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野々村議員

野々村という議員が号泣しながら記者会見していてみっともない、という話を聞いた。

私は、女性議員をヤジった議員が釈明したのかと思ったら、まったく関係なかった。


youtubeで見てみたが、どういう精神状態なのか、よくわからない。


泣くことによって同情させようとか、反省の意を示すとか、そんなものではなかった。


「号泣」と言われているが、あれは号泣というよりも、錯乱状態というべきではないだろうか。


あの会見は彼にとってなんのメリットももたらさなかっただろうが、それは彼のごまかしが失敗に終わったとかいうものではない。

私はまったく怒りを覚えなかった。気味が悪かった。

多分、あの人はこの後精神科に通うことになるだろう。通うべきだ。


ちなみに私は精神科に何度か通っている「心が病んだ」人間である。



会見と言えば、小保方さんである。

小保方さんについては、私はまさか存在もしない発見をでっちあげた論文だとは思っていなかった。

そんなものを書いてもなんのメリットもないからである。


野々村氏に対しても、小保方さんに対しても、皆怒ったり批判したりしているけれど、

私は彼らの行動の無目的さ、後先考えなさが薄気味悪い。


悪いことをする人、自分の利益のために不正をおこなう人はたくさんいる。

そういう人はそれを隠そうとしたり、隠すことに失敗したら恥ずかしがったり、悔しがったり、逃げたり、顔を隠したりするものだ。

しかし、野々村氏や小保方氏の態度は違う。


一見、反省していず、泣いてごまかすあるいは同情してもらおうとしている子供のような態度にも見えるが、私はそんなかわいいものには見えない。

現在、私の身の回りでは善悪というもの、良識とか常識とかいうものが完全に崩壊している。


その状況は「現代日本」とか「世界」とかで起きているものと言いたい所だが、
私の見ているのはほんの身の回りだけなのでそこまでは言えない。


でも、少なくとも私が生活している範囲で出会う人々からは、完全に道徳とかマナーとか気遣いとかいうものが失われてしまった。いい年をした、お年寄りと言ってもいいくらいの大人でさえも、そういうものが失われた。

もちろん、中には古臭い、化石のような「いい人」も、ごく少数だが存在している。

私は自分もそういう化石のような人間のつもりなのだが、どうやらそうは思われていないようである。


話を野々村議員に戻すが、私が気になったのは、「縁もゆかりもない人に投票してもらって議員になった」という彼の言葉である。


投票した人に失礼な発言だとは思うが、彼はおそらく自分に投票してくれた人に感謝の意を表そうとして言ったつもりだったと思う。


自分のことを知らないのに、別に自分がその人たちに何かしてあげたわけでもないのに投票してくれた、その人たちのためにがんばりたい、がんばりたかった、そういうことを言いたかったのだろう。


しかし、そういう意味にはならなかった。


これは彼の本音が出てしまったというより、単に言葉の使い方が未熟、要は本を読んだり文章を書いたりという経験が足りない、もっというとアタマが悪いだけだろう。




ただ、彼のような人間は今の日本にたくさんいる。別に特殊な人間ではないと思う。


むしろ、彼はどちらかというと優秀な部類の人間だ。



そんな人でも、あんなことをしてあんな醜態をさらしてしまうのだ。


これが、現実。



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死を望む人の死生観

最近は死にたい気持ちがいっそう募ってきた。単なる慣用句また感動詞としての「死にたい」ではなく、本格的な「希死念慮」という奴である。

そしてまた自殺の方法を調べた。恐怖と苦痛が少なく迷惑もかけない死に方はないか・・・。

すると、2ちゃんねるの自殺未遂体験を語るスレッドが見つかった。
以前にもちょっと眺めたことはあるが、じっくり読んでみた。

多いのは薬物とリストカットと足がつく場所での首吊りだった。
失敗した原因は、同居人のいる自宅で遂行した、電話やメールで知人にほのめかすかあるいははっきり宣言して助けられた、恐怖で自殺を思いとどまった、などである。

共通しているのは、すべて自分が死ぬ覚悟ができていなかった、死ぬ恐怖に打ち勝てなかったということである。

自殺の話になるとまず言われるのは「自殺なんかしてはいけない。命は授かりものだ。」という自殺罪悪説である。それから、「自殺未遂なんて本気で死ぬつもりなどないのだ。死にたいのならとっとと死ね」という未遂に対する罵倒。そして、「何があったの?死ぬ前に誰かに相談すれば?生きてればいいことあるよ」という心配。

「自殺は素晴らしい」という人はまずいない。
だが、非常に潔く動機も生活苦などではない場合はそれが賞賛される場合もある。
乃木稀典とか、三島由紀夫とかである。

私はこの2人の自殺にも興味を持っていろいろと調べてみたが、あまり手放しでは賞賛できないような事実をいくつか知った。そして、2人の死について否定的な考えを表明している有名人も大勢いることを知った。



