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2013年4月7日日曜日

サンデルの講義を聴いて

サンデルの講義を全部見た。全部というのはNHKで放送した「正義」の全部である。全部で12回くらいだったかな?

リバタリアニズムの批判のあとにはコミュニタリアニズムが語られるが、私にはあまりピンとこなかった。印象的だったのはハーバード大の聴講者達のほとんどが、「自分が所属するより小さなコミュニティに貢献する」ということだった。一人、「われわれが所属している最大の人類というコミュニティにとって何が善であるかが最優先する」と発言した人がいて、これは理想にすぎないとしても、少数派だった。

サンデルはコミュニタリアンであるとされているが、「私はコミュニタリアンで、これこれこういうわけでコミュニタリアンが正しい。功利主義、道徳主義、リバタリアニズムらの欠点をすべておぎなう決定的な主義がコミュニタリアンだ。君達もこの主義を信奉したまえ。」などとは決して言わない。

最後まで、サンデルはあらゆることに関して疑問点を探し、それを反論として提示し、その反論に対する答えを提示するということを繰り返し続けた。

学生達は、「功利主義」「リバタリアニズム」「コミュニタリアニズム」という主義のメニューを見て、それぞれの料理の特徴、長所と短所を考慮して、レストランで注文するように、「私はコミュニタリアニズムにする!」と選択するのではない。また、血液型や星座占いのように、「私は功利主義だ、あたってる」などと言って人々を分類しておもしろがるのでもない。

サンデル教授は最後に、講義の冒頭で話したことを繰り返す。それは、哲学がわれわれが慣れ親しんでいたものを疑わせそこから離れさせる危険性を持っている、ということだ。その慣れ親しんだものというのは、常識とか、正義とか、善、愛国心、などのことだろう。

コミュニタリアンの主張と言うのは、哲学によって敬遠されかねないものに重きを置くものだ。さまざまな哲学者がさまざまな主張をして、短い言葉で多くを、往々にしてすべてを解決しようとするが、それらには必ず反論の余地があった。

気が短い人は、結局唯一絶対の真理などないから個人の正しいと思うことをその都度決断するしかない、と考えるだろう。おそらく現代に生きる人々のほとんどがそうだと思う。だからほとんどの国で民主主義、すなわち多数決による妥協で物事が決められている。民主主義と言うのは善悪の基準の存在の否定である。


私は何が絶対の真理で、こうすれば正解が導きだせて何が善であるかが判定でき幸福になれるというような原理はしらない。しかし、それがあるように思えてしかたがない。私がそう思うだけでなく、誰もが、人類にとっての共通の善のようなものを持っているように見える。それが自然法とか常識とか良心とか理性というものだ。だが、それらの実体は不明確で存在すら疑わしい。

疑わしいものはすべて排除していったら、人はこの世で何も信じられない。何もできない。私は今までずっと、今も、納得できないこと、合理的でないことばかりしてきた。仕事でも、人付き合いでも、合理的に割り切れることの方が少ない。合理的に割り切れることだけで生きていけたらどんなに楽だろう。でも、私は今ではそのような合理主義は間違いであるとほとんど確信している。

われわれが善悪とか自分の行動を選択するときに下す決断が根拠にしているのは決して合理的なものではないとわかってきたのだ。