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南無阿弥陀仏


私の父の墓には「南無阿弥陀仏」と刻んである。○○家之墓などとは書いていない。これは浄土真宗のやり方である。浄土真宗では、むしろ「○○家」などと書くほうが不適切だと言われる。ただ、浄土真宗というのは戒律というか、タブーのようなものがほとんどない。非常に自由で、ただ阿弥陀仏に帰依するということを「南無阿弥陀仏」というおまじないのような文句で唱えさえすれば、極楽浄土に往生できるという、教えなのだ。開祖と言われる親鸞は肉食妻帯したのは有名だ。また、「いわんや悪人をや」の悪人正機説、親鸞自身が「死んだら川に捨ててくれ」などと言ったというエピソードもある。わたしは、これはキリスト教でいうプロテスタントのようなもので、信仰のみが重要で、イエスを救い主であると告白さえすれば救われるというのと、非常によく似ていると思った。

我が家の宗派が浄土真宗であるというのはそれまで知らなかった。実はほんとうに真宗なのかというのさえあやしい。ただ、私はそんなことはどうでもいいと思っている。私は宗教なんかインチキだとか、弱者のよりどころだとか、迷信だとか、権力者が民衆を支配するために利用したのだ、とかいう考えは大嫌いで、神様を信じているし、お墓参りも好きだし、教会や神社に行くのも好きである。しかし、仏教については、やや否定的な考えを持っている。仏教の「無」という考えが嫌いなのだ。実際の「無」は深遠な思想なのかもしれないが、それは行き着くところは唯物論ではないかと思えてしかたがない。

父が死んで、葬式をして、墓を建てるにあたって、歎異抄とか、柳宗悦の南無阿弥陀仏とか、ダライラマの密教入門とかを読んで、般若心経を暗記したり、阿弥陀経なども読んでみた。また、父は昔からブッダとか、正法眼蔵とかの本をよく読んでおり、わたしも父の書斎にしのびこんでそういう本をちょこちょこと読んだりしていた。しかし、そこで言わんとしていることは、生きることは苦であり、修行であり、欲望は悪いものであり、飲食や性欲はもちろん、親子や夫婦の愛さえ執着であるという、ニヒリズムであった。そう考えたら、楽かもしれないが、生きる意味もなくなる。わたしは、そういう生を否定する思想はどうしても受け入れられなかった。そして、多くの人が宗教というものがそういうものだと考えているのを知っている。しかし、神を信じることは、生を肯定することなのである。生を肯定するなら、神を信じるしかない、というのは、わたしがある時に到達した結論である。それはほとんど、悟りといってよかった。悟りとは、すべてを否定するような、すべてが虚像であるとみなすようなイメージがある。しかし、本当の悟りとは、すべてを肯定することなのだ。無ではないのだ。

わたしは、般若心経を暗記したときに、「これは、なにもかもが無だと言っているようだが、実はそんなに無だといってもどうしても否定できないものだということを悟らせようとしたのではないか」と考えたことがある。仏教は嫌いだと書いたが、阿弥陀仏の話は好きだ。正確にはおぼえていないが、阿弥陀仏は昔インドにいた人間で、王様だった人だそうだ。その人が、迷える人を救おうと思い立ち、修行をしたのか、誰かに祈ったのかして、仏となって、「南無阿弥陀仏」と唱えさえすれば、極楽に行けるようになった、というのである。やっぱりキリスト教に似ている。みんなが修行を積んで、まるでスポーツのように訓練して解脱するのではない。ひとりの人が代表して極楽への道を切り開き、その人が苦労を一身に担って、いわば極楽を開放したのである。後から来た人は苦労することなく、極楽にいけるのである。わたしはこういう話は好きだ。「解脱は教えられない。自分で悩んで苦しんで俺の境地に登ってこい」というような話は滅入る。


父が亡くなったのをきっかけに、私は阿弥陀仏と縁を持った。そしてそれから程なくして、神奈川県に引っ越した。引っ越して、有名な場所を一通り見にいった。横浜、港の見える丘公園、鶴岡八幡宮、湘南の海岸、そして鎌倉の大仏。鎌倉の大仏は高校生のときに一度見ている。あらためて見に行って、その由来などを読んで、あの大仏は阿弥陀如来であるということを初めて知った。南無阿弥陀仏の、阿弥陀仏である。そして住まいのすぐ近くには遊行寺がある。遊行寺は時宗の総本山だそうだが、時宗の信仰対象も阿弥陀仏である。熱心に信仰しているというわけではないが、非常に親しみを感じている。私にとって、南無阿弥陀仏というのは、「なんとかなるさ」あるいは「どうでもいいよ」とほとんど同じくらいの意味である。

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死を望む人の死生観

最近は死にたい気持ちがいっそう募ってきた。単なる慣用句また感動詞としての「死にたい」ではなく、本格的な「希死念慮」という奴である。

そしてまた自殺の方法を調べた。恐怖と苦痛が少なく迷惑もかけない死に方はないか・・・。

すると、2ちゃんねるの自殺未遂体験を語るスレッドが見つかった。
以前にもちょっと眺めたことはあるが、じっくり読んでみた。

多いのは薬物とリストカットと足がつく場所での首吊りだった。
失敗した原因は、同居人のいる自宅で遂行した、電話やメールで知人にほのめかすかあるいははっきり宣言して助けられた、恐怖で自殺を思いとどまった、などである。