調べれば調べるほど、自殺というのは限りなく困難なもので、ほとんど不可能に近いと思えてくる。
ロープを用意し、山の中まで行って首を入れるところまでいってもやめてしまう人がいる。
薬の大量服用については、本人の意志に関係なく吐いてしまい、まず成功することがない。

未遂に終わった場合、「二度と自殺なんかしない」という人が多いが、中には「今度こそ」と考える人もいる。実際、自殺に成功した人は何度か未遂を繰り返した人が多いそうである。



私は自殺を試み未遂に終わる人たちがすべて本気で死のうとしていないとは思わない。
彼らは本当に絶望していて、生きることは苦痛以外の何物でもなく、死ぬしかないと思っている。
しかし、いざ死のうとすると苦痛と恐怖で思いとどまってしまう。

思いとどまるときに、たと…

グリーン車で横の席に荷物を置く人

私は常磐線で通勤しているのだが、最近朝がつらくて、
グリーン車に乗ることが多い。

私が乗る駅では、グリーン車は窓際はまず埋まっている。

窓際に人がいる隣の通路側の席に座る。


だが、そこにカバンを置いている人が非常に多い。

私はそれがとても頭にくる。というか、その神経が理解できない。


なぜそんなことができるのだろうか?

私は休日にもグリーン車に乗ることがあるが、

ガラガラでもとなりの席に荷物など置いたことはない。

なぜなら、グリーン車は有料だからだ。


距離によるが、550円とか770円とか、ランチが食べられるくらいの料金だ。


まあ、ガラガラであれば、カバンを置いても、私はしないが、まあ許せる。

でも、通勤ラッシュ時で、上野につくころにはほぼ満席になる常磐線のグリーン車で、

隣の席に荷物を置くのは許せない。

その荷物をつかんで放り投げたくなる気持ちを懸命に抑える。


時々、そういう人にむかって、「すいません」と言って席を空けてもらって座る人がいる。

謝るのは荷物を置いている方だろ!


そういうときに、荷物を置いている人が謝るのを見たことがない。

私は、絶対に謝らない。そこまでして座りたくない。


が、そういう人がいると、顔をじっと見る。

そうすると、だいたいどける。



最近わかってきたのだが、この行動は無神経であるとか気が利かないというのではなく、

隣に人を座らせたくないので故意にやっているようだ。


なんという、利己的な行為だろう。私はそういう行為が本当に嫌いだ。


私も、なるべく隣に人がいない席を選ぶ。隣に人が来て欲しくないという気持ちはわかる。

でも、だからって荷物を置いて座らせないようにするなんてことは絶対にできない。

そんなことまでしたくない。


昨日は、隣の席に荷物を置いて寝ている人に、「すいません」と声をかけている人がいたのだが、

寝ている人は2、3度声をかけられても起きなかった。

多分、気づいているのに起きなかったのだろう。



私は振り返って、その人がどんな顔をしているか見た。

年齢は私よりやや上、50歳前後だ。

上着を着ずにワイシャツとスラックスの、ごく普通のサラリーマン風の男性である。


特にバカそうでもズルそうでもダメ人間でもだらしない感じでもない。

でも、そういうごく普通の人間が、このような利己的な行為をするものなのである。

これは静かなる暴力と言ってもいい。


キンタマを掴まれる

この話はツイッターで言いたかったのだが、どうしても「キンタマ」と書く勇気が出なかったのでこっちに書く。

私は猥談が嫌いだ。
猥談なんかしていたのは高校生まで。
わけあって私は一切猥談をしなくなった。
飲み会でもしない。飲み会でそういう話題になると貝になる。

そして、「キンタマを掴まれる」という言葉には性的な意味はない。
それは常識かもしれないがやっぱりキンタマなどという言葉を口にすることははばかられる。
わたしも「キンタマ」などという言葉を思い出したのは久しぶりで、懐かしささえ感じた。

なんで思い出したかというと、夢の中でキンタマを掴まれたからだ。
その夢では、わたしは背後にぴったりと誰かが張り付いているのを感じていた。
それは見えないし、ぴったりではあるがそっとなので気のせいかなと思うくらいだ。
だが、間違いなく張り付いていると確信した。だが、それを自分で払いのけることはなぜかできない。

そこで、近くにいた知り合いと思われる人に、「ちょっとこれはがしてくれない?」と頼んだ。

それを頼んだときに掴まれたのか、その前から掴まれていたのかわからないが、
その背後にはりついていた何者かがわたしのキンタマを掴んでいた。
とても痛かった。その痛みは鋭いものではなく、鈍く、重いものだった。

そして結局背後にいるものがはがされないまま、目が覚めた。
その目が覚める瞬間に、キンタマの痛みもすーっと消えていった。
そして、わたしは「あ、これは自分が作り出している幻覚にすぎないな」ということがわかった。