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彼の名

私は今まで、聖書に登場する十字架につけられて救世主とされた人のことを「イエス」と呼んでいた。

一般的には「キリスト」と呼ばれることが多いように思う。

私は、「キリスト」というのは救世主という意味で名前ではないからキリストと呼ぶのは不適切だと思い、「イエス」という名で呼んでいた。

だが、最近、彼を「イエス」と呼ぶほうがふさわしくない様に思えてきた。


彼を「イエス」と呼ぶことは、ペテロとかパウロとか、カエサルとか、ソクラテスとか、ナポレオンとか、そういう人間達と同列に見なすことになる。


彼を「キリスト」と呼んでいる人たちの多くは、そんなことは考えておらず、単に皆がキリストというからキリストと呼んでいるだけであろうが、その呼び方がやっぱり正しいのではないかと思い始めた。


最近、twitterで、クリスチャンの人たちをたくさんフォローしたのだが、彼らは皆「イエス」あるいは「イエス様」と呼んでいる。「キリスト」という呼び方はどこかよそよそしいのだろう。名前で呼ぶのは愛着あるいは熱心さの表れであるのかもしれない。


私はいわゆるクリスチャンではないが、神の存在を信じているし、イエスが救世主であることも信じている。だったらクリスチャンではないか、と自分でも思うのだが、どこどこ教会でいつ洗礼を受けた、とは言えないので、クリスチャンではないということにしている。


クリスチャン達と話したこともある。おどろくべきことに、聖書を読んだことがないという人さえいた。それでも、その人は「わたしはクリスチャンです」と、その時初対面だった私に、堂々と言えるのである。

だから私は、「クリスチャンかどうか」ということにはあまり重要な意味はないのだと考えている。

むしろ、クリスチャンたちの信仰のいい加減さを警戒している。



わたしが一番警戒し、軽蔑もしていることは、理性や合理性に対する全面的な信頼である。私にいわせればそれこそ狂信であり思考停止だと思うのだが、彼らにとっては信仰というものは理性を失った愚か者のすることである。


ただ私は、だからといって、イエスは処女降誕で生まれた、十字架について3日後に甦った、それで人類は救われた、メデタシメデタシ、と単純に納得しているわけではない。


信じられないようなことばかりだけれど、何かわけがあるのだろう、これだけ長い年月の間長い人々によって言い伝えられてきたことがまったくのデタラメや作り話のはずがない、と思うのだ。


よく、宗教の信者や、それに好意的な人が、自分の信仰や奇跡と呼ばれる現象が事実であるとか、科学的に証明できるということを言おうとすることがある。

その気持ちはわからなくはないが、無駄なことだと思う。


そういう人は信仰(宗教)と科学は車輪の両輪だ、みたいなことを考えているのかもしれない。科学者の中にもそういう人がいる。

だがそれは、穏当な、平和的な考えのように見えて、実は科学も宗教も冒涜する考えではないかと思うことがある。


聖書を読んでいると、科学なんかすべてどうでもよい、人間の理性など信頼できない、と思うことがある。

一方、不可解な現象を科学的に説明されると、おばけも神も宗教も全部人間の無知から生まれるのだ、と思う。


それらをバランスよく使い分けるなどということは私にはできない。


イエスは人間なのか、神なのか。

それには諸説あって、今でも、クリスチャンの中でも意見は一致しないだろう。

人間である、人間でもあり神でもある、神の子である、人間として生まれたが神になった、など。


だが、いずれにしても彼は普通の人間ではない。

「イエス」と呼ぶのは少し客観的すぎるか、もしくは人としてのイエスにこだわりすぎに思う。

だから、私は彼を「イエス」と呼ぶことに躊躇する。


「人の子」「主」などという言い方もあるが、それらもしっくり来ないな・・・

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死を望む人の死生観

最近は死にたい気持ちがいっそう募ってきた。単なる慣用句また感動詞としての「死にたい」ではなく、本格的な「希死念慮」という奴である。

そしてまた自殺の方法を調べた。恐怖と苦痛が少なく迷惑もかけない死に方はないか・・・。

すると、2ちゃんねるの自殺未遂体験を語るスレッドが見つかった。
以前にもちょっと眺めたことはあるが、じっくり読んでみた。

多いのは薬物とリストカットと足がつく場所での首吊りだった。
失敗した原因は、同居人のいる自宅で遂行した、電話やメールで知人にほのめかすかあるいははっきり宣言して助けられた、恐怖で自殺を思いとどまった、などである。

共通しているのは、すべて自分が死ぬ覚悟ができていなかった、死ぬ恐怖に打ち勝てなかったということである。

自殺の話になるとまず言われるのは「自殺なんかしてはいけない。命は授かりものだ。」という自殺罪悪説である。それから、「自殺未遂なんて本気で死ぬつもりなどないのだ。死にたいのならとっとと死ね」という未遂に対する罵倒。そして、「何があったの?死ぬ前に誰かに相談すれば?生きてればいいことあるよ」という心配。

