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トッキョキョカキョク


2007/06/09(Sat) 02:29
最近また夜中にホトトギスが鳴き出した。
初夏を告げる鳴き声であるがウグイスと違ってあまり美しい鳴き声ではない。むしろうるさい。確か去年から気になりだした。以前にも書いたような記憶があるが見つからない。しかし、若い頃はホトトギスの声なんか聞いた覚えはなかった。どうして最近になって気になるようになったのだろう。

2007/06/25(Mon) 21:12
帰りにT駅前の木に鳥が群がっていた。
あれはなんという鳥だろう?スズメよりちょっと大きいくらいだろうか。
駅前の木に群がってチーパーピーチュクと騒いでいるのである。
みんな見上げていた。蒸し暑いと出てくるのだろうか。

2007/07/07(Sat) 06:42
昨日は帰りに電線に固まってとまっていた。数百はいた。1000を超えていたかもしれない。気持ち悪い。

2007/07/10(Tue) 22:00
ムクドリのようです。各地で同じようなことで困っているみたいです。

2007/07/18(Wed) 21:05
駅前の街路樹に群がって鳴き声やフンで困っているところがたくさんあるようで、大きい群れになると数万羽にもなるそうだ。群れをつくるのはムクドリの習性であって別に環境破壊によりおかしくなったわけではないようだ。ただし木が少なくなったから街路樹に集まるようになった、ということはあるだろう。自然というのは怖いものだ。なめてはいけない。自然を守る、なんて悠長なことは言っていられないのだ。人間は必死に自然とたたかいねじ伏せてきた。自然が人をいやすなんてとんでもないことだ。

2007/07/24(Tue) 19:19
夕べは最近よくあることだが酒を飲みすぎて気絶するように眠ってしまい夜中にトイレに起きてそのまま眠れなくなってしまった。3時ごろだったのでまだ暗くて寝ようとしたのだがよく眠れなかった。そして明るくなってきて、新聞配達のバイクが来てポストがガタンといった。鳥がやけにうるさい。鳥は毎朝こんなにさえずっていたっけ?ここも田舎なのかな、などと考えていると何かの鳥がさえずりながら遠ざかっていった。そしてもう起きなければならない頃になって、ハトがなきだした。ボーボー、ッボボー、ボーボー、ッボボーという、子供の頃から聞いていたあの声である。ハトはどうしてあんな声をだすのだろう?ハトがあの鳴き方をするのはどんなときなのだろう。公園などでハトが群れているところでは、クルックルッというような短い声で鳴いている。あまり楽しそうな鳴き声ではない。

2007/07/28(Sat) 02:18
今朝いつものように自転車で駅へ向かっていたら停まっている車の前輪のところに、木の枝のようなものがついているのが目に入った。そんなところいつも見ていないのになぜか目に入った。タイヤの上の、ボディがかぶさっている下側に、絡みつくようにくっついていたのだ。学校にあった、大きな竹箒に使われるあの枝のようなものだ。

しかしなんだか不自然である。まるで足が生えていて掴まっているようである。いや、確かに掴まっている。これは木の枝ではない、ナナフシだ!と、通り過ぎかけたが引き返して、近くでよく見てみた。体長は30センチ近かった。4本の足で車にぶら下がっていた。昆虫なら6本のはずだが見えない。触覚も目玉も見つからなかったが、絶対あれは木の枝ではない、生物である。

調べたところ、前足二本は触覚とともに体と一直線になるようにぴんと伸ばすようだ。私が頭かと思ってみていたのは多分反対側である。のっぺらぼうだったから。

ナナフシの存在は図鑑で知っていたのだが実物を見たのは初めてである。しかし不思議な生き物だな。こういう生き物をみると進化論なんか絶対に信じられない。イタズラで創ったとしか思えない。

08/03/09(Sun) 09:23
走り終わって近所を歩いていたらすぐそばでウグイスの声がする。そーっと声の方へ近寄っていくと、木の茂みのなかから声が聞こえている。じっと待っているとウグイスが飛び出してきて、隣の枯れ木に止まってまた一声鳴いた。近くで聞くと、管楽器のようななかなか深い音色であった。今日はなんだかいいことがありそうだ。

