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虚しさに立ち向かう

何もしたくない。本も読みたくない。映画も見たくない。音楽も聴きたくない。眠くない。食欲もない。酒も飲みたくない。性欲もない。何をする気にもならない。寝転がって天井を見つめる。すべきこともない。不安も恐怖もない。楽しみも悲しみもない。恐ろしいことだ。恐ろしいといっても逃れられるようなわかりやすい恐怖ではない。何もない恐ろしさだ。これに直面し逃げないのは勇気のいることだ。何か夢中になれるものを見つけてそれに関わっていれば忘れられるかもしれない。私も今までそうしてきた。それが生きることだと思っていた。これを見つめても何も出てこないと思っていた。しかし、何をやっても結局ここへ帰ってくる。これは、見つめなければならないものではないのか。直面しなければならないのではないか。テレビも見ず、体を動かし腹をすかせ眠くなることもせず、じっと見つめる。なにもない所を見つめる。

高校生の頃、今感じているのと同じようなことを感じたことがある。もう20年以上前だ。その時と何も変わっていない。20年もたって何の成長もしていないというのは普通の人ならおそろしく直視できないことだろう。だが今の私はそれを直視できる強さを持っている。そうだ、私は強くなったのだ。
虚しさを象徴していたのは、毎朝通学するときに駅まで自転車で行く途中にある下り坂だった。自転車を漕がなくても勝手に自転車は走り、私は何もしなくても体は駅に近づいていく。それを毎日繰り返している。私の人生も、毎日の生活も、漕がずに進む下り坂の自転車のようなものだった。私はそれが不思議であるのと同じくらい、おそろしかった。

その後私は高校を卒業し、意味も目的もわからぬまま当然とされている大学進学を目指した。一度失敗し、浪人と呼ばれるやり直しをおこなって大学へ入学した。その間にちょっとした事件があった。それは私が虚しさを克服するために、避けることのできないことだった。それは決して私に利益のあることではなかった。得することではなかった。でも、私はそれを選択した。傍から見たらそれは愚行であり、過失にさえ見えたかもしれない。自分でもそう思ったこともあった。しかし今ではわかる。あれは迷いでも逃避でも過失でも汚点でもない、私に課せられた、一生かかって解決することを課せられたわたしの任務であったのだ。

私は音楽を好んだ。ちょうどその虚しさに直面した頃から、音楽を好んだ。それは虚しさから目を背けるため、虚しさから逃げるためでもあったかもしれないが、もしかしたら音楽が虚しさそのものだったのかもしれない。私は家にいるときはほとんど常時ヘッドホンをしていた。眠るときもヘッドホンをして寝た。外出しているときは音楽を聴かなかったが、頭の中では何かしらの音楽がつねに流れていたような気がする。

私は文学を芸術だとは思えなかった。特に小説は芸術というにはあまりに汚く魅力に乏しかった。絵画は芸術だと認められた。そして音楽こそが芸術中の芸術であると思っていた。しかし、今では音楽を聴くことに魅力を感じなくなり、苦痛だと思うようにさえなってきた。それは音楽に飽きたのではなく、音楽の本質に気づき始めたから、芸術の本質に気づき始めたからではないだろうか。
カネがあると虚しさを忘れる。私もカネがはいるとしばらくは虚しさを忘れて、世の中を楽しむ。おそるおそる。カネがなくならないように細心の注意を払って。そしてカネがつきるとまた私は虚しさに直面することになる。

何もやる気がしない。驚きあきれるくらいに何もしたくない。食欲はあるが、うまいものを食いたい、などと思うことはない。腹がふくれればよい。不安定ではあるが眠れてもいる。性欲もある。これまた、最低限でよい。

よく考えてみれば、これはもう、物心ついた頃から、子供の頃からずっとだった。私は何もやる気がしない。一生懸命何かをするとか、人と競い合うということが嫌いだった。将来の夢もなかった。世の中は退屈で生きることは義務でしかなかった。早く時が流れて人生が終わって欲しいといつもぼんやり思っていた。

この生き方、一見無気力でどうしようもない人間のような生き方は、実は私が意図して、ポリシーとして実行している生き方なのである。私だっておいしいものがおいしいとわからないわけではない。だが、だからといってそれをおいしいおいしい、うまいうまいと言って夢中になることはカッコ悪くあさましいという気持ちがある。だから、メシなんざ腹がふくれりゃいいのさ、という態度をとっている。
一生懸命いきたりしないのも、それが自分がより贅沢に暮らしたいということをめざすのなら、美食を求めるのと同じようなことでみっともなくあさましいと思う。
と、カッコよく言ってみたが、私の無気力はそんな生易しいものではなく、生きていくのに最低限必要な気力をも下回っている。

