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7月, 2013の投稿を表示しています

胸の痛み

また胸が痛んだ。胸の奥の上の方から喉、あごにかけたあたりが痛む。
やはり寝ている時である。
寒い時になることが多かったのだが、裸でパンツ一枚で寝ていた。
エアコンをつけていて冷えすぎたのだろうか。

今回は痛みがなかなか収まらなかった。
時間は見ていないが、20分くらい痛んでいたのではないだろうか。
うつぶせになっても、横を向いても、起き上がってもなおらない。

蒲団をかぶってしばらくしたら、やっと収まった。

彼の名

私は今まで、聖書に登場する十字架につけられて救世主とされた人のことを「イエス」と呼んでいた。

一般的には「キリスト」と呼ばれることが多いように思う。

私は、「キリスト」というのは救世主という意味で名前ではないからキリストと呼ぶのは不適切だと思い、「イエス」という名で呼んでいた。

だが、最近、彼を「イエス」と呼ぶほうがふさわしくない様に思えてきた。


彼を「イエス」と呼ぶことは、ペテロとかパウロとか、カエサルとか、ソクラテスとか、ナポレオンとか、そういう人間達と同列に見なすことになる。


彼を「キリスト」と呼んでいる人たちの多くは、そんなことは考えておらず、単に皆がキリストというからキリストと呼んでいるだけであろうが、その呼び方がやっぱり正しいのではないかと思い始めた。


最近、twitterで、クリスチャンの人たちをたくさんフォローしたのだが、彼らは皆「イエス」あるいは「イエス様」と呼んでいる。「キリスト」という呼び方はどこかよそよそしいのだろう。名前で呼ぶのは愛着あるいは熱心さの表れであるのかもしれない。


私はいわゆるクリスチャンではないが、神の存在を信じているし、イエスが救世主であることも信じている。だったらクリスチャンではないか、と自分でも思うのだが、どこどこ教会でいつ洗礼を受けた、とは言えないので、クリスチャンではないということにしている。


クリスチャン達と話したこともある。おどろくべきことに、聖書を読んだことがないという人さえいた。それでも、その人は「わたしはクリスチャンです」と、その時初対面だった私に、堂々と言えるのである。

だから私は、「クリスチャンかどうか」ということにはあまり重要な意味はないのだと考えている。

むしろ、クリスチャンたちの信仰のいい加減さを警戒している。



わたしが一番警戒し、軽蔑もしていることは、理性や合理性に対する全面的な信頼である。私にいわせればそれこそ狂信であり思考停止だと思うのだが、彼らにとっては信仰というものは理性を失った愚か者のすることである。


ただ私は、だからといって、イエスは処女降誕で生まれた、十字架について3日後に甦った、それで人類は救われた、メデタシメデタシ、と単純に納得しているわけではない。


信じられないようなことばかりだけれど、何かわけがあるのだろう、これだけ長い年月の間長い人々によって言い伝えられてきたことがまっ…