スキップしてメイン コンテンツに移動

なぜ人を殺してはいけないのか

「なぜ人を殺してはいけないのか」という疑問が話題になったのは、確か10年かもっと前、少年による殺人事件が続けて起こった頃だったと記憶している。

その時は、誰も明確な答えは出せていなかった。ノーベル賞をとった有名な作家が「そんなことを聞くこと自体が失礼だ」みたいなことを言っていて、『そんなことしか言えないのか』と思った記憶がある。


最近、私は非常に「ルール」の厳しい職場で働き始めた。何かをするときに作成する書類のフォーマット、メールの出し方、印刷する時の方法、何から何までルールがあって息がつまりそうである。しかし、それらのルールは絶対守らねばならないものかというとそうでもなく、いざという時には「それは別にいいや」「本当はダメなんだけど、今回はしかたないね」などと、ルールが無視されることも多い。


そんな日々が続くうちに、ルールってなんだろう?と思い始め、そしてルールの代表である法律について考え始めた。

法律とはなんだろうか?厳密な定義ではなく、ざっくばらんに、子供が親に聞くように「法律ってなんですか?どういうものですか?なんのためにあるものですか?」と聞いたら、どういう答えが返ってくるだろうか。

おそらく、「人々が守らなければならないきまり」という答えが多いのではないだろうか。

私もそう思っていた。そして、それでいいとも思う。そういう考えで暮らしていってなんの問題もないと思う。

だが、私は気づいたのだ。「法律とは守らなければならないものでは、ない」と。


一番わかりやすいと思うので、殺人についての法律の条文を例にあげる。

刑法第199条である。

人を殺した者は、死刑又は無期若しくは5年以上の懲役に処する。

ここには、「人を殺してはならない」とは書いていない。極端な解釈をすれば、「死刑になる覚悟があるなら殺人をしてもいい」と言っているとさえ言える。


窃盗については、刑法第235条である。

他人の財物を窃取した者は、窃盗の罪とし、10年以下の懲役又は50万円以下の罰金に処する。

ここにも、「盗んではいけない」とは書いていない。


一方、労働基準法は以下のように書かれている。

第4章 労働時間、休憩、休日及び年次有給休暇 
第32条 使用者は、労働者に、休憩時間を除き1週間について40時間を超えて、労働させてはならない。
2 使用者は、1週間の各日については、労働者に、休憩時間を除き1日について8時間を超えて、労働させてはならない。

ここでは「労働させてはならない」と、明確に禁止されている。しかし、これに違反したからどうなる、ということは書かれていない。




殺人・窃盗と労働時間についての条文の違いは、単に罰則の規程の有無ではない。

ここには、「善悪の基準とは何か」ということのヒントというか答えが示されている。



どうして刑法では、労働基準法のように「人を殺してはならない」「他人の財物を窃取してはならない」と禁止事項として書かれなかったのだろうか?


ただ、「ダメだ」と書いただけで罰則がないと効力がないと考えたとしても、「人を殺してはならない。もし殺したら死刑または・・・に処する」とすればよいではないか。

法律制定者は、「人を殺してはならない」という禁止事項としての書き方をしなかったのは、いけないことであるのは当然だとか死刑になるのだから禁止であることは明白だと考えて省略したのだろうか?


私はこのあたりまで考えて、気づいた。そもそも法律というものは、法律などというものは、人間の悪や罪を根絶しようなどという高邁な理想に基づくものではないのだ。

法律はただ、ある国とか民族を治めるためにはりめぐらす柵のようなものにすぎない。

その柵を越えたら崖下に転落するか、野獣に食われるかである。



ここまでは、ちょっとひねくれた人なら考えることで、「だから人間にしてはいけないことなどない、すべては自由だ、法律など為政者や権力者が大衆を統治するための道具にすぎない。」と考えるひともいるだろう。


