ad

2013年7月29日月曜日

彼の名

私は今まで、聖書に登場する十字架につけられて救世主とされた人のことを「イエス」と呼んでいた。

一般的には「キリスト」と呼ばれることが多いように思う。

私は、「キリスト」というのは救世主という意味で名前ではないからキリストと呼ぶのは不適切だと思い、「イエス」という名で呼んでいた。

だが、最近、彼を「イエス」と呼ぶほうがふさわしくない様に思えてきた。


彼を「イエス」と呼ぶことは、ペテロとかパウロとか、カエサルとか、ソクラテスとか、ナポレオンとか、そういう人間達と同列に見なすことになる。


彼を「キリスト」と呼んでいる人たちの多くは、そんなことは考えておらず、単に皆がキリストというからキリストと呼んでいるだけであろうが、その呼び方がやっぱり正しいのではないかと思い始めた。


最近、twitterで、クリスチャンの人たちをたくさんフォローしたのだが、彼らは皆「イエス」あるいは「イエス様」と呼んでいる。「キリスト」という呼び方はどこかよそよそしいのだろう。名前で呼ぶのは愛着あるいは熱心さの表れであるのかもしれない。


私はいわゆるクリスチャンではないが、神の存在を信じているし、イエスが救世主であることも信じている。だったらクリスチャンではないか、と自分でも思うのだが、どこどこ教会でいつ洗礼を受けた、とは言えないので、クリスチャンではないということにしている。


クリスチャン達と話したこともある。おどろくべきことに、聖書を読んだことがないという人さえいた。それでも、その人は「わたしはクリスチャンです」と、その時初対面だった私に、堂々と言えるのである。

だから私は、「クリスチャンかどうか」ということにはあまり重要な意味はないのだと考えている。

むしろ、クリスチャンたちの信仰のいい加減さを警戒している。



わたしが一番警戒し、軽蔑もしていることは、理性や合理性に対する全面的な信頼である。私にいわせればそれこそ狂信であり思考停止だと思うのだが、彼らにとっては信仰というものは理性を失った愚か者のすることである。


ただ私は、だからといって、イエスは処女降誕で生まれた、十字架について3日後に甦った、それで人類は救われた、メデタシメデタシ、と単純に納得しているわけではない。


信じられないようなことばかりだけれど、何かわけがあるのだろう、これだけ長い年月の間長い人々によって言い伝えられてきたことがまったくのデタラメや作り話のはずがない、と思うのだ。


よく、宗教の信者や、それに好意的な人が、自分の信仰や奇跡と呼ばれる現象が事実であるとか、科学的に証明できるということを言おうとすることがある。

その気持ちはわからなくはないが、無駄なことだと思う。


そういう人は信仰(宗教)と科学は車輪の両輪だ、みたいなことを考えているのかもしれない。科学者の中にもそういう人がいる。

だがそれは、穏当な、平和的な考えのように見えて、実は科学も宗教も冒涜する考えではないかと思うことがある。


聖書を読んでいると、科学なんかすべてどうでもよい、人間の理性など信頼できない、と思うことがある。

一方、不可解な現象を科学的に説明されると、おばけも神も宗教も全部人間の無知から生まれるのだ、と思う。


それらをバランスよく使い分けるなどということは私にはできない。


イエスは人間なのか、神なのか。

それには諸説あって、今でも、クリスチャンの中でも意見は一致しないだろう。

人間である、人間でもあり神でもある、神の子である、人間として生まれたが神になった、など。


だが、いずれにしても彼は普通の人間ではない。

「イエス」と呼ぶのは少し客観的すぎるか、もしくは人としてのイエスにこだわりすぎに思う。

だから、私は彼を「イエス」と呼ぶことに躊躇する。


「人の子」「主」などという言い方もあるが、それらもしっくり来ないな・・・