08/03/09(Sun) 09:24
ちなみにウグイスというのは見た目はとても地味ですずめより地味なくらいだ。ウグイス色というと少し黄色っぽい緑色のように誤解していたのだが、それはメジロの体色であって、ウグイス色というのはもう少しくすんだ、暗い色である。

08/05/23(Fri) 23:41
昨日帰り道に鳴き声が聞こえたと思ったら、一晩中ないていた、トッキョキョカキョク、トッキョキョカキョク、
トッキョキョカキョキュキョク、トッキョキョク・・・・なんて。
もう夏が来たのか。

目には青葉山ほととぎす初がつを

きっと私が子供の頃から、タバコをすっていた頃も、キャバクラへ行って泥酔して倒れるように寝ていた頃も、
夜眠れずにヘッドホンでpink floydやらdylanやらsex pistolsやらを聴いていた頃も、ずっと、ホトトギスは今頃の季節に
鳴いていたんだと思う。

その鳴き声をホトトギスの鳴き声として聞けるようになった、私のほうが変わったのだと思う。
そして多分というか、間違いなく、そのきっかけは5月11日に死んだ父である。

08/05/23(Fri) 23:44
ホトトギスになって父が初夏になるとやってくる、なんてことは考えられないけど、
もしかしたら世の中そんなものなのかもね。
小学生の頃に読んだ童話のような世界が、ピノキオとかガリバーとか、
その他の童話が一番、この世の真理を正しく表現しているんじゃないかなって、
高校生の頃から、ずっと思っている。

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死を望む人の死生観

最近は死にたい気持ちがいっそう募ってきた。単なる慣用句また感動詞としての「死にたい」ではなく、本格的な「希死念慮」という奴である。

そしてまた自殺の方法を調べた。恐怖と苦痛が少なく迷惑もかけない死に方はないか・・・。

すると、2ちゃんねるの自殺未遂体験を語るスレッドが見つかった。
以前にもちょっと眺めたことはあるが、じっくり読んでみた。

多いのは薬物とリストカットと足がつく場所での首吊りだった。
失敗した原因は、同居人のいる自宅で遂行した、電話やメールで知人にほのめかすかあるいははっきり宣言して助けられた、恐怖で自殺を思いとどまった、などである。

共通しているのは、すべて自分が死ぬ覚悟ができていなかった、死ぬ恐怖に打ち勝てなかったということである。

自殺の話になるとまず言われるのは「自殺なんかしてはいけない。命は授かりものだ。」という自殺罪悪説である。それから、「自殺未遂なんて本気で死ぬつもりなどないのだ。死にたいのならとっとと死ね」という未遂に対する罵倒。そして、「何があったの?死ぬ前に誰かに相談すれば?生きてればいいことあるよ」という心配。

「自殺は素晴らしい」という人はまずいない。
だが、非常に潔く動機も生活苦などではない場合はそれが賞賛される場合もある。
乃木稀典とか、三島由紀夫とかである。

私はこの2人の自殺にも興味を持っていろいろと調べてみたが、あまり手放しでは賞賛できないような事実をいくつか知った。そして、2人の死について否定的な考えを表明している有名人も大勢いることを知った。



調べれば調べるほど、自殺というのは限りなく困難なもので、ほとんど不可能に近いと思えてくる。
ロープを用意し、山の中まで行って首を入れるところまでいってもやめてしまう人がいる。
薬の大量服用については、本人の意志に関係なく吐いてしまい、まず成功することがない。

未遂に終わった場合、「二度と自殺なんかしない」という人が多いが、中には「今度こそ」と考える人もいる。実際、自殺に成功した人は何度か未遂を繰り返した人が多いそうである。



私は自殺を試み未遂に終わる人たちがすべて本気で死のうとしていないとは思わない。
彼らは本当に絶望していて、生きることは苦痛以外の何物でもなく、死ぬしかないと思っている。
しかし、いざ死のうとすると苦痛と恐怖で思いとどまってしまう。

思いとどまるときに、たと…

グリーン車で横の席に荷物を置く人

私は常磐線で通勤しているのだが、最近朝がつらくて、
グリーン車に乗ることが多い。

私が乗る駅では、グリーン車は窓際はまず埋まっている。

窓際に人がいる隣の通路側の席に座る。


だが、そこにカバンを置いている人が非常に多い。

私はそれがとても頭にくる。というか、その神経が理解できない。


なぜそんなことができるのだろうか?

