文字数を数える癖

別の癖。

これはもうずっと前から、たぶん中学生の頃からやっていること。

聞いた言葉の文字数を指折りかぞえる。


たとえば、駅で電車を待っているときに「まもなく、5番線に上り電車がまいります。」というアナウンスを聞くと、「のぼりでんしゃがまいります」と数える。13文字である。

あまり多くは数えない。だいたい10から20文字の文を数える。


そして、その文字数を等しい文字数に分割する。

13は素数だ。割れない。がっかりする。


「もしもピアノがひけたなら」は12文字で、3、4、6、で割れて楽しい。


どうしてこんなことをするようになったのか。


国語の授業で俳句や短歌を作ってからか、数学の授業で因数分解を習ったときか、

たぶん中学生のときだ。


あまり高度なことではないし、何かの役に立つわけでもない。


小さな子供が歩いていると道に敷いてあるタイルとか横断歩道の縞模様とかを踏んで歩くが、

ああいうものと同じようなことではないかと思う。




中指で差す

先日不動産屋へ行って物件を探してもらっているときのこと。

物件の情報が書かれたA4の紙を何枚か見ながらこれがダメ、これがいい、などと話しているときに、自分が紙の特定の箇所を指し示すときに中指を使っていることに気づいた。

「手の甲を向けて中指を立てる」と言えば外国では相手を侮辱するジェスチャーである。

わたしはもちろん侮辱するつもりなどなかった。なんとなく中指を使っていたのだ。


その後、SUICAグリーン券を買うときに画面をタッチする時、職場でプリンタのボタンや液晶などをタッチするときも中指を使っていることに気づいた。

いつから、どうしてこうなったのだろう?


中指は一番長いので、何かにさわるとき一番近い。

人差し指で触ろうとすると、中指を折り曲げねばならない。わざわざ折り曲げるくらいなら、
そのまま中指で触ってしまえばいい。


人差し指は指の中で一番神経が通っていて、指で何かを書くとか、細かい作業をするときであればメインの指となるが、それほど正確さや精密さが必要ない場合であれば中指でよい。


ボタンを押す程度のことで人差し指を使うのはちょっとおおげさというか、必死すぎな感じがする。


あと、人差し指を使わないと言うのはちょっとカッコつけているというのもある。気取っているというか。


・・・などと考えてそうしていたわけではないが、自分の心理を分析すると、そんなところではないかと思う。

伝説のCAとやらが一流を語るとか

新聞を読んでいたら下のほうに「伝説のCAが明かす一流になれる人なれない人」という本の広告があってそこに「何を食べたい?と聞かれると二流三流の人ほど何でもいいと答える」と書いてあった。

それを見てギクっとした。私は食べ物にこだわらないからだ。俺は一流ではないのか・・・とがっくりしかけた。

しかし、私はこの「CA」の言うことに反論したくなった。「CA」というのはキャビンアテンダント、昔でいうスチュワーデス、つまり航空機の客室でサービスをする職業である。

彼女はそこで接客した一流の人々とそうでない人々の振る舞いを見て、一流の人とはどういうひとなのかを書いたのだろう。

そして、二流の人間に何を食べるかと聞いて「なんでもいいです」と言われることが多かったのだろう。


それでは、彼女は自分が接客する客を見て、『この方は一流だから気をつけなきゃ』『この人は二流だからそれなりでいいわね』『こいつ三流じゃねえか。二度と乗るな』などと心の中で区別をしていたのだろうか。


長い経験から、「いわゆる一流と呼ばれる人にはこういう方が多いですね」と、何かのついでに語るくらいならいいが、それをテーマに本を書き、その広告に先ほどのような「あなたは三流じゃないのか?」と言わんばかりの挑発的な売り文句を載せるという魂胆には反吐がでる。




天皇

靖国参拝を否定する人がよく言うのは、「天皇陛下でさえA級戦犯の合祀後は参拝をしていない」ということであるが、それがどうしたというのか?

なぜ天皇陛下が参拝しなかったら、総理大臣も参拝を辞めなくてはならないのか?


そして反対者は靖国参拝を賛成する人々を「右翼」とみなし、「右翼が天皇に逆らっていいのか」と勝ち誇ったように言うが、私は別に「右翼」という思想や主義の持ち主になろうと決意したわけではない。

国旗・国歌、天皇、支持政党、読む新聞・雑誌、見るテレビ、読む本、などに対する態度を客観的に見ると、「保守派」「右寄り」と言えるタイプの人間であろう。


しかし、そういう派閥とかタイプとか左右どっちかという区別は誰かが他人のことを区別して枠をはめているだけのことであって、実際にそのような枠がありある人がその枠の中で生きているわけではない。


これは「右翼」に限ったことではない。どんな行動でも、自分の好き嫌いでも、それは自分が考えたり感じたことの結果なのであって、「自分は右翼だから靖国へ行く」「自分は保守派だから君が代を歌う」「朝日新聞は左翼だから読まない」などと考えているわけではない。



そして、天皇に対しては私は何の敬意も抱いていない。まったく形骸化した、何の役にも立たない、百害あって一利なしの存在であるからいますぐにでも皇室などというものは廃止すべきだと考えている。

