地震より恐ろしいもの

地震が増えてきた。

2011年3月11日以後は福島付近を中心に地震が多かったが、最近は千島列島とか、瀬戸内海とか、さっきは鳥島とか、日本中どこでもM6を超えるような地震が起きている。

東海地震が最も警戒されている雰囲気だったが、もう今では日本のどこで大地震が起きても不思議ではない感じだ。

しかし、私は地震そのものについてはそれほど恐怖がなくなった。

2011年の大地震ではM9、震度7を記録した。

それほどの大地震が起きても、高層ビルやマンションがポッキリ折れたとか、高速道路を走っていた車が下に落下したとか、地下街の天井が落ちて人々が生き埋めになったとか閉じ込められたとか、地割れが起きてそこに大勢の人が飲み込まれたとか、昔「大震災」で起こると想像していた現象はほとんど起こらない。

怖いのは、地震の後の津波、火事、そして原発などの事故である。これらについては、私は過小評価していた。津波は警報が出てもいつも数十センチから1mくらいだったが、あの時は最大30mほどの波が押し寄せたところもあったという。

原発の事故については、全く考えていなかったといってよい。地震そのもので原子炉が破壊されるのならまだ想像できるが、津波によって発電するための電力が断たれてそれによって原子炉が冷却できなくなる、なんてことになるとは、全く想像できなかった。


私は高いところが苦手で、ビルの2、30階にいると『今大地震が起きたらビルがぽっきり折れて俺は外へ投げ出されてしまうのではないか』などと想像してゾっとしたりするが、多分日本にあるどの高層建築であっても、震度7くらいまでは持ちこたえるだろう。


ということを考えてというわけでもないが、私は地震に対する備えを全くしていない。非常食とか飲料水とかも用意していない。それどころから私はこのまま無事に長生きした方が困るような生活をしている。こんなことをいったら不謹慎と怒られるだろうが、むしろ日本が壊滅することをどこかで望んでいるようなところがある。


私から見ると、人々はあまりに周到というか、用心深いというか、「将来」というものに対する備えが過剰に見える。貯金したり、生命保険やら火災保険やらに加入したり、病気にそなえて何度も検診を受けたり、ちょっと体調が悪ければすぐに病院へ行ったり・・・。


地震が来るかどうかはわからないし、いつ来るかもわからないが、私たちは確実に100歳くらいまでに死ぬ。半分くらいの人がガンになる。まったく医者にかからず薬も飲まずに70、80歳まで生きられるほうがまれである。


私は、平和や安定の方が怖い。これからあと数十年、なにごともなく人生が平板にすぎていくと思うとゾッとする。

それなのに、人々は万が一のことを心配して、何かあったときのために、と、日常を犠牲にして将来のために生きている。私にはそれが不思議でならない。


そして、それがその人自身の生き方に限られているならよいが、そういう生き方が周囲や、国家とか、大きなくくりで集団でおこなわれていくようになると、もはやその人の生き方だとか主義だとかいうものではなくなってくる。


あなたが死にたくないと思うのは勝手だ。100歳でも200歳までも生きていこうと思うのも勝手だ。だが、あなたが生きて行くためには大勢の人の世話になり、大勢の人に迷惑を掛けなければならない。

災害が来なくても、普通に会社勤めをして暮らしているだけでも、黙って電車に乗って座っているだけでも、隣の人に『この野郎殺してやりたい』と思われることも全然珍しくないのだ。


私は、大災害で犠牲になった人、人生が終わってしまった人をかわいそうだと思うし、死ぬ時は苦しかっただろうとも思うが、何の災害が起きなくても、衣食住に何の不足もなくても、人は悩み苦しむものだということも否定できない。

「生きてるだけでマシじゃないか、何を贅沢を言うんだ。死んだ人や遺族の身になってみろ」と言われるかもしれないが、人の命はそんな単純な、生きてさえいればいいというものではない。


人が死ぬということは悲しいことであると同時に、不思議で、とらえどころのないものでもある。われわれは人が死ぬとその後どうなるかを知らない。わかっているのは死んだ者と生きる者が別れるということだけで、死そのもの、生そのものがどういうものなのか、どんな価値があるのか、価値がないのかもわからない。


「生きてさえいればいい」という考えだけは、私は絶対に陥りたくない。

サンデルの講義を聴いて

サンデルの講義を全部見た。全部というのはNHKで放送した「正義」の全部である。全部で12回くらいだったかな?

