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サンデルの講義を聴いて

サンデルの講義を全部見た。全部というのはNHKで放送した「正義」の全部である。全部で12回くらいだったかな?

リバタリアニズムの批判のあとにはコミュニタリアニズムが語られるが、私にはあまりピンとこなかった。印象的だったのはハーバード大の聴講者達のほとんどが、「自分が所属するより小さなコミュニティに貢献する」ということだった。一人、「われわれが所属している最大の人類というコミュニティにとって何が善であるかが最優先する」と発言した人がいて、これは理想にすぎないとしても、少数派だった。

サンデルはコミュニタリアンであるとされているが、「私はコミュニタリアンで、これこれこういうわけでコミュニタリアンが正しい。功利主義、道徳主義、リバタリアニズムらの欠点をすべておぎなう決定的な主義がコミュニタリアンだ。君達もこの主義を信奉したまえ。」などとは決して言わない。

最後まで、サンデルはあらゆることに関して疑問点を探し、それを反論として提示し、その反論に対する答えを提示するということを繰り返し続けた。

学生達は、「功利主義」「リバタリアニズム」「コミュニタリアニズム」という主義のメニューを見て、それぞれの料理の特徴、長所と短所を考慮して、レストランで注文するように、「私はコミュニタリアニズムにする!」と選択するのではない。また、血液型や星座占いのように、「私は功利主義だ、あたってる」などと言って人々を分類しておもしろがるのでもない。

サンデル教授は最後に、講義の冒頭で話したことを繰り返す。それは、哲学がわれわれが慣れ親しんでいたものを疑わせそこから離れさせる危険性を持っている、ということだ。その慣れ親しんだものというのは、常識とか、正義とか、善、愛国心、などのことだろう。

コミュニタリアンの主張と言うのは、哲学によって敬遠されかねないものに重きを置くものだ。さまざまな哲学者がさまざまな主張をして、短い言葉で多くを、往々にしてすべてを解決しようとするが、それらには必ず反論の余地があった。

気が短い人は、結局唯一絶対の真理などないから個人の正しいと思うことをその都度決断するしかない、と考えるだろう。おそらく現代に生きる人々のほとんどがそうだと思う。だからほとんどの国で民主主義、すなわち多数決による妥協で物事が決められている。民主主義と言うのは善悪の基準の存在の否定である。


私は何が絶対の真理で、こうすれば正解が導きだせて何が善であるかが判定でき幸福になれるというような原理はしらない。しかし、それがあるように思えてしかたがない。私がそう思うだけでなく、誰もが、人類にとっての共通の善のようなものを持っているように見える。それが自然法とか常識とか良心とか理性というものだ。だが、それらの実体は不明確で存在すら疑わしい。

疑わしいものはすべて排除していったら、人はこの世で何も信じられない。何もできない。私は今までずっと、今も、納得できないこと、合理的でないことばかりしてきた。仕事でも、人付き合いでも、合理的に割り切れることの方が少ない。合理的に割り切れることだけで生きていけたらどんなに楽だろう。でも、私は今ではそのような合理主義は間違いであるとほとんど確信している。

われわれが善悪とか自分の行動を選択するときに下す決断が根拠にしているのは決して合理的なものではないとわかってきたのだ。

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死を望む人の死生観

最近は死にたい気持ちがいっそう募ってきた。単なる慣用句また感動詞としての「死にたい」ではなく、本格的な「希死念慮」という奴である。

そしてまた自殺の方法を調べた。恐怖と苦痛が少なく迷惑もかけない死に方はないか・・・。

すると、2ちゃんねるの自殺未遂体験を語るスレッドが見つかった。
以前にもちょっと眺めたことはあるが、じっくり読んでみた。

多いのは薬物とリストカットと足がつく場所での首吊りだった。
失敗した原因は、同居人のいる自宅で遂行した、電話やメールで知人にほのめかすかあるいははっきり宣言して助けられた、恐怖で自殺を思いとどまった、などである。

共通しているのは、すべて自分が死ぬ覚悟ができていなかった、死ぬ恐怖に打ち勝てなかったということである。

自殺の話になるとまず言われるのは「自殺なんかしてはいけない。命は授かりものだ。」という自殺罪悪説である。それから、「自殺未遂なんて本気で死ぬつもりなどないのだ。死にたいのならとっとと死ね」という未遂に対する罵倒。そして、「何があったの?死ぬ前に誰かに相談すれば?生きてればいいことあるよ」という心配。

「自殺は素晴らしい」という人はまずいない。
だが、非常に潔く動機も生活苦などではない場合はそれが賞賛される場合もある。
乃木稀典とか、三島由紀夫とかである。

私はこの2人の自殺にも興味を持っていろいろと調べてみたが、あまり手放しでは賞賛できないような事実をいくつか知った。そして、2人の死について否定的な考えを表明している有名人も大勢いることを知った。