しかし、私はそうは考えない。人間にはしてよいことと悪いことがある。善悪の基準は厳として存在する。

しかし、それは法律ではない。むしろ、法律は善悪の基準の存在を否定するあるいは善悪の基準の明文化の放棄の宣言である。



「殺すな」と書いて罰則をもうけなければ効力はない。

「殺したら死刑」と書けば、殺すことは悪であることが明示されない。



私は、法律家が「殺したら死刑」と書いたのは正しいことだっだと思う。法律には人を殺すことが悪である、などということを宣言する資格はない。それほどの大層なものではない。単なるルール、柵にすぎない。


だからといって、繰り返すが、人は何をしても許されるものではない。人にはすべきこと、してはならないことがある。それは厳として存在する。

しかし、それは明文化されていない。むしろ、明文化されていないからこそ、守るべきことなのである。守るべきことは明文化すべきではないのである。



私がこのような考えに至ったのは、自力によるのではない。


ガラテヤ人への手紙の、以下のあたりが頭にあったからである。

いったい、律法の行いによる者は、皆のろいの下にある。「律法の書に書いてあるいっさいのことを守らず、これを行わない者は、皆のろわれる」と書いてあるからである。  そこで、律法によっては、神のみまえに義とされる者はひとりもないことが、明らかである。なぜなら、「信仰による義人は生きる」からである。  律法は信仰に基いているものではない。かえって、「律法を行う者は律法によって生きる」のである。  キリストは、わたしたちのためにのろいとなって、わたしたちを律法ののろいからあがない出して下さった。聖書に、「木にかけられる者は、すべてのろわれる」と書いてある。(3:10-13) 

このブログの人気の投稿

死を望む人の死生観

最近は死にたい気持ちがいっそう募ってきた。単なる慣用句また感動詞としての「死にたい」ではなく、本格的な「希死念慮」という奴である。

そしてまた自殺の方法を調べた。恐怖と苦痛が少なく迷惑もかけない死に方はないか・・・。

すると、2ちゃんねるの自殺未遂体験を語るスレッドが見つかった。
以前にもちょっと眺めたことはあるが、じっくり読んでみた。

多いのは薬物とリストカットと足がつく場所での首吊りだった。
失敗した原因は、同居人のいる自宅で遂行した、電話やメールで知人にほのめかすかあるいははっきり宣言して助けられた、恐怖で自殺を思いとどまった、などである。

共通しているのは、すべて自分が死ぬ覚悟ができていなかった、死ぬ恐怖に打ち勝てなかったということである。

自殺の話になるとまず言われるのは「自殺なんかしてはいけない。命は授かりものだ。」という自殺罪悪説である。それから、「自殺未遂なんて本気で死ぬつもりなどないのだ。死にたいのならとっとと死ね」という未遂に対する罵倒。そして、「何があったの?死ぬ前に誰かに相談すれば?生きてればいいことあるよ」という心配。

「自殺は素晴らしい」という人はまずいない。
だが、非常に潔く動機も生活苦などではない場合はそれが賞賛される場合もある。
乃木稀典とか、三島由紀夫とかである。

私はこの2人の自殺にも興味を持っていろいろと調べてみたが、あまり手放しでは賞賛できないような事実をいくつか知った。そして、2人の死について否定的な考えを表明している有名人も大勢いることを知った。



調べれば調べるほど、自殺というのは限りなく困難なもので、ほとんど不可能に近いと思えてくる。
ロープを用意し、山の中まで行って首を入れるところまでいってもやめてしまう人がいる。
薬の大量服用については、本人の意志に関係なく吐いてしまい、まず成功することがない。

未遂に終わった場合、「二度と自殺なんかしない」という人が多いが、中には「今度こそ」と考える人もいる。実際、自殺に成功した人は何度か未遂を繰り返した人が多いそうである。



私は自殺を試み未遂に終わる人たちがすべて本気で死のうとしていないとは思わない。
彼らは本当に絶望していて、生きることは苦痛以外の何物でもなく、死ぬしかないと思っている。
しかし、いざ死のうとすると苦痛と恐怖で思いとどまってしまう。

思いとどまるときに、たと…

グリーン車で横の席に荷物を置く人

私は常磐線で通勤しているのだが、最近朝がつらくて、
グリーン車に乗ることが多い。

私が乗る駅では、グリーン車は窓際はまず埋まっている。

窓際に人がいる隣の通路側の席に座る。


だが、そこにカバンを置いている人が非常に多い。

私はそれがとても頭にくる。というか、その神経が理解できない。


なぜそんなことができるのだろうか?