虚しくてどうしようもないときにはどうしたらいいだろうか?多くの人はそういうことがないように、あるいはそういうことに耐え切れず、何かをする。仕事、学業がまずある。だがそれだけでは一人の人生をすべて満たすことはできない。仕事や学校が終わった後、休みの日などに人はまた虚無に直面することになる。それを逃れるために、あるいは忘れるために人は趣味を持つ。

私には趣味がない。スポーツ、音楽、読書などを少しはかじり、時々はそれらが素晴らしいなと思うこともあるが、私はこれが好きですとか、これをしていると何もかも忘れるとか、これだけは誰にも負けないとか、ちょっとしたものだというものはない。

時間があって、健康で、自由であるときに、人は何をすべきなのだろうか。時間がなかったり人手が足りなかったりすることはよくあるが、そんなときにもどこかで暇をもてあまし虚無に押しつぶされそうになっている人がいるのだ。

私には趣味がない。「休みの日は何してるの?」と聞かれると困る。かといって仕事人間なわけではない。仕事中はずっと、早く終わらないかなと思っているし、週末が待ち遠しくて仕方がないし、日曜の夜は憂鬱になる。でも、趣味はない。テレビ、音楽、スポーツ、映画など、もちろんまったく何もやらないわけではないが、どれをとっても趣味だといえるほど熱中したり練習したりしているものはない。

たとえばギターを買って曲を作って宅録したことがある。丹沢へひとりで行って朝から晩まで山を歩いたこともある。フルマラソンに挑戦するために練習して何度か走ったこともある。苦手な水泳を練習しようとプールに通ったこともある。沖縄旅行を何度かしたこともある。でも、今はそれらすべてから遠ざかっている。

パソコンを自作してみたり、プログラミングに興味を持ったり、いろんなOSをインストールしてみたりしたこともある。ゲームはあまり好きではないが、時々ひとつのゲームに夢中になってしまうことがある。でもそれも1ヶ月もすればすっかり飽きてしまう。

本を読むのは楽しみのためではなく、あまり無教養なのも恥ずかしいし、人々がさかんにほめたりその人の発言を引用したりするような人の本は読んでおかなければならないだろうと、イヤイヤ読んでいるだけである。だから読書ももちろん趣味ではない。

酒は毎日飲んでいるが、酒を飲むことは趣味とはいえないだろう。これは悪い習慣である。

私は家にいるとき、そして最近はほとんど外へ出ることがないのだが、ずっとパソコンの前にいる。今もパソコンの前に座って、Chromeの画面でこの文章を打鍵している。こうやって誰に読ませるわけでもない文章を書くことは好きで、もしかしたらこれが趣味と言えるかもしれない。でも、人に説明するのは難しい。

パソコンの前にいてすることはたくさんある。文章を書くことはごく一部だ。youtubeで動画を見たり、ニコニコ生放送でどこの誰だか知らない人の雑談を聞いたり、ニュースを読んだり、googleで検索して何かを調べたりする。

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死を望む人の死生観

最近は死にたい気持ちがいっそう募ってきた。単なる慣用句また感動詞としての「死にたい」ではなく、本格的な「希死念慮」という奴である。

そしてまた自殺の方法を調べた。恐怖と苦痛が少なく迷惑もかけない死に方はないか・・・。

すると、2ちゃんねるの自殺未遂体験を語るスレッドが見つかった。
以前にもちょっと眺めたことはあるが、じっくり読んでみた。

多いのは薬物とリストカットと足がつく場所での首吊りだった。
失敗した原因は、同居人のいる自宅で遂行した、電話やメールで知人にほのめかすかあるいははっきり宣言して助けられた、恐怖で自殺を思いとどまった、などである。

共通しているのは、すべて自分が死ぬ覚悟ができていなかった、死ぬ恐怖に打ち勝てなかったということである。

自殺の話になるとまず言われるのは「自殺なんかしてはいけない。命は授かりものだ。」という自殺罪悪説である。それから、「自殺未遂なんて本気で死ぬつもりなどないのだ。死にたいのならとっとと死ね」という未遂に対する罵倒。そして、「何があったの?死ぬ前に誰かに相談すれば?生きてればいいことあるよ」という心配。

「自殺は素晴らしい」という人はまずいない。
だが、非常に潔く動機も生活苦などではない場合はそれが賞賛される場合もある。
乃木稀典とか、三島由紀夫とかである。

私はこの2人の自殺にも興味を持っていろいろと調べてみたが、あまり手放しでは賞賛できないような事実をいくつか知った。そして、2人の死について否定的な考えを表明している有名人も大勢いることを知った。