調べれば調べるほど、自殺というのは限りなく困難なもので、ほとんど不可能に近いと思えてくる。
ロープを用意し、山の中まで行って首を入れるところまでいってもやめてしまう人がいる。
薬の大量服用については、本人の意志に関係なく吐いてしまい、まず成功することがない。

未遂に終わった場合、「二度と自殺なんかしない」という人が多いが、中には「今度こそ」と考える人もいる。実際、自殺に成功した人は何度か未遂を繰り返した人が多いそうである。



私は自殺を試み未遂に終わる人たちがすべて本気で死のうとしていないとは思わない。
彼らは本当に絶望していて、生きることは苦痛以外の何物でもなく、死ぬしかないと思っている。
しかし、いざ死のうとすると苦痛と恐怖で思いとどまってしまう。

思いとどまるときに、たと…

グリーン車で横の席に荷物を置く人

私は常磐線で通勤しているのだが、最近朝がつらくて、
グリーン車に乗ることが多い。

私が乗る駅では、グリーン車は窓際はまず埋まっている。

窓際に人がいる隣の通路側の席に座る。


だが、そこにカバンを置いている人が非常に多い。

私はそれがとても頭にくる。というか、その神経が理解できない。


なぜそんなことができるのだろうか?

私は休日にもグリーン車に乗ることがあるが、

ガラガラでもとなりの席に荷物など置いたことはない。

なぜなら、グリーン車は有料だからだ。


距離によるが、550円とか770円とか、ランチが食べられるくらいの料金だ。


まあ、ガラガラであれば、カバンを置いても、私はしないが、まあ許せる。

でも、通勤ラッシュ時で、上野につくころにはほぼ満席になる常磐線のグリーン車で、

隣の席に荷物を置くのは許せない。

その荷物をつかんで放り投げたくなる気持ちを懸命に抑える。


時々、そういう人にむかって、「すいません」と言って席を空けてもらって座る人がいる。

謝るのは荷物を置いている方だろ!


そういうときに、荷物を置いている人が謝るのを見たことがない。

私は、絶対に謝らない。そこまでして座りたくない。


が、そういう人がいると、顔をじっと見る。

そうすると、だいたいどける。



最近わかってきたのだが、この行動は無神経であるとか気が利かないというのではなく、

隣に人を座らせたくないので故意にやっているようだ。


なんという、利己的な行為だろう。私はそういう行為が本当に嫌いだ。


私も、なるべく隣に人がいない席を選ぶ。隣に人が来て欲しくないという気持ちはわかる。

でも、だからって荷物を置いて座らせないようにするなんてことは絶対にできない。

そんなことまでしたくない。


昨日は、隣の席に荷物を置いて寝ている人に、「すいません」と声をかけている人がいたのだが、

寝ている人は2、3度声をかけられても起きなかった。

多分、気づいているのに起きなかったのだろう。



私は振り返って、その人がどんな顔をしているか見た。

年齢は私よりやや上、50歳前後だ。

上着を着ずにワイシャツとスラックスの、ごく普通のサラリーマン風の男性である。


特にバカそうでもズルそうでもダメ人間でもだらしない感じでもない。

でも、そういうごく普通の人間が、このような利己的な行為をするものなのである。

これは静かなる暴力と言ってもいい。


キンタマを掴まれる

この話はツイッターで言いたかったのだが、どうしても「キンタマ」と書く勇気が出なかったのでこっちに書く。

私は猥談が嫌いだ。
猥談なんかしていたのは高校生まで。
わけあって私は一切猥談をしなくなった。
飲み会でもしない。飲み会でそういう話題になると貝になる。

そして、「キンタマを掴まれる」という言葉には性的な意味はない。
それは常識かもしれないがやっぱりキンタマなどという言葉を口にすることははばかられる。
わたしも「キンタマ」などという言葉を思い出したのは久しぶりで、懐かしささえ感じた。

なんで思い出したかというと、夢の中でキンタマを掴まれたからだ。
その夢では、わたしは背後にぴったりと誰かが張り付いているのを感じていた。
それは見えないし、ぴったりではあるがそっとなので気のせいかなと思うくらいだ。
だが、間違いなく張り付いていると確信した。だが、それを自分で払いのけることはなぜかできない。

そこで、近くにいた知り合いと思われる人に、「ちょっとこれはがしてくれない?」と頼んだ。

それを頼んだときに掴まれたのか、その前から掴まれていたのかわからないが、
その背後にはりついていた何者かがわたしのキンタマを掴んでいた。
とても痛かった。その痛みは鋭いものではなく、鈍く、重いものだった。

そして結局背後にいるものがはがされないまま、目が覚めた。
その目が覚める瞬間に、キンタマの痛みもすーっと消えていった。
そして、わたしは「あ、これは自分が作り出している幻覚にすぎないな」ということがわかった。