私は休日にもグリーン車に乗ることがあるが、

ガラガラでもとなりの席に荷物など置いたことはない。

なぜなら、グリーン車は有料だからだ。


距離によるが、550円とか770円とか、ランチが食べられるくらいの料金だ。


まあ、ガラガラであれば、カバンを置いても、私はしないが、まあ許せる。

でも、通勤ラッシュ時で、上野につくころにはほぼ満席になる常磐線のグリーン車で、

隣の席に荷物を置くのは許せない。

その荷物をつかんで放り投げたくなる気持ちを懸命に抑える。


時々、そういう人にむかって、「すいません」と言って席を空けてもらって座る人がいる。

謝るのは荷物を置いている方だろ!


そういうときに、荷物を置いている人が謝るのを見たことがない。

私は、絶対に謝らない。そこまでして座りたくない。


が、そういう人がいると、顔をじっと見る。

そうすると、だいたいどける。



最近わかってきたのだが、この行動は無神経であるとか気が利かないというのではなく、

隣に人を座らせたくないので故意にやっているようだ。


なんという、利己的な行為だろう。私はそういう行為が本当に嫌いだ。


私も、なるべく隣に人がいない席を選ぶ。隣に人が来て欲しくないという気持ちはわかる。

でも、だからって荷物を置いて座らせないようにするなんてことは絶対にできない。

そんなことまでしたくない。


昨日は、隣の席に荷物を置いて寝ている人に、「すいません」と声をかけている人がいたのだが、

寝ている人は2、3度声をかけられても起きなかった。

多分、気づいているのに起きなかったのだろう。



私は振り返って、その人がどんな顔をしているか見た。

年齢は私よりやや上、50歳前後だ。

上着を着ずにワイシャツとスラックスの、ごく普通のサラリーマン風の男性である。


特にバカそうでもズルそうでもダメ人間でもだらしない感じでもない。

でも、そういうごく普通の人間が、このような利己的な行為をするものなのである。

これは静かなる暴力と言ってもいい。


キンタマを掴まれる

この話はツイッターで言いたかったのだが、どうしても「キンタマ」と書く勇気が出なかったのでこっちに書く。

私は猥談が嫌いだ。
猥談なんかしていたのは高校生まで。
わけあって私は一切猥談をしなくなった。
飲み会でもしない。飲み会でそういう話題になると貝になる。

そして、「キンタマを掴まれる」という言葉には性的な意味はない。
それは常識かもしれないがやっぱりキンタマなどという言葉を口にすることははばかられる。
わたしも「キンタマ」などという言葉を思い出したのは久しぶりで、懐かしささえ感じた。

なんで思い出したかというと、夢の中でキンタマを掴まれたからだ。
その夢では、わたしは背後にぴったりと誰かが張り付いているのを感じていた。
それは見えないし、ぴったりではあるがそっとなので気のせいかなと思うくらいだ。
だが、間違いなく張り付いていると確信した。だが、それを自分で払いのけることはなぜかできない。

そこで、近くにいた知り合いと思われる人に、「ちょっとこれはがしてくれない?」と頼んだ。

それを頼んだときに掴まれたのか、その前から掴まれていたのかわからないが、
その背後にはりついていた何者かがわたしのキンタマを掴んでいた。
とても痛かった。その痛みは鋭いものではなく、鈍く、重いものだった。

そして結局背後にいるものがはがされないまま、目が覚めた。
その目が覚める瞬間に、キンタマの痛みもすーっと消えていった。
そして、わたしは「あ、これは自分が作り出している幻覚にすぎないな」ということがわかった。