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2013年4月5日金曜日

私はコミュニタリアンか

「白熱教室」の続きが見つかったので観てみた。

話は無学者にとっつき易い話からだんだん「社会」よりになっていき、功利主義、リバタリアニズムが批判される。その際にジョン・ロックの思想がリバタリアニズムと似ているが非なるものであることが語られる。

私はベンサム、ミル、ロックの書いたまとまったものを読んだことはない。「最大多数の最大幸福」という言葉とか、「ロックの思想がアメリカ独立やフランス革命のよりどころとなった」というような教科書的な知識しかない。


「リバタリアン」という言葉はサンデルが有名になるまで知らなかった。講義の動画の字幕では「自由原理主義」「市場原理主義」という二つの訳語があてられていた。

「市場原理主義」という言葉は、経済の世界の言葉だと思っていたが、それだけにとどまらないようだ。私は経済においては極力自由化するのがよいと考えており、国鉄、NTT、郵便局はもちろん、あらゆる国の機構を民営化する「小さな政府」が望ましいと考えている。

だがそれは経済的なことに限るし、「自身の所有者は自分だから課税は盗みだ」とまでは考えていない。

そして経済、つまり労働やカネというものは必要悪のようなもので、そこには尊い理念とか緻密な原理なども存在せず、太古の奪い合いの世界が少しずつ妥協を積み重ねていって築かれたものだと考えている。だから特定の誰かがそれを管理統制するのは害悪というよりも不可能だと思っている。


講義では政府が市民に課税(など)する根拠についてのロックの考えが説明された。その中で「同意」という言葉が使われていたが、私は社会に参加することに同意した覚えはない。気がついたらそこで生きていかざるを得ない状態であった。講義を聴いている生徒の中にもそういう発言をした人がいた。


私は「超個人主義」とでも訳すべきリベタリアンではなく、「公」というものを重んずべき考えなのでどちらかと言えば「コミュニタリアン」になるのかもしれないが、私が考えている「公」というのは政府とか国家とかいうものも広義には含まれるが、その位置は非常に低い。「国」という枠組みは私にとってはむしろ私的なものに含まれるくらいだ。


「自然法」という考えも出てきた。これも学校の授業で習っただけで普段まったくと言っていいほど考えることのない概念であり、わたしにとってはほとんど「常識」と同義語である。そしてロックは「自然法を侵害する相手は戦うべきだ」というようなことを言っており、英、仏、米でおきた革命はそのような考えにもとづいて行われたか、少なくとも行ったことを正当化した。


確かに横暴な独裁者に立ち向かうことは許されるとは思うが、そこで「自然法」などという概念を持ち出すのは私には屁理屈に思える。だが「自然法」というものが非常にあいまいでもちろん明文化もされておらず、「絶対で万能な答え」ではないので危険な原理主義とはなっていない。


そしてロックは人間が神の創造物であるということを明言していることをサンデルは紹介する。サンデルはそれがロックをリベタリアンではないとする理由のひとつとしたかったのだと思う。リベタリアンというのは神についてどう考えるのだろうか?自分の所有者は自分というのはほとんど無神論なのではないか。

このロックの言葉が、コミュニタリアンとリベタリアンを、真の哲学と懐疑主義を、区別するのではないか。つまり、神のところへ昇っていくか、神を地上にひきずりおろすかの違いである。神に到達することも引きずりおろすことも不可能だが、人間はその誘惑を捨てきれない。思索とはこの誘惑のことである。



というようなことを考えながら講義の動画を観ていた。そしてだんだん、講義を聴いているハーバード大学の生徒達に対する嫉妬や敗北感がわきあがってきた。何をやってもデキそうな優秀そうな面々である。

でも、帽子をかぶっている人、なんか飲んでいる人、ガムを噛んでいる人までいる。それも発言している人が。聴く姿勢もふんぞり返ったり足を組んだり手すりにあごを乗せたり。最近の大学はどうなのかしらないが、少なくとも日本ではガムは論外、帽子も取れと言われるんじゃないかな。