調べれば調べるほど、自殺というのは限りなく困難なもので、ほとんど不可能に近いと思えてくる。
ロープを用意し、山の中まで行って首を入れるところまでいってもやめてしまう人がいる。
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未遂に終わった場合、「二度と自殺なんかしない」という人が多いが、中には「今度こそ」と考える人もいる。実際、自殺に成功した人は何度か未遂を繰り返した人が多いそうである。



私は自殺を試み未遂に終わる人たちがすべて本気で死のうとしていないとは思わない。
彼らは本当に絶望していて、生きることは苦痛以外の何物でもなく、死ぬしかないと思っている。
しかし、いざ死のうとすると苦痛と恐怖で思いとどまってしまう。

思いとどまるときに、たと…

グリーン車で横の席に荷物を置く人

私は常磐線で通勤しているのだが、最近朝がつらくて、
グリーン車に乗ることが多い。

私が乗る駅では、グリーン車は窓際はまず埋まっている。

窓際に人がいる隣の通路側の席に座る。


だが、そこにカバンを置いている人が非常に多い。

私はそれがとても頭にくる。というか、その神経が理解できない。


なぜそんなことができるのだろうか?

私は休日にもグリーン車に乗ることがあるが、

ガラガラでもとなりの席に荷物など置いたことはない。

なぜなら、グリーン車は有料だからだ。


距離によるが、550円とか770円とか、ランチが食べられるくらいの料金だ。


まあ、ガラガラであれば、カバンを置いても、私はしないが、まあ許せる。

でも、通勤ラッシュ時で、上野につくころにはほぼ満席になる常磐線のグリーン車で、

隣の席に荷物を置くのは許せない。

その荷物をつかんで放り投げたくなる気持ちを懸命に抑える。


時々、そういう人にむかって、「すいません」と言って席を空けてもらって座る人がいる。

謝るのは荷物を置いている方だろ!


そういうときに、荷物を置いている人が謝るのを見たことがない。

私は、絶対に謝らない。そこまでして座りたくない。


が、そういう人がいると、顔をじっと見る。

そうすると、だいたいどける。



最近わかってきたのだが、この行動は無神経であるとか気が利かないというのではなく、

隣に人を座らせたくないので故意にやっているようだ。


なんという、利己的な行為だろう。私はそういう行為が本当に嫌いだ。


私も、なるべく隣に人がいない席を選ぶ。隣に人が来て欲しくないという気持ちはわかる。

でも、だからって荷物を置いて座らせないようにするなんてことは絶対にできない。

そんなことまでしたくない。


昨日は、隣の席に荷物を置いて寝ている人に、「すいません」と声をかけている人がいたのだが、

寝ている人は2、3度声をかけられても起きなかった。

多分、気づいているのに起きなかったのだろう。



私は振り返って、その人がどんな顔をしているか見た。

年齢は私よりやや上、50歳前後だ。

上着を着ずにワイシャツとスラックスの、ごく普通のサラリーマン風の男性である。


特にバカそうでもズルそうでもダメ人間でもだらしない感じでもない。

でも、そういうごく普通の人間が、このような利己的な行為をするものなのである。

これは静かなる暴力と言ってもいい。


キンタマを掴まれる

この話はツイッターで言いたかったのだが、どうしても「キンタマ」と書く勇気が出なかったのでこっちに書く。

私は猥談が嫌いだ。
猥談なんかしていたのは高校生まで。
わけあって私は一切猥談をしなくなった。
飲み会でもしない。飲み会でそういう話題になると貝になる。

そして、「キンタマを掴まれる」という言葉には性的な意味はない。
それは常識かもしれないがやっぱりキンタマなどという言葉を口にすることははばかられる。
わたしも「キンタマ」などという言葉を思い出したのは久しぶりで、懐かしささえ感じた。

なんで思い出したかというと、夢の中でキンタマを掴まれたからだ。
その夢では、わたしは背後にぴったりと誰かが張り付いているのを感じていた。
それは見えないし、ぴったりではあるがそっとなので気のせいかなと思うくらいだ。
だが、間違いなく張り付いていると確信した。だが、それを自分で払いのけることはなぜかできない。

そこで、近くにいた知り合いと思われる人に、「ちょっとこれはがしてくれない?」と頼んだ。

それを頼んだときに掴まれたのか、その前から掴まれていたのかわからないが、
その背後にはりついていた何者かがわたしのキンタマを掴んでいた。
とても痛かった。その痛みは鋭いものではなく、鈍く、重いものだった。

そして結局背後にいるものがはがされないまま、目が覚めた。
その目が覚める瞬間に、キンタマの痛みもすーっと消えていった。
そして、わたしは「あ、これは自分が作り出している幻覚にすぎないな」ということがわかった。