リバタリアニズムの批判のあとにはコミュニタリアニズムが語られるが、私にはあまりピンとこなかった。印象的だったのはハーバード大の聴講者達のほとんどが、「自分が所属するより小さなコミュニティに貢献する」ということだった。一人、「われわれが所属している最大の人類というコミュニティにとって何が善であるかが最優先する」と発言した人がいて、これは理想にすぎないとしても、少数派だった。

サンデルはコミュニタリアンであるとされているが、「私はコミュニタリアンで、これこれこういうわけでコミュニタリアンが正しい。功利主義、道徳主義、リバタリアニズムらの欠点をすべておぎなう決定的な主義がコミュニタリアンだ。君達もこの主義を信奉したまえ。」などとは決して言わない。

最後まで、サンデルはあらゆることに関して疑問点を探し、それを反論として提示し、その反論に対する答えを提示するということを繰り返し続けた。

学生達は、「功利主義」「リバタリアニズム」「コミュニタリアニズム」という主義のメニューを見て、それぞれの料理の特徴、長所と短所を考慮して、レストランで注文するように、「私はコミュニタリアニズムにする!」と選択するのではない。また、血液型や星座占いのように、「私は功利主義だ、あたってる」などと言って人々を分類しておもしろがるのでもない。

サンデル教授は最後に、講義の冒頭で話したことを繰り返す。それは、哲学がわれわれが慣れ親しんでいたものを疑わせそこから離れさせる危険性を持っている、ということだ。その慣れ親しんだものというのは、常識とか、正義とか、善、愛国心、などのことだろう。

コミュニタリアンの主張と言うのは、哲学によって敬遠されかねないものに重きを置くものだ。さまざまな哲学者がさまざまな主張をして、短い言葉で多くを、往々にしてすべてを解決しようとするが、それらには必ず反論の余地があった。

気が短い人は、結局唯一絶対の真理などないから個人の正しいと思うことをその都度決断するしかない、と考えるだろう。おそらく現代に生きる人々のほとんどがそうだと思う。だからほとんどの国で民主主義、すなわち多数決による妥協で物事が決められている。民主主義と言うのは善悪の基準の存在の否定である。


私は何が絶対の真理で、こうすれば正解が導きだせて何が善であるかが判定でき幸福になれるというような原理はしらない。しかし、それがあるように思えてしかたがない。私がそう思うだけでなく、誰もが、人類にとっての共通の善のようなものを持っているように見える。それが自然法とか常識とか良心とか理性というものだ。だが、それらの実体は不明確で存在すら疑わしい。

疑わしいものはすべて排除していったら、人はこの世で何も信じられない。何もできない。私は今までずっと、今も、納得できないこと、合理的でないことばかりしてきた。仕事でも、人付き合いでも、合理的に割り切れることの方が少ない。合理的に割り切れることだけで生きていけたらどんなに楽だろう。でも、私は今ではそのような合理主義は間違いであるとほとんど確信している。

