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般若心経について


私は3年ほど前に般若心経を暗記した。有名なものなので内容はさておいてとりあえず暗記してみたのである。2,3日で覚えた。しかし最近になって暗唱しようとしたらできなかったので、再度暗記して、覚えた。そしてこの時、いくつか疑問を抱いたのである。

これは最初に暗記したときからなんとなく感じていた事であるが、今回はとりあえずそれを記録しておきたいと思った。まず、この短いお経が、仏教の真髄だという事に対する疑問である。大般若経だけで600巻あるとか。ほかにもたくさんある。2,3読んでみたこともある。そのお経のエッセンスが般若心経であるなどという事は、あんな短いお経にまとめるなどという事は無理に決まっている、と思える。

次に、般若心経には、「般若ハラミッタ」の内容が書かれていない。観自在菩薩が、般若ハラミッタを行じているときに語った言葉である。行じるというのは、それを研究している、とでも言ったらよいのだろうか。その時に、シャリシに向かって、何もかもが無であると語り、だからボダイサッタやサンゼ諸仏は般若ハラミッタを唱えて悟りの境地に達した、般若ハラミッタは一切の苦を取り除く、究極の知恵である、すばらしいよ、般若ハラミッタは。という内容になっている。

「般若ハラミッタは素晴らしい」と言っているだけで、じゃあ般若ハラミッタとは何なのかは一切語られていない。また、般若ハラミッタを唱えればアノクタラサンミャクサンボダイが得られるというが、
それは般若心経の事か?般若心経とはハンニャハラミッタは素晴らしいといっているものであり、
ハンニャハラミッタそのものではない。もしくは、ギャテイギャテイ・・・と唱えることと同じである、といっているから、ギャテイギャテイ・・・を唱えればいい、という事なのだろうか?ナムアミダブツと同じように。クリスチャンがただイエスを主であると信仰しさえすればよい、というように。

般若心経そのものに疑問はあるが、言っている事に注目すべき内容もある。ハンニャハラミッタが必要な前提である、何もかもが無である、という説明である。まず、シキ=クウである。同様にして、ジュソウギョウシキも(クウである?)クウであるので、不であるものショウ・滅、ク・ジョウ、増・減。
それゆえに、無シキ 無ジュソウギョウシキ 無眼耳鼻舌身意それに対応する色声香味触法無眼界(目に見える世界)無意識界(意識の世界、精神世界?目に見えない世界?)無明は無く、無明が尽きることもない。老いて死ぬこともないし、老いて死ぬ事がなくなることも無い。苦が無くなる道はない。知ることも、得るものもない。

なんだか、やたらめったら無である無であると言っていて、もう「何もかもが無である、この世のすべては虚妄である」と言ってもらいたくなるが、多分、そういう意味ではないのだろう。ダライラマの仏教入門とかいう本で、「現象はどれひとつとしてそのもの自身で存在しているものはない」と言っていた。そういうと現代人は納得してしまうだろう。なんだかすべては相対的なもので観察者の主観により組み立てられているにすぎないのだ、と考えれば楽になるような気がする。しかし私は無というのはそんな簡単なものだとは思わない。

般若心経を語った人が、聞いた人に求めるリアクションとは、そんな事言ったって私は毎日シキショウコウミソクホウをありありと感じている、無だなんて嘘だ、少なくとも無であるとわかったところでどうにもならない!!というものである。

我々は朝起きて太陽が昇ってくるのを見る。それは実は太陽の周りを地球が回っているんだとかさらには地球は丸いんだとか重力で引き合っているとか太陽との距離は何十万キロあるとか、そんなことは知識として知ってはいても、われわれにとって重要で真実なのは東から上ってくる、ということのほうだ。何もかもが無である、という知識もそれと同じようなものである。