「自殺は素晴らしい」という人はまずいない。
だが、非常に潔く動機も生活苦などではない場合はそれが賞賛される場合もある。
乃木稀典とか、三島由紀夫とかである。

私はこの2人の自殺にも興味を持っていろいろと調べてみたが、あまり手放しでは賞賛できないような事実をいくつか知った。そして、2人の死について否定的な考えを表明している有名人も大勢いることを知った。



調べれば調べるほど、自殺というのは限りなく困難なもので、ほとんど不可能に近いと思えてくる。
ロープを用意し、山の中まで行って首を入れるところまでいってもやめてしまう人がいる。
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未遂に終わった場合、「二度と自殺なんかしない」という人が多いが、中には「今度こそ」と考える人もいる。実際、自殺に成功した人は何度か未遂を繰り返した人が多いそうである。



私は自殺を試み未遂に終わる人たちがすべて本気で死のうとしていないとは思わない。
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しかし、いざ死のうとすると苦痛と恐怖で思いとどまってしまう。

思いとどまるときに、たと…

グリーン車で横の席に荷物を置く人

私は常磐線で通勤しているのだが、最近朝がつらくて、
グリーン車に乗ることが多い。

私が乗る駅では、グリーン車は窓際はまず埋まっている。

窓際に人がいる隣の通路側の席に座る。


だが、そこにカバンを置いている人が非常に多い。

私はそれがとても頭にくる。というか、その神経が理解できない。


なぜそんなことができるのだろうか?

私は休日にもグリーン車に乗ることがあるが、

ガラガラでもとなりの席に荷物など置いたことはない。

なぜなら、グリーン車は有料だからだ。


距離によるが、550円とか770円とか、ランチが食べられるくらいの料金だ。


まあ、ガラガラであれば、カバンを置いても、私はしないが、まあ許せる。

でも、通勤ラッシュ時で、上野につくころにはほぼ満席になる常磐線のグリーン車で、

隣の席に荷物を置くのは許せない。

その荷物をつかんで放り投げたくなる気持ちを懸命に抑える。


時々、そういう人にむかって、「すいません」と言って席を空けてもらって座る人がいる。

謝るのは荷物を置いている方だろ!


そういうときに、荷物を置いている人が謝るのを見たことがない。

私は、絶対に謝らない。そこまでして座りたくない。


が、そういう人がいると、顔をじっと見る。

そうすると、だいたいどける。



最近わかってきたのだが、この行動は無神経であるとか気が利かないというのではなく、

隣に人を座らせたくないので故意にやっているようだ。


なんという、利己的な行為だろう。私はそういう行為が本当に嫌いだ。


私も、なるべく隣に人がいない席を選ぶ。隣に人が来て欲しくないという気持ちはわかる。

でも、だからって荷物を置いて座らせないようにするなんてことは絶対にできない。

そんなことまでしたくない。


昨日は、隣の席に荷物を置いて寝ている人に、「すいません」と声をかけている人がいたのだが、

寝ている人は2、3度声をかけられても起きなかった。

多分、気づいているのに起きなかったのだろう。



私は振り返って、その人がどんな顔をしているか見た。

年齢は私よりやや上、50歳前後だ。

上着を着ずにワイシャツとスラックスの、ごく普通のサラリーマン風の男性である。


特にバカそうでもズルそうでもダメ人間でもだらしない感じでもない。

でも、そういうごく普通の人間が、このような利己的な行為をするものなのである。

これは静かなる暴力と言ってもいい。


キンタマを掴まれる

この話はツイッターで言いたかったのだが、どうしても「キンタマ」と書く勇気が出なかったのでこっちに書く。

私は猥談が嫌いだ。
猥談なんかしていたのは高校生まで。
わけあって私は一切猥談をしなくなった。
飲み会でもしない。飲み会でそういう話題になると貝になる。

そして、「キンタマを掴まれる」という言葉には性的な意味はない。
それは常識かもしれないがやっぱりキンタマなどという言葉を口にすることははばかられる。
わたしも「キンタマ」などという言葉を思い出したのは久しぶりで、懐かしささえ感じた。

なんで思い出したかというと、夢の中でキンタマを掴まれたからだ。
その夢では、わたしは背後にぴったりと誰かが張り付いているのを感じていた。
それは見えないし、ぴったりではあるがそっとなので気のせいかなと思うくらいだ。
だが、間違いなく張り付いていると確信した。だが、それを自分で払いのけることはなぜかできない。

そこで、近くにいた知り合いと思われる人に、「ちょっとこれはがしてくれない?」と頼んだ。

それを頼んだときに掴まれたのか、その前から掴まれていたのかわからないが、
その背後にはりついていた何者かがわたしのキンタマを掴んでいた。
とても痛かった。その痛みは鋭いものではなく、鈍く、重いものだった。

そして結局背後にいるものがはがされないまま、目が覚めた。
その目が覚める瞬間に、キンタマの痛みもすーっと消えていった。
そして、わたしは「あ、これは自分が作り出している幻覚にすぎないな」ということがわかった。