スキップしてメイン コンテンツに移動

私はコミュニタリアンか

「白熱教室」の続きが見つかったので観てみた。

話は無学者にとっつき易い話からだんだん「社会」よりになっていき、功利主義、リバタリアニズムが批判される。その際にジョン・ロックの思想がリバタリアニズムと似ているが非なるものであることが語られる。

私はベンサム、ミル、ロックの書いたまとまったものを読んだことはない。「最大多数の最大幸福」という言葉とか、「ロックの思想がアメリカ独立やフランス革命のよりどころとなった」というような教科書的な知識しかない。


「リバタリアン」という言葉はサンデルが有名になるまで知らなかった。講義の動画の字幕では「自由原理主義」「市場原理主義」という二つの訳語があてられていた。

「市場原理主義」という言葉は、経済の世界の言葉だと思っていたが、それだけにとどまらないようだ。私は経済においては極力自由化するのがよいと考えており、国鉄、NTT、郵便局はもちろん、あらゆる国の機構を民営化する「小さな政府」が望ましいと考えている。

だがそれは経済的なことに限るし、「自身の所有者は自分だから課税は盗みだ」とまでは考えていない。

そして経済、つまり労働やカネというものは必要悪のようなもので、そこには尊い理念とか緻密な原理なども存在せず、太古の奪い合いの世界が少しずつ妥協を積み重ねていって築かれたものだと考えている。だから特定の誰かがそれを管理統制するのは害悪というよりも不可能だと思っている。


講義では政府が市民に課税(など)する根拠についてのロックの考えが説明された。その中で「同意」という言葉が使われていたが、私は社会に参加することに同意した覚えはない。気がついたらそこで生きていかざるを得ない状態であった。講義を聴いている生徒の中にもそういう発言をした人がいた。


私は「超個人主義」とでも訳すべきリベタリアンではなく、「公」というものを重んずべき考えなのでどちらかと言えば「コミュニタリアン」になるのかもしれないが、私が考えている「公」というのは政府とか国家とかいうものも広義には含まれるが、その位置は非常に低い。「国」という枠組みは私にとってはむしろ私的なものに含まれるくらいだ。


「自然法」という考えも出てきた。これも学校の授業で習っただけで普段まったくと言っていいほど考えることのない概念であり、わたしにとってはほとんど「常識」と同義語である。そしてロックは「自然法を侵害する相手は戦うべきだ」というようなことを言っており、英、仏、米でおきた革命はそのような考えにもとづいて行われたか、少なくとも行ったことを正当化した。


確かに横暴な独裁者に立ち向かうことは許されるとは思うが、そこで「自然法」などという概念を持ち出すのは私には屁理屈に思える。だが「自然法」というものが非常にあいまいでもちろん明文化もされておらず、「絶対で万能な答え」ではないので危険な原理主義とはなっていない。


そしてロックは人間が神の創造物であるということを明言していることをサンデルは紹介する。サンデルはそれがロックをリベタリアンではないとする理由のひとつとしたかったのだと思う。リベタリアンというのは神についてどう考えるのだろうか?自分の所有者は自分というのはほとんど無神論なのではないか。

このロックの言葉が、コミュニタリアンとリベタリアンを、真の哲学と懐疑主義を、区別するのではないか。つまり、神のところへ昇っていくか、神を地上にひきずりおろすかの違いである。神に到達することも引きずりおろすことも不可能だが、人間はその誘惑を捨てきれない。思索とはこの誘惑のことである。



というようなことを考えながら講義の動画を観ていた。そしてだんだん、講義を聴いているハーバード大学の生徒達に対する嫉妬や敗北感がわきあがってきた。何をやってもデキそうな優秀そうな面々である。

でも、帽子をかぶっている人、なんか飲んでいる人、ガムを噛んでいる人までいる。それも発言している人が。聴く姿勢もふんぞり返ったり足を組んだり手すりにあごを乗せたり。最近の大学はどうなのかしらないが、少なくとも日本ではガムは論外、帽子も取れと言われるんじゃないかな。

このブログの人気の投稿

死を望む人の死生観

最近は死にたい気持ちがいっそう募ってきた。単なる慣用句また感動詞としての「死にたい」ではなく、本格的な「希死念慮」という奴である。

そしてまた自殺の方法を調べた。恐怖と苦痛が少なく迷惑もかけない死に方はないか・・・。

すると、2ちゃんねるの自殺未遂体験を語るスレッドが見つかった。
以前にもちょっと眺めたことはあるが、じっくり読んでみた。

多いのは薬物とリストカットと足がつく場所での首吊りだった。
失敗した原因は、同居人のいる自宅で遂行した、電話やメールで知人にほのめかすかあるいははっきり宣言して助けられた、恐怖で自殺を思いとどまった、などである。

共通しているのは、すべて自分が死ぬ覚悟ができていなかった、死ぬ恐怖に打ち勝てなかったということである。

自殺の話になるとまず言われるのは「自殺なんかしてはいけない。命は授かりものだ。」という自殺罪悪説である。それから、「自殺未遂なんて本気で死ぬつもりなどないのだ。死にたいのならとっとと死ね」という未遂に対する罵倒。そして、「何があったの?死ぬ前に誰かに相談すれば?生きてればいいことあるよ」という心配。