また忘れている。

まあ全然思い出していないから無理もないのだが。
しかし今回の忘れっぷりはひどかったので、少しショックだった。
二日酔い気味でもあったからな。

般若心経を覚えていたら、子供の頃風呂で母親におそわった遊びで、あわぶくたったというのがあったのを思い出した。「あわぶく」「わぶく」「あぶく」のどれかはあいまいである。あーぶくたった煮え立った、煮えたかどうか食べてみよう、トントントン、何の音?カゼの音。あーよかった。トントントン、何の音?おばけの音!!!ワー!というもの。

どんな詩だったかなとサーチしてみると、棚にしまって布団をしいて寝ましょうとかいうのがあったが、そんな下世話な歌詞ではなかった。ずいずいずっころばしも教わった。

般若心経を再度暗記していて気づいた事。後半にボダイサッタとサンゼショブツの成功談みたいなフレーズがあるが、彼らが成功した要因は二つあって、ひとつは無であり、もうひとつが依般若ハラミッタである。では我々も成功するにはどうしたらいいのか。無であることは悟った、とまではいかないまでもなんとなくわかる。では、般若はらみったとは何か?以前にも書いたが般若心経は般若ハラミッタであなたも悟れます、という何かの広告みたいなお経である。肝心の般若ハラミッタとは何かということがわからないのである。わたしの今の般若心経にたいするスタンスは、なにこれ怪しいなそんなうまい話あるかよ、というものである。

なんだか書きたくなって、筆ペンで書いて見た。何回か書いているうちに密じゃなくて蜜であるとかに気づいたが、だいたい漢字は当て字のようなものだからどうでもいいっちゃいいんだよな。

別に不安でたまらないとか自分を見つめなおすとか、そんなつもりはまったくない。以前になんだか無性にキュウリを薄く刻みたくなったことがあったが、それと似た感じだ。

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死を望む人の死生観

最近は死にたい気持ちがいっそう募ってきた。単なる慣用句また感動詞としての「死にたい」ではなく、本格的な「希死念慮」という奴である。

そしてまた自殺の方法を調べた。恐怖と苦痛が少なく迷惑もかけない死に方はないか・・・。

すると、2ちゃんねるの自殺未遂体験を語るスレッドが見つかった。
以前にもちょっと眺めたことはあるが、じっくり読んでみた。

多いのは薬物とリストカットと足がつく場所での首吊りだった。
失敗した原因は、同居人のいる自宅で遂行した、電話やメールで知人にほのめかすかあるいははっきり宣言して助けられた、恐怖で自殺を思いとどまった、などである。

共通しているのは、すべて自分が死ぬ覚悟ができていなかった、死ぬ恐怖に打ち勝てなかったということである。

自殺の話になるとまず言われるのは「自殺なんかしてはいけない。命は授かりものだ。」という自殺罪悪説である。それから、「自殺未遂なんて本気で死ぬつもりなどないのだ。死にたいのならとっとと死ね」という未遂に対する罵倒。そして、「何があったの?死ぬ前に誰かに相談すれば?生きてればいいことあるよ」という心配。

「自殺は素晴らしい」という人はまずいない。
だが、非常に潔く動機も生活苦などではない場合はそれが賞賛される場合もある。
乃木稀典とか、三島由紀夫とかである。

私はこの2人の自殺にも興味を持っていろいろと調べてみたが、あまり手放しでは賞賛できないような事実をいくつか知った。そして、2人の死について否定的な考えを表明している有名人も大勢いることを知った。



調べれば調べるほど、自殺というのは限りなく困難なもので、ほとんど不可能に近いと思えてくる。
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未遂に終わった場合、「二度と自殺なんかしない」という人が多いが、中には「今度こそ」と考える人もいる。実際、自殺に成功した人は何度か未遂を繰り返した人が多いそうである。



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しかし、いざ死のうとすると苦痛と恐怖で思いとどまってしまう。

思いとどまるときに、たと…

グリーン車で横の席に荷物を置く人

私は常磐線で通勤しているのだが、最近朝がつらくて、
グリーン車に乗ることが多い。

私が乗る駅では、グリーン車は窓際はまず埋まっている。

窓際に人がいる隣の通路側の席に座る。


だが、そこにカバンを置いている人が非常に多い。

私はそれがとても頭にくる。というか、その神経が理解できない。


なぜそんなことができるのだろうか?