われわれが善悪とか自分の行動を選択するときに下す決断が根拠にしているのは決して合理的なものではないとわかってきたのだ。

カント

続いて、カント。

講義はまだ途中で、サンデル氏についても伝聞でしか知らないのだが、おそらく彼がもっとも尊敬しているというか影響を受けているのはカントであろう。

ヘーゲルではない。そこがサンデル氏がただの哲学者ではなく、「コミュニタリアン」であるゆえんである。

ソクラテスについては、最初の方で名前が出てきたが、深くは語られなかった。

私にとっては、カントはソクラテスの生まれ変わりのような存在である。

カントはソクラテスが主張したことを(当時に)現代的に言い直しただけと言ってもよいと思っている。

だが、カントというといつも難解だというイメージがついて回る。今回私が見たビデオでも、終わった後に日本人の大学教授が難解であるとコメントしている。

私はカントを難解だとは思わない。ヘーゲルとか、特に現代思想とよばれるような人々の方が難解である。

カントが難解だと思われるのは、彼が語っていることがその他大勢の哲学者達と全く方向性の異なることであるからにすぎない。

「ソクラテスが難解だ」というのは聞いたことがない。だったら、カントも難解ではないはずだ。


カントの言っていることは、わたしの両親、教師、その他大勢の年長者や先輩が教えてくれた人としての当然守るべきこと歩むべき道とほとんど変わらない、というのが私の理解である。



さて、この講義で「理性」という言葉が繰り返されるが、それは英語で reason である。日本語の「理由」と同じである。

日本語で「理性」というと小難しいが、それが「理由」と同じであると、それがどういうものなのかが身近に感じられるだろう。


あと、私はサンデル氏が紹介した、ある少年がスペルコンテストでスペルを間違ったのに審査員がそれを見逃して優勝した際に、正直に自分のミスを告白したという話で涙が出た。

カントやサンデル氏が言いたいのはそういうことである。

小難しい理屈ではない。哲学とは屁理屈ではない。

命の値段

引き続き「白熱教室」を見る。

次の講義は徴兵制、代理母、精子バンクなどの現実的な、しかしあまり楽しくはない話題だ。

私もあまり内容を把握していないが、ここで、講義でも何度か出てきた「命の値段」について語ってみたい。

私は人の命の値段はそんなに高くないと思っている。

命に値段などつけられないというのは当然だが、あえて値段をつけるなら、という話である。


故意や過失で人を傷つけたり命を奪ったときに、裁判所が賠償命令をだすことがある。

私が覚えているのは、中学校のサッカー部で練習中に落雷にあった生徒がいて、それは事前に予期できたことだとして学校側に賠償命令が出たという事例である。

今調べてみたら、リハビリ費用などで約3億円の賠償が命じられたとのことであった。

落雷で重度の障害を負っているが命までは失っていない人で3億円である。

もし亡くなっていたら、いくらになるのだろうか。


10億、100億、1兆でも足りないという人もいるだろう。なにしろ「かけがえのない命」だから。

私は何でもカネで解決するのは大嫌いで、そういう点に関しての潔癖さは人一倍だと自負しているが、もし私が人の命に値段をつけるとしたら、高くて100万。10万円くらいでもいいかなと思っている。


多分、これは非常に低いだろう。「それはできないけどもしあえて値段をつけるなら」という前提でアンケートをとったら、多分億はくだらないだろうと思う。

でも、私はあえて100万円と言う。それは、人間の価値と言うのは命そのものにあるのではないからだ。人間の価値は生きているだけではゼロに近く、生きて何をするかで決まる。


一人の人間が生きて1年働けば、数百万円は稼ぐ。そして人は100年まではいかなくても数十年生きる。それを考えたら、500万かける20年として1億円。どう考えても100万は安すぎる、というのが普通の考えだろう。


でも、私は命そのものの価値は100万でも高すぎると思うくらいだ。人間の生きる価値はそんな単純なものではない。


私はコミュニタリアンか

「白熱教室」の続きが見つかったので観てみた。

話は無学者にとっつき易い話からだんだん「社会」よりになっていき、功利主義、リバタリアニズムが批判される。その際にジョン・ロックの思想がリバタリアニズムと似ているが非なるものであることが語られる。

私はベンサム、ミル、ロックの書いたまとまったものを読んだことはない。「最大多数の最大幸福」という言葉とか、「ロックの思想がアメリカ独立やフランス革命のよりどころとなった」というような教科書的な知識しかない。


