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2013年10月27日日曜日

なぜ人を殺してはいけないのか

「なぜ人を殺してはいけないのか」という疑問が話題になったのは、確か10年かもっと前、少年による殺人事件が続けて起こった頃だったと記憶している。

その時は、誰も明確な答えは出せていなかった。ノーベル賞をとった有名な作家が「そんなことを聞くこと自体が失礼だ」みたいなことを言っていて、『そんなことしか言えないのか』と思った記憶がある。


最近、私は非常に「ルール」の厳しい職場で働き始めた。何かをするときに作成する書類のフォーマット、メールの出し方、印刷する時の方法、何から何までルールがあって息がつまりそうである。しかし、それらのルールは絶対守らねばならないものかというとそうでもなく、いざという時には「それは別にいいや」「本当はダメなんだけど、今回はしかたないね」などと、ルールが無視されることも多い。


そんな日々が続くうちに、ルールってなんだろう?と思い始め、そしてルールの代表である法律について考え始めた。

法律とはなんだろうか?厳密な定義ではなく、ざっくばらんに、子供が親に聞くように「法律ってなんですか?どういうものですか?なんのためにあるものですか?」と聞いたら、どういう答えが返ってくるだろうか。

おそらく、「人々が守らなければならないきまり」という答えが多いのではないだろうか。

私もそう思っていた。そして、それでいいとも思う。そういう考えで暮らしていってなんの問題もないと思う。

だが、私は気づいたのだ。「法律とは守らなければならないものでは、ない」と。


一番わかりやすいと思うので、殺人についての法律の条文を例にあげる。

刑法第199条である。

人を殺した者は、死刑又は無期若しくは5年以上の懲役に処する。

ここには、「人を殺してはならない」とは書いていない。極端な解釈をすれば、「死刑になる覚悟があるなら殺人をしてもいい」と言っているとさえ言える。


窃盗については、刑法第235条である。

他人の財物を窃取した者は、窃盗の罪とし、10年以下の懲役又は50万円以下の罰金に処する。

ここにも、「盗んではいけない」とは書いていない。


一方、労働基準法は以下のように書かれている。

第4章 労働時間、休憩、休日及び年次有給休暇 
第32条 使用者は、労働者に、休憩時間を除き1週間について40時間を超えて、労働させてはならない。
2 使用者は、1週間の各日については、労働者に、休憩時間を除き1日について8時間を超えて、労働させてはならない。

ここでは「労働させてはならない」と、明確に禁止されている。しかし、これに違反したからどうなる、ということは書かれていない。




殺人・窃盗と労働時間についての条文の違いは、単に罰則の規程の有無ではない。

ここには、「善悪の基準とは何か」ということのヒントというか答えが示されている。



どうして刑法では、労働基準法のように「人を殺してはならない」「他人の財物を窃取してはならない」と禁止事項として書かれなかったのだろうか?


ただ、「ダメだ」と書いただけで罰則がないと効力がないと考えたとしても、「人を殺してはならない。もし殺したら死刑または・・・に処する」とすればよいではないか。

法律制定者は、「人を殺してはならない」という禁止事項としての書き方をしなかったのは、いけないことであるのは当然だとか死刑になるのだから禁止であることは明白だと考えて省略したのだろうか?


私はこのあたりまで考えて、気づいた。そもそも法律というものは、法律などというものは、人間の悪や罪を根絶しようなどという高邁な理想に基づくものではないのだ。

法律はただ、ある国とか民族を治めるためにはりめぐらす柵のようなものにすぎない。

その柵を越えたら崖下に転落するか、野獣に食われるかである。



ここまでは、ちょっとひねくれた人なら考えることで、「だから人間にしてはいけないことなどない、すべては自由だ、法律など為政者や権力者が大衆を統治するための道具にすぎない。」と考えるひともいるだろう。


しかし、私はそうは考えない。人間にはしてよいことと悪いことがある。善悪の基準は厳として存在する。

しかし、それは法律ではない。むしろ、法律は善悪の基準の存在を否定するあるいは善悪の基準の明文化の放棄の宣言である。



「殺すな」と書いて罰則をもうけなければ効力はない。

「殺したら死刑」と書けば、殺すことは悪であることが明示されない。



私は、法律家が「殺したら死刑」と書いたのは正しいことだっだと思う。法律には人を殺すことが悪である、などということを宣言する資格はない。それほどの大層なものではない。単なるルール、柵にすぎない。


だからといって、繰り返すが、人は何をしても許されるものではない。人にはすべきこと、してはならないことがある。それは厳として存在する。

しかし、それは明文化されていない。むしろ、明文化されていないからこそ、守るべきことなのである。守るべきことは明文化すべきではないのである。



私がこのような考えに至ったのは、自力によるのではない。


ガラテヤ人への手紙の、以下のあたりが頭にあったからである。

いったい、律法の行いによる者は、皆のろいの下にある。「律法の書に書いてあるいっさいのことを守らず、これを行わない者は、皆のろわれる」と書いてあるからである。  そこで、律法によっては、神のみまえに義とされる者はひとりもないことが、明らかである。なぜなら、「信仰による義人は生きる」からである。  律法は信仰に基いているものではない。かえって、「律法を行う者は律法によって生きる」のである。  キリストは、わたしたちのためにのろいとなって、わたしたちを律法ののろいからあがない出して下さった。聖書に、「木にかけられる者は、すべてのろわれる」と書いてある。(3:10-13)