靖国神社に参拝することと、天皇はまったく関係ない。

天皇が参拝したら自分も参拝するのでもない。


天皇はただの人間である。神でも王でもない。かつてはそうであったが、今は違う。

それなのに、実質王や神であるかのようなその地位は世襲されている。


これは、憲法9条と自衛隊の問題よりももっと重要でさらに矛盾したことである。

このことが解決することなしには日本はひとつの独立した国とはならないだろう。


そして私は日本が完全に独立することは永遠にないと見ている。

間違いなく、日本はアジアあるいは環太平洋諸国から構成される連合体の一部となって、国家としての日本は100年以内に消滅しているだろう。そして、国家ではない単なる連合体の一区域において、天皇などという存在は必然的に無用となる。


そして、そのことは悲しいことでも惨めなことでもなんでもなくて、歴史の必然であると思う。



左バッターが有利な理由

スポーツの話をしよう。


youtubeで、武井壮さんが「スポーツでは左利きが有利」という話をしていた。

私もそれには同意なのだが、武井さんが触れていなかった理由がある。

それは、「利き目」のことである。

野球の左打者で説明する。

ご存知の通り、左打者はピッチャーに対して横向きに立つ。

顔はピッチャーに向けるとは言っても、完全に前は向かない。

右目がピッチャー側に近くなる。

人間は両目で見るとはいっても、まったく均等に両目を使っているのではなく、どちらか一方の利き目を主としているそうである。



このことは理屈で考えたのではなく、実感から後で理屈付けをしたのである。

私は野球部ではなかったが、バッティングセンターにけっこう頻繁に通って10年以上になる。

球速は100km~130kmまで、一時期左打席を練習したことがある。


そのとき意外だったのが、左打席だと動きはぎこちないのだがなぜか球を正確にミートできる感覚があったのだ。

それはなぜだろうと考えて、利き目のせいではないかと思った。



そしてもうひとつ感じたのは、「左打ち」という言葉の違和感である。いわゆる「左打席」に入ってスイングするときに、「左で打っている」という感覚がない。だって、立つ場所は自分からピッチャー側を見て右側だし、バットをリードするのは右手である。


バッティングの動作で素人が陥りやすい過ちは「こねる」こと、つまり左打者なら左手が強すぎてしまうことだ。


人間はほとんどが右利きである。

字を書いたり、物を持ったり取ったりするときに右手を使う。


利き目も手と同様、右利きの人が多いそうだ。



というわけで、左打ちは実は「右利き」の人にこそ向いているのである。

靖国

安倍首相が年末に突然靖国神社に参拝したことについて、新聞やインターネットなどで世間の反応をうかがうとほとんどが批判的で、「よくぞ参拝した」と讃える人がほとんど見当たらない。

さらに、アメリカ大使館からも否定的な声明が発表されたことがニュースになった。

以下、大使館のサイトに掲載されている声明である。

日本は大切な同盟国であり、友好国である。しかしながら、日本の指導者が近隣諸国との緊張を悪化させるような行動を取ったことに、米国政府は失望している。
 米国は、日本と近隣諸国が過去からの微妙な問題に対応する建設的な方策を見いだし、関係を改善させ、地域の平和と安定という共通の目標を発展させるための協力を推進することを希望する。
 米国は、首相の過去への反省と日本の平和への決意を再確認する表現に注目する。

この声明について、disappointedがどれほどの意味なのか、というようなことが騒がれているようだが、そんなことはどうでもよい。そんな微妙なニュアンスの問題ではないからだ。


今回の首相の行為を批判する意見のほとんどは、「いたずらに中国や韓国を刺激するのは外交政策上日本に損失にしかならないからよくなかった」というものである。

靖国神社参拝そのものをなぜすべきでないのか、靖国神社とはどういうものなのか、なぜ首相が靖国参拝にこだわるのかについての意見を述べている人はほとんど見当たらない。

つまり、ほとんどの人は「靖国なんかどうでもいいじゃん。」と思っている。そして、安倍首相がそのどうでもいいことにこだわって国益を損ねようとしていることに文句を言っているのである。



靖国参拝に反対する人たちの意見はさまざまであるが、わかりやすくいうと「第二次世界大戦で日本は侵略行為をおこなったのに、その行為を遂行した軍人たちをまつった神社を参拝することは日本の侵略行為を肯定し、反省していないことを示す」というものだった。

私はその意見に賛成はしないが、そういいたくなる気持ちもわかるし、その反対意見を屈服させるようなこともできない。

ただ私は、先の戦争でどの国の行為が侵略であり、どの国の行為が正しかったが、どちらが神の側だったかなどという判断をくだすことはまさに神にしかできないことだと思っている。

日本が満州国を建設したこと、韓国を併合したこと、実態はあきらかでないようだが南京事件のような虐殺があったとして、それに対して民間人を標的にした空襲や原爆投下が肯定されるのだろうか?

戦争とはそんな単純なものだろうか?ある国の戦闘行為は「侵略か、正義か」などという風にきれいに区別できるものだろうか?



靖国参拝の是非は、そんな簡単に言えることではない。

それを、「外交上問題だから」「国益に反するから」といった理由でやめてしまうことはできない。もちろん、首相もそれをわかっているのである。単に自分のポリシーとか個人的な感情で参拝しているのでは、当然ない。




外国語を理解するために必要なこと

久しぶりの海外出張に行って感じたのは、翻訳ツールの充実ぶりである。 誰もがもっているスマートフォンでは無料で使用できる翻訳アプリが使える。 パソコンではgoogle翻訳をはじめとして、これも無料で使える翻訳サイトがたくさんあり、翻訳の精度もずいぶん向上した。 アプリ等...