「リバタリアン」という言葉はサンデルが有名になるまで知らなかった。講義の動画の字幕では「自由原理主義」「市場原理主義」という二つの訳語があてられていた。

「市場原理主義」という言葉は、経済の世界の言葉だと思っていたが、それだけにとどまらないようだ。私は経済においては極力自由化するのがよいと考えており、国鉄、NTT、郵便局はもちろん、あらゆる国の機構を民営化する「小さな政府」が望ましいと考えている。

だがそれは経済的なことに限るし、「自身の所有者は自分だから課税は盗みだ」とまでは考えていない。

そして経済、つまり労働やカネというものは必要悪のようなもので、そこには尊い理念とか緻密な原理なども存在せず、太古の奪い合いの世界が少しずつ妥協を積み重ねていって築かれたものだと考えている。だから特定の誰かがそれを管理統制するのは害悪というよりも不可能だと思っている。


講義では政府が市民に課税(など)する根拠についてのロックの考えが説明された。その中で「同意」という言葉が使われていたが、私は社会に参加することに同意した覚えはない。気がついたらそこで生きていかざるを得ない状態であった。講義を聴いている生徒の中にもそういう発言をした人がいた。


私は「超個人主義」とでも訳すべきリベタリアンではなく、「公」というものを重んずべき考えなのでどちらかと言えば「コミュニタリアン」になるのかもしれないが、私が考えている「公」というのは政府とか国家とかいうものも広義には含まれるが、その位置は非常に低い。「国」という枠組みは私にとってはむしろ私的なものに含まれるくらいだ。


「自然法」という考えも出てきた。これも学校の授業で習っただけで普段まったくと言っていいほど考えることのない概念であり、わたしにとってはほとんど「常識」と同義語である。そしてロックは「自然法を侵害する相手は戦うべきだ」というようなことを言っており、英、仏、米でおきた革命はそのような考えにもとづいて行われたか、少なくとも行ったことを正当化した。


確かに横暴な独裁者に立ち向かうことは許されるとは思うが、そこで「自然法」などという概念を持ち出すのは私には屁理屈に思える。だが「自然法」というものが非常にあいまいでもちろん明文化もされておらず、「絶対で万能な答え」ではないので危険な原理主義とはなっていない。


そしてロックは人間が神の創造物であるということを明言していることをサンデルは紹介する。サンデルはそれがロックをリベタリアンではないとする理由のひとつとしたかったのだと思う。リベタリアンというのは神についてどう考えるのだろうか?自分の所有者は自分というのはほとんど無神論なのではないか。

このロックの言葉が、コミュニタリアンとリベタリアンを、真の哲学と懐疑主義を、区別するのではないか。つまり、神のところへ昇っていくか、神を地上にひきずりおろすかの違いである。神に到達することも引きずりおろすことも不可能だが、人間はその誘惑を捨てきれない。思索とはこの誘惑のことである。



というようなことを考えながら講義の動画を観ていた。そしてだんだん、講義を聴いているハーバード大学の生徒達に対する嫉妬や敗北感がわきあがってきた。何をやってもデキそうな優秀そうな面々である。

でも、帽子をかぶっている人、なんか飲んでいる人、ガムを噛んでいる人までいる。それも発言している人が。聴く姿勢もふんぞり返ったり足を組んだり手すりにあごを乗せたり。最近の大学はどうなのかしらないが、少なくとも日本ではガムは論外、帽子も取れと言われるんじゃないかな。

哲学と懐疑主義

マイケル・サンデルの講義のビデオをyoutubeで観た。

観るのは初めてではない。前回観たときには、有名な「トロッコ問題」だけが気になって、「一体どうするのが正しいのか」、あるいは、「なぜ最初の問いでは一人を犠牲にすることが許されると考えるのに二つ目の問いではそうではないのか」ということで頭が一杯になってしまった。

