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2013年4月5日金曜日

哲学と懐疑主義

マイケル・サンデルの講義のビデオをyoutubeで観た。

観るのは初めてではない。前回観たときには、有名な「トロッコ問題」だけが気になって、「一体どうするのが正しいのか」、あるいは、「なぜ最初の問いでは一人を犠牲にすることが許されると考えるのに二つ目の問いではそうではないのか」ということで頭が一杯になってしまった。

サンデルの講義はその後も続く。もう生徒に議論させることはせずに、彼が一人でしゃべり続ける。ここが非常に重要なところである。「懐疑主義」という言葉が出てくる。


私はこの講義を観て、考えながら寝て、起きて、「トロッコ問題」について意見を述べているブログなどを読んでみた。「この問題自体がおかしい、実際にはこんな選択はありえない」と言う人が何人か見られた。また、「サンデルは疑問を投げかけるだけで答えを言わない(ずるい)。」という人もいた。実は私もある人にそういうことを話したことがある。


しかし、今回気づいたことは、「トロッコ問題」は、正しい選択をすることが重要なのではない、ということだ。二つの問いに対し、多くの人が矛盾するような選択をするというそのこと自体が重要であり、なぜそのような選択をするかを考えることが重要なのである。


サンデル氏は単に「功利主義では解決できない状況がある」ということを言いたかったわけではない。この質問のあとで「Consequencialist」「Categorical」という二つの考え方が示されるが、「帰結主義(功利主義)は万能でないからカントのように絶対的な道徳心に基づき、己がなすべきと命ずることをなせ」と言うのではない。

そんなことを言っているだけならこれほどのブームにならなかっただろう。

そもそも、「トロッコ問題」にはカントでさえ矛盾しない答えを示すことはできないだろう。おそらく、最初の問いでは一人を犠牲にする方を選び、二つ目の問いでは太った男を突き落とさないという答えを選択するだろう。だが、その選択が正しく問題のない行動だと主張することもないだろう。いずれの選択も苦渋の決断である。



マイケル・サンデルは有名になってテレビ放送もされたし本もベストセラーになったが、おそらく多くの人は彼がこの質問の後で話した「懐疑主義」に陥ってしまったのではないだろうか。

サンデルは哲学の危険性を指摘する。哲学は現実離れして思考のための思考に陥る危険性をはらんでいる。そのためにトロッコ問題のように非現実的な答えの出ない問題をいつまでも考えていることは無駄なことだ、というのが懐疑主義だというのである。

そしてカントの「懐疑主義は人間の論理思考の踊り場である、その教義の放浪を省みる場所だが、定住の為の思案場所ではない」という言葉を引用しつつ、懐疑主義を否定する。


私は「懐疑主義」というものを、常識を疑って何でも考え直すことというように理解していたのだが、ここでサンデルが言っている懐疑主義というのはそういうことではなく、「哲学的な思考によって何も解決などできない」と考え、それをしないということだ。


「哲学」「正義」「論理的思考」といったものは、テクニックや知識のことではない。サンデルが教えようとしているのは、トロッコ問題の答えではない。むしろ、答えはないことの方が大事なのだ。

「懐疑主義」は、「絶対で万能の答えなどない」という考えだがそれは実はそれを強く求めていることの裏返しでもある。

そして実は、サンデルの言う「哲学的(論理的)な思考」というのも「絶対で万能の答えなどない」ということを原則にしているのだ。しかし懐疑主義はそこで考えるのをやめてしまうのに対し、答えはなくても考え続けるのが哲学だというのだ。


私は大学で哲学科を選ぼうと本気で考えたことがあってカントも少し読んだが、ある時に哲学への興味を失った。それはサンデルの言う「懐疑主義」におちいったのかもしれない。かんたんに言えば「哲学なんかで答えはでない、哲学なんか詭弁や言葉遊びだ」という考えだった。

私が今までに見てきた「哲学者」と称する人たちはほとんどが思考のための思考をする人であって、「答えがない」ということを確信しつつ、それを必死に求める人たちをあざわらうような人々ばかりだという印象がある。だから「哲学」がきらいになったのである。


サンデルの講義がこの後どうなるのかはしらないが、多分多くの人が納得できるような「答え」は示されないだろう。おそらく、「知的」な人ほど、彼の講義に反発し「懐疑主義」に逃げ込むだろう。そんなふうに予想する。