共通しているのは、すべて自分が死ぬ覚悟ができていなかった、死ぬ恐怖に打ち勝てなかったということである。

自殺の話になるとまず言われるのは「自殺なんかしてはいけない。命は授かりものだ。」という自殺罪悪説である。それから、「自殺未遂なんて本気で死ぬつもりなどないのだ。死にたいのならとっとと死ね」という未遂に対する罵倒。そして、「何があったの?死ぬ前に誰かに相談すれば?生きてればいいことあるよ」という心配。

「自殺は素晴らしい」という人はまずいない。
だが、非常に潔く動機も生活苦などではない場合はそれが賞賛される場合もある。
乃木稀典とか、三島由紀夫とかである。

私はこの2人の自殺にも興味を持っていろいろと調べてみたが、あまり手放しでは賞賛できないような事実をいくつか知った。そして、2人の死について否定的な考えを表明している有名人も大勢いることを知った。



調べれば調べるほど、自殺というのは限りなく困難なもので、ほとんど不可能に近いと思えてくる。
ロープを用意し、山の中まで行って首を入れるところまでいってもやめてしまう人がいる。
薬の大量服用については、本人の意志に関係なく吐いてしまい、まず成功することがない。

未遂に終わった場合、「二度と自殺なんかしない」という人が多いが、中には「今度こそ」と考える人もいる。実際、自殺に成功した人は何度か未遂を繰り返した人が多いそうである。



私は自殺を試み未遂に終わる人たちがすべて本気で死のうとしていないとは思わない。
彼らは本当に絶望していて、生きることは苦痛以外の何物でもなく、死ぬしかないと思っている。
しかし、いざ死のうとすると苦痛と恐怖で思いとどまってしまう。

思いとどまるときに、たと…

グリーン車で横の席に荷物を置く人

私は常磐線で通勤しているのだが、最近朝がつらくて、
グリーン車に乗ることが多い。

私が乗る駅では、グリーン車は窓際はまず埋まっている。

窓際に人がいる隣の通路側の席に座る。


だが、そこにカバンを置いている人が非常に多い。

私はそれがとても頭にくる。というか、その神経が理解できない。


なぜそんなことができるのだろうか?

私は休日にもグリーン車に乗ることがあるが、

ガラガラでもとなりの席に荷物など置いたことはない。

なぜなら、グリーン車は有料だからだ。


距離によるが、550円とか770円とか、ランチが食べられるくらいの料金だ。


まあ、ガラガラであれば、カバンを置いても、私はしないが、まあ許せる。

でも、通勤ラッシュ時で、上野につくころにはほぼ満席になる常磐線のグリーン車で、

隣の席に荷物を置くのは許せない。

その荷物をつかんで放り投げたくなる気持ちを懸命に抑える。


時々、そういう人にむかって、「すいません」と言って席を空けてもらって座る人がいる。

謝るのは荷物を置いている方だろ!


そういうときに、荷物を置いている人が謝るのを見たことがない。

私は、絶対に謝らない。そこまでして座りたくない。


が、そういう人がいると、顔をじっと見る。

そうすると、だいたいどける。



最近わかってきたのだが、この行動は無神経であるとか気が利かないというのではなく、

隣に人を座らせたくないので故意にやっているようだ。


なんという、利己的な行為だろう。私はそういう行為が本当に嫌いだ。


私も、なるべく隣に人がいない席を選ぶ。隣に人が来て欲しくないという気持ちはわかる。

でも、だからって荷物を置いて座らせないようにするなんてことは絶対にできない。

そんなことまでしたくない。


昨日は、隣の席に荷物を置いて寝ている人に、「すいません」と声をかけている人がいたのだが、

寝ている人は2、3度声をかけられても起きなかった。

多分、気づいているのに起きなかったのだろう。



私は振り返って、その人がどんな顔をしているか見た。

年齢は私よりやや上、50歳前後だ。

上着を着ずにワイシャツとスラックスの、ごく普通のサラリーマン風の男性である。


特にバカそうでもズルそうでもダメ人間でもだらしない感じでもない。

でも、そういうごく普通の人間が、このような利己的な行為をするものなのである。

これは静かなる暴力と言ってもいい。


キンタマを掴まれる

この話はツイッターで言いたかったのだが、どうしても「キンタマ」と書く勇気が出なかったのでこっちに書く。

私は猥談が嫌いだ。
猥談なんかしていたのは高校生まで。
わけあって私は一切猥談をしなくなった。
飲み会でもしない。飲み会でそういう話題になると貝になる。

そして、「キンタマを掴まれる」という言葉には性的な意味はない。
それは常識かもしれないがやっぱりキンタマなどという言葉を口にすることははばかられる。
わたしも「キンタマ」などという言葉を思い出したのは久しぶりで、懐かしささえ感じた。

なんで思い出したかというと、夢の中でキンタマを掴まれたからだ。
その夢では、わたしは背後にぴったりと誰かが張り付いているのを感じていた。
それは見えないし、ぴったりではあるがそっとなので気のせいかなと思うくらいだ。
だが、間違いなく張り付いていると確信した。だが、それを自分で払いのけることはなぜかできない。

そこで、近くにいた知り合いと思われる人に、「ちょっとこれはがしてくれない?」と頼んだ。

それを頼んだときに掴まれたのか、その前から掴まれていたのかわからないが、
その背後にはりついていた何者かがわたしのキンタマを掴んでいた。
とても痛かった。その痛みは鋭いものではなく、鈍く、重いものだった。

そして結局背後にいるものがはがされないまま、目が覚めた。
その目が覚める瞬間に、キンタマの痛みもすーっと消えていった。
そして、わたしは「あ、これは自分が作り出している幻覚にすぎないな」ということがわかった。