サンデルの講義はその後も続く。もう生徒に議論させることはせずに、彼が一人でしゃべり続ける。ここが非常に重要なところである。「懐疑主義」という言葉が出てくる。


私はこの講義を観て、考えながら寝て、起きて、「トロッコ問題」について意見を述べているブログなどを読んでみた。「この問題自体がおかしい、実際にはこんな選択はありえない」と言う人が何人か見られた。また、「サンデルは疑問を投げかけるだけで答えを言わない(ずるい)。」という人もいた。実は私もある人にそういうことを話したことがある。


しかし、今回気づいたことは、「トロッコ問題」は、正しい選択をすることが重要なのではない、ということだ。二つの問いに対し、多くの人が矛盾するような選択をするというそのこと自体が重要であり、なぜそのような選択をするかを考えることが重要なのである。


サンデル氏は単に「功利主義では解決できない状況がある」ということを言いたかったわけではない。この質問のあとで「Consequencialist」「Categorical」という二つの考え方が示されるが、「帰結主義(功利主義)は万能でないからカントのように絶対的な道徳心に基づき、己がなすべきと命ずることをなせ」と言うのではない。

そんなことを言っているだけならこれほどのブームにならなかっただろう。

そもそも、「トロッコ問題」にはカントでさえ矛盾しない答えを示すことはできないだろう。おそらく、最初の問いでは一人を犠牲にする方を選び、二つ目の問いでは太った男を突き落とさないという答えを選択するだろう。だが、その選択が正しく問題のない行動だと主張することもないだろう。いずれの選択も苦渋の決断である。



マイケル・サンデルは有名になってテレビ放送もされたし本もベストセラーになったが、おそらく多くの人は彼がこの質問の後で話した「懐疑主義」に陥ってしまったのではないだろうか。

サンデルは哲学の危険性を指摘する。哲学は現実離れして思考のための思考に陥る危険性をはらんでいる。そのためにトロッコ問題のように非現実的な答えの出ない問題をいつまでも考えていることは無駄なことだ、というのが懐疑主義だというのである。

そしてカントの「懐疑主義は人間の論理思考の踊り場である、その教義の放浪を省みる場所だが、定住の為の思案場所ではない」という言葉を引用しつつ、懐疑主義を否定する。


私は「懐疑主義」というものを、常識を疑って何でも考え直すことというように理解していたのだが、ここでサンデルが言っている懐疑主義というのはそういうことではなく、「哲学的な思考によって何も解決などできない」と考え、それをしないということだ。


「哲学」「正義」「論理的思考」といったものは、テクニックや知識のことではない。サンデルが教えようとしているのは、トロッコ問題の答えではない。むしろ、答えはないことの方が大事なのだ。

「懐疑主義」は、「絶対で万能の答えなどない」という考えだがそれは実はそれを強く求めていることの裏返しでもある。

そして実は、サンデルの言う「哲学的(論理的)な思考」というのも「絶対で万能の答えなどない」ということを原則にしているのだ。しかし懐疑主義はそこで考えるのをやめてしまうのに対し、答えはなくても考え続けるのが哲学だというのだ。


私は大学で哲学科を選ぼうと本気で考えたことがあってカントも少し読んだが、ある時に哲学への興味を失った。それはサンデルの言う「懐疑主義」におちいったのかもしれない。かんたんに言えば「哲学なんかで答えはでない、哲学なんか詭弁や言葉遊びだ」という考えだった。

私が今までに見てきた「哲学者」と称する人たちはほとんどが思考のための思考をする人であって、「答えがない」ということを確信しつつ、それを必死に求める人たちをあざわらうような人々ばかりだという印象がある。だから「哲学」がきらいになったのである。


サンデルの講義がこの後どうなるのかはしらないが、多分多くの人が納得できるような「答え」は示されないだろう。おそらく、「知的」な人ほど、彼の講義に反発し「懐疑主義」に逃げ込むだろう。そんなふうに予想する。








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