私は休日にもグリーン車に乗ることがあるが、

ガラガラでもとなりの席に荷物など置いたことはない。

なぜなら、グリーン車は有料だからだ。


距離によるが、550円とか770円とか、ランチが食べられるくらいの料金だ。


まあ、ガラガラであれば、カバンを置いても、私はしないが、まあ許せる。

でも、通勤ラッシュ時で、上野につくころにはほぼ満席になる常磐線のグリーン車で、

隣の席に荷物を置くのは許せない。

その荷物をつかんで放り投げたくなる気持ちを懸命に抑える。


時々、そういう人にむかって、「すいません」と言って席を空けてもらって座る人がいる。

謝るのは荷物を置いている方だろ!


そういうときに、荷物を置いている人が謝るのを見たことがない。

私は、絶対に謝らない。そこまでして座りたくない。


が、そういう人がいると、顔をじっと見る。

そうすると、だいたいどける。



最近わかってきたのだが、この行動は無神経であるとか気が利かないというのではなく、

隣に人を座らせたくないので故意にやっているようだ。


なんという、利己的な行為だろう。私はそういう行為が本当に嫌いだ。


私も、なるべく隣に人がいない席を選ぶ。隣に人が来て欲しくないという気持ちはわかる。

でも、だからって荷物を置いて座らせないようにするなんてことは絶対にできない。

そんなことまでしたくない。


昨日は、隣の席に荷物を置いて寝ている人に、「すいません」と声をかけている人がいたのだが、

寝ている人は2、3度声をかけられても起きなかった。

多分、気づいているのに起きなかったのだろう。



私は振り返って、その人がどんな顔をしているか見た。

年齢は私よりやや上、50歳前後だ。

上着を着ずにワイシャツとスラックスの、ごく普通のサラリーマン風の男性である。


特にバカそうでもズルそうでもダメ人間でもだらしない感じでもない。

でも、そういうごく普通の人間が、このような利己的な行為をするものなのである。

これは静かなる暴力と言ってもいい。


キンタマを掴まれる

この話はツイッターで言いたかったのだが、どうしても「キンタマ」と書く勇気が出なかったのでこっちに書く。

私は猥談が嫌いだ。
猥談なんかしていたのは高校生まで。
わけあって私は一切猥談をしなくなった。
飲み会でもしない。飲み会でそういう話題になると貝になる。

そして、「キンタマを掴まれる」という言葉には性的な意味はない。
それは常識かもしれないがやっぱりキンタマなどという言葉を口にすることははばかられる。
わたしも「キンタマ」などという言葉を思い出したのは久しぶりで、懐かしささえ感じた。

なんで思い出したかというと、夢の中でキンタマを掴まれたからだ。
その夢では、わたしは背後にぴったりと誰かが張り付いているのを感じていた。
それは見えないし、ぴったりではあるがそっとなので気のせいかなと思うくらいだ。
だが、間違いなく張り付いていると確信した。だが、それを自分で払いのけることはなぜかできない。

そこで、近くにいた知り合いと思われる人に、「ちょっとこれはがしてくれない?」と頼んだ。

それを頼んだときに掴まれたのか、その前から掴まれていたのかわからないが、
その背後にはりついていた何者かがわたしのキンタマを掴んでいた。
とても痛かった。その痛みは鋭いものではなく、鈍く、重いものだった。

そして結局背後にいるものがはがされないまま、目が覚めた。
その目が覚める瞬間に、キンタマの痛みもすーっと消えていった。
そして、わたしは「あ、これは自分が作り出している幻覚にすぎないな」ということがわかった。