「自殺は素晴らしい」という人はまずいない。
だが、非常に潔く動機も生活苦などではない場合はそれが賞賛される場合もある。
乃木稀典とか、三島由紀夫とかである。

私はこの2人の自殺にも興味を持っていろいろと調べてみたが、あまり手放しでは賞賛できないような事実をいくつか知った。そして、2人の死について否定的な考えを表明している有名人も大勢いることを知った。



調べれば調べるほど、自殺というのは限りなく困難なもので、ほとんど不可能に近いと思えてくる。
ロープを用意し、山の中まで行って首を入れるところまでいってもやめてしまう人がいる。
薬の大量服用については、本人の意志に関係なく吐いてしまい、まず成功することがない。

未遂に終わった場合、「二度と自殺なんかしない」という人が多いが、中には「今度こそ」と考える人もいる。実際、自殺に成功した人は何度か未遂を繰り返した人が多いそうである。



私は自殺を試み未遂に終わる人たちがすべて本気で死のうとしていないとは思わない。
彼らは本当に絶望していて、生きることは苦痛以外の何物でもなく、死ぬしかないと思っている。
しかし、いざ死のうとすると苦痛と恐怖で思いとどまってしまう。

思いとどまるときに、たと…

グリーン車で横の席に荷物を置く人

私は常磐線で通勤しているのだが、最近朝がつらくて、
グリーン車に乗ることが多い。

私が乗る駅では、グリーン車は窓際はまず埋まっている。

窓際に人がいる隣の通路側の席に座る。


だが、そこにカバンを置いている人が非常に多い。

私はそれがとても頭にくる。というか、その神経が理解できない。


なぜそんなことができるのだろうか?

私は休日にもグリーン車に乗ることがあるが、

ガラガラでもとなりの席に荷物など置いたことはない。

なぜなら、グリーン車は有料だからだ。


距離によるが、550円とか770円とか、ランチが食べられるくらいの料金だ。


まあ、ガラガラであれば、カバンを置いても、私はしないが、まあ許せる。

でも、通勤ラッシュ時で、上野につくころにはほぼ満席になる常磐線のグリーン車で、

隣の席に荷物を置くのは許せない。

その荷物をつかんで放り投げたくなる気持ちを懸命に抑える。


時々、そういう人にむかって、「すいません」と言って席を空けてもらって座る人がいる。

謝るのは荷物を置いている方だろ!


そういうときに、荷物を置いている人が謝るのを見たことがない。

私は、絶対に謝らない。そこまでして座りたくない。


が、そういう人がいると、顔をじっと見る。

そうすると、だいたいどける。



最近わかってきたのだが、この行動は無神経であるとか気が利かないというのではなく、

隣に人を座らせたくないので故意にやっているようだ。


なんという、利己的な行為だろう。私はそういう行為が本当に嫌いだ。


私も、なるべく隣に人がいない席を選ぶ。隣に人が来て欲しくないという気持ちはわかる。

でも、だからって荷物を置いて座らせないようにするなんてことは絶対にできない。

そんなことまでしたくない。


昨日は、隣の席に荷物を置いて寝ている人に、「すいません」と声をかけている人がいたのだが、

寝ている人は2、3度声をかけられても起きなかった。

多分、気づいているのに起きなかったのだろう。



私は振り返って、その人がどんな顔をしているか見た。

年齢は私よりやや上、50歳前後だ。

上着を着ずにワイシャツとスラックスの、ごく普通のサラリーマン風の男性である。


特にバカそうでもズルそうでもダメ人間でもだらしない感じでもない。

でも、そういうごく普通の人間が、このような利己的な行為をするものなのである。

これは静かなる暴力と言ってもいい。


キンタマを掴まれる

この話はツイッターで言いたかったのだが、どうしても「キンタマ」と書く勇気が出なかったのでこっちに書く。

私は猥談が嫌いだ。
猥談なんかしていたのは高校生まで。
わけあって私は一切猥談をしなくなった。
飲み会でもしない。飲み会でそういう話題になると貝になる。

そして、「キンタマを掴まれる」という言葉には性的な意味はない。
それは常識かもしれないがやっぱりキンタマなどという言葉を口にすることははばかられる。
わたしも「キンタマ」などという言葉を思い出したのは久しぶりで、懐かしささえ感じた。

なんで思い出したかというと、夢の中でキンタマを掴まれたからだ。
その夢では、わたしは背後にぴったりと誰かが張り付いているのを感じていた。
それは見えないし、ぴったりではあるがそっとなので気のせいかなと思うくらいだ。
だが、間違いなく張り付いていると確信した。だが、それを自分で払いのけることはなぜかできない。

そこで、近くにいた知り合いと思われる人に、「ちょっとこれはがしてくれない?」と頼んだ。

それを頼んだときに掴まれたのか、その前から掴まれていたのかわからないが、
その背後にはりついていた何者かがわたしのキンタマを掴んでいた。
とても痛かった。その痛みは鋭いものではなく、鈍く、重いものだった。

そして結局背後にいるものがはがされないまま、目が覚めた。
その目が覚める瞬間に、キンタマの痛みもすーっと消えていった。
そして、わたしは「あ、これは自分が作り出している幻覚にすぎないな」ということがわかった。