私は休日にもグリーン車に乗ることがあるが、

ガラガラでもとなりの席に荷物など置いたことはない。

なぜなら、グリーン車は有料だからだ。


距離によるが、550円とか770円とか、ランチが食べられるくらいの料金だ。


まあ、ガラガラであれば、カバンを置いても、私はしないが、まあ許せる。

でも、通勤ラッシュ時で、上野につくころにはほぼ満席になる常磐線のグリーン車で、

隣の席に荷物を置くのは許せない。

その荷物をつかんで放り投げたくなる気持ちを懸命に抑える。


時々、そういう人にむかって、「すいません」と言って席を空けてもらって座る人がいる。

謝るのは荷物を置いている方だろ!


そういうときに、荷物を置いている人が謝るのを見たことがない。

私は、絶対に謝らない。そこまでして座りたくない。


が、そういう人がいると、顔をじっと見る。

そうすると、だいたいどける。



最近わかってきたのだが、この行動は無神経であるとか気が利かないというのではなく、

隣に人を座らせたくないので故意にやっているようだ。


なんという、利己的な行為だろう。私はそういう行為が本当に嫌いだ。


私も、なるべく隣に人がいない席を選ぶ。隣に人が来て欲しくないという気持ちはわかる。

でも、だからって荷物を置いて座らせないようにするなんてことは絶対にできない。

そんなことまでしたくない。


昨日は、隣の席に荷物を置いて寝ている人に、「すいません」と声をかけている人がいたのだが、

寝ている人は2、3度声をかけられても起きなかった。

多分、気づいているのに起きなかったのだろう。



私は振り返って、その人がどんな顔をしているか見た。

年齢は私よりやや上、50歳前後だ。

上着を着ずにワイシャツとスラックスの、ごく普通のサラリーマン風の男性である。


特にバカそうでもズルそうでもダメ人間でもだらしない感じでもない。

でも、そういうごく普通の人間が、このような利己的な行為をするものなのである。

これは静かなる暴力と言ってもいい。


キンタマを掴まれる

この話はツイッターで言いたかったのだが、どうしても「キンタマ」と書く勇気が出なかったのでこっちに書く。

私は猥談が嫌いだ。
猥談なんかしていたのは高校生まで。
わけあって私は一切猥談をしなくなった。
飲み会でもしない。飲み会でそういう話題になると貝になる。

そして、「キンタマを掴まれる」という言葉には性的な意味はない。
それは常識かもしれないがやっぱりキンタマなどという言葉を口にすることははばかられる。
わたしも「キンタマ」などという言葉を思い出したのは久しぶりで、懐かしささえ感じた。

なんで思い出したかというと、夢の中でキンタマを掴まれたからだ。
その夢では、わたしは背後にぴったりと誰かが張り付いているのを感じていた。
それは見えないし、ぴったりではあるがそっとなので気のせいかなと思うくらいだ。
だが、間違いなく張り付いていると確信した。だが、それを自分で払いのけることはなぜかできない。

そこで、近くにいた知り合いと思われる人に、「ちょっとこれはがしてくれない?」と頼んだ。

それを頼んだときに掴まれたのか、その前から掴まれていたのかわからないが、
その背後にはりついていた何者かがわたしのキンタマを掴んでいた。
とても痛かった。その痛みは鋭いものではなく、鈍く、重いものだった。

そして結局背後にいるものがはがされないまま、目が覚めた。
その目が覚める瞬間に、キンタマの痛みもすーっと消えていった。
そして、わたしは「あ、これは自分が作り出している幻覚にすぎないな」ということがわかった。