてくれる媒体であったのである。

だから人々はテレビを自分の部屋で一人でみるようになった。自分とテレビだけが存在している。
そういうときにテレビに求めるものはなんだろうか。それは奇抜さでも、その場しのぎのバカ騒ぎでも、姿かたちの美しい男女でもない。

人々の孤独をいやしさらにそれが自分の私生活のなかのもっとも私的な場所と時間に享受されるものでなければならない。
そして松本人志がその要求にもっとも合致したお笑い芸人だった。
そのことは誰もがわかっている。

しかし、どうして彼が受け入れられたのかは理解されていなかった。
多くの人は彼が特異な存在であると考え、いままでの芸人たちにはない破天荒で新しい感覚を持っていたとか、既存のお笑いの枠を超えるあたらしい笑いを作り出したと思われているが、彼が他の芸人と違っていたのは、誰よりもオーソドックスな思考をしていたことである。

見過ごしがちなことであるが「ボケ」という概念を一般の生活にまで広めたのも松本人志である。
ボケという言葉や概念自体は古くからあったものであるが、それを人々が日常会話にまで使うようにさせたのは間違いなく松本である。

松本人志とは「ボケ論を確立した男」と言ってもいい。
松本以前のお笑いでは、「ボケ」というのは単なる滑稽なこと、ばかげたこと、非常識なこと、反社会的なことだとされていた。

芸人達はそうではなかったかもしれないが、少なくとも客はそうとらえていた。本当はそうではないにしても、そういうものだと思い込みながら、萩本欽一とかドリフターズとかツービートなどを見ていたのである。

松本はそのボケを、演者が意識して渾身のおもいでひねり出しているものである、という事を体現した。

松本以前でも、ボケ=おもしろい人 であった。たとえば志村けんがそうであった。
しかし志村けんのボケについて、「彼は本当はアタマがよくて繊細なんだよ」とは誰も言わなかった。彼は本当にバカでスケベでろくでなしで、自分のやりたいことをやって言いたいことを言っていただけで、それが痛快でおもしろいのだと、思われていた。

ボケは本当はマジメで暗い人だけどみんなを楽しませるためにわざと滑稽な演技をしているピエロのようなものだ、というのは常識的なコメディアン像である。その考えでは、その事実は隠されていなければならない。それを明かしてしまってはもはやピエロは悲しいものになってしまうからだ。
事実、現在ピエロはほとんど悲劇的な存在になっていて、ピエロを見てケラケラ笑うのは子供だけである。

松本がしたことは、そのピエロの秘密を暴露したことと似ている。しかし、彼は秘密を暴露しながらも笑わせ続けることに成功した。それはなぜだろう?

ここで、彼が類稀なる常識者であった、という話に戻る。
彼以前のボケは、それが意図的なものであったにせよ、非常識な態度の表出だった。
しかし、松本のボケは、常識を見せた。もしくは、非常識を皮肉る態度を見せた。
笑いの本質であるボケが、芸人自体にも理解されなくなりかけ、本当にただの非常識な行動や言動をする笑いが蔓延しかけた。

そこに現れたのが松本であった。

彼のボケが今までとは違うものであるとは若者達にはすぐにわかった。
しかしそれが何であるのかは理解されなかった。その必要もなかった。せいぜいが、知的であるとかするどい感覚であるとかいう言われ方であった。

倫理や常識など、むしろダウンタウンが破壊したという者の方が多かった。私もそう思っていたし、
初期のダウンタウンにはそういうところがあって、本人も意識して常識や倫理をけちらすような思いがあったかもしれない。

しかし、それはダウンタウンの、松本人志の本質ではない。
彼の出演していた有名な番組に、15分くらいのフリートークのコーナーがあった。これこそが彼の芸の真骨頂であり、彼にしかできないものであった。そしてそこで彼はボケた。ボケることで視聴者に見せたものは、常識であった。彼はフリートークでほとんど怒っていた。あれはもはや説教であった。対話方式による常識の追求であった。

もうその番組でフリートークをやることはなくなった。
彼はテレビでは対話をすることも減り、MCと呼ばれる司会者のような立場にたつことが増えた。
そして彼が今していることは、彼の後輩達に対話させることによる、常識の追求なのである。

(Sat Jul 3 2010)

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死を望む人の死生観

最近は死にたい気持ちがいっそう募ってきた。単なる慣用句また感動詞としての「死にたい」ではなく、本格的な「希死念慮」という奴である。

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グリーン車で横の席に荷物を置く人

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まあ、ガラガラであれば、カバンを置いても、私はしないが、まあ許せる。

でも、通勤ラッシュ時で、上野につくころにはほぼ満席になる常磐線のグリーン車で、

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そういうときに、荷物を置いている人が謝るのを見たことがない。

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が、そういう人がいると、顔をじっと見る。

そうすると、だいたいどける。



最近わかってきたのだが、この行動は無神経であるとか気が利かないというのではなく、

隣に人を座らせたくないので故意にやっているようだ。


なんという、利己的な行為だろう。私はそういう行為が本当に嫌いだ。


私も、なるべく隣に人がいない席を選ぶ。隣に人が来て欲しくないという気持ちはわかる。

でも、だからって荷物を置いて座らせないようにするなんてことは絶対にできない。

そんなことまでしたくない。


昨日は、隣の席に荷物を置いて寝ている人に、「すいません」と声をかけている人がいたのだが、

寝ている人は2、3度声をかけられても起きなかった。

多分、気づいているのに起きなかったのだろう。



私は振り返って、その人がどんな顔をしているか見た。

年齢は私よりやや上、50歳前後だ。

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特にバカそうでもズルそうでもダメ人間でもだらしない感じでもない。

でも、そういうごく普通の人間が、このような利己的な行為をするものなのである。

これは静かなる暴力と言ってもいい。


キンタマを掴まれる

この話はツイッターで言いたかったのだが、どうしても「キンタマ」と書く勇気が出なかったのでこっちに書く。

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そして、「キンタマを掴まれる」という言葉には性的な意味はない。
それは常識かもしれないがやっぱりキンタマなどという言葉を口にすることははばかられる。
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だが、間違いなく張り付いていると確信した。だが、それを自分で払いのけることはなぜかできない。

そこで、近くにいた知り合いと思われる人に、「ちょっとこれはがしてくれない?」と頼んだ。

それを頼んだときに掴まれたのか、その前から掴まれていたのかわからないが、
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そして結局背後にいるものがはがされないまま、目が覚めた。
その目が覚める瞬間に、キンタマの痛みもすーっと消えていった。
そして、わたしは「あ、これは自分が作り出している幻覚にすぎないな」ということがわかった。