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一般化するな

ここ数か月くらい、ずっと言いたかった。

私がアタマにくる、人の嫌いな言い方というか、考え方。

それは、「一般化する」ことだ。


これはたぶん、本当は話したくないのに話す世間話などのときに見られる。

私の場合は、飲みに行ったとき、いわゆるキャバクラのような店に行ったときに、

ときどきある。


私は自分が思うこと、経験したこと、疑問に感じていること、やってみようと思うことなどを、

深く考えることもなくベラベラとしゃべる。


別にそんなに深刻に考えているわけではないが、

人をののしったり、恨んだり、愚痴ったりすることも多い。


すると、話を聞いている人、だいたい女だが、が、

「それって、○○ですよね。」

「やっぱり、AはBですよね。」


と俺の話を一般化するのだ。それが腹が立つ。


具体的な例をあげると・・・。


わかりやすいのでいうと、

仕事を探しているときの面接で、好きな音楽は何か、誰が好きか、という話になって、

私はボブディランが好きだ、と答えた。


すると面接官、それは私と同世代かやや若いくらいの男性だったが、

「あ~、70年代くらいのロックですか、ストーンズとか。」

と言った。


『いやいや、ディランだよ。なんでディラン=70年代なんだよ。ストーンズなんて一言も言ってねえよ。』

というような疑問が一気にわいたがもちろん口には出さなかった。




音楽で言えば、「ディープパープルが好きだ」というと、

「僕もディープパープルとかレッドツェッペリンは好きですね。」という人は多い。

この二つのバンドを同ジャンルにくくる人の神経が許せない。

もう、青と赤くらい対照的な全然違うバンドなのに。



わかりやすいので音楽の例であげたが、

本当に頭にくるのはもっと別のことだ。


具体的な例がすぐにあげられないのだが、

自分が不満に思っていることや、ある種の人々に対する批判的なことを言ったときに、

それは俺を気遣ってのことなのかもしれないが、

結果的には『ハイハイ、わかりました、あんたの言う通りですよ』

と、聞き流しているのも同然の、安易な同調のことである。



つい最近あったことだが、

「死にたい、いつ死んでもいい、生きていても別に楽しくない」

というようなことを言った。



それは私の口癖のようなもので、そんなに切羽詰まって本気で自殺を考えていたわけではない。

でも、私は、「人間生きていれば何かいいことがある」という考えが大嫌いで、

病気とか家庭や社会環境によって生きていることがつらくてたまらない人にとっては

死んだ方がいいケースがある、ということはゆずれない。


そのことを理解してもらえない人は多い。

何も考えていないのか、バカなのか、無神経なのか鈍感なのかしらないが、

うまいものを食べて空調のきいた場所でテレビをみたり音楽をきいたりゲームをしたりして

気持ちよくすごすのが人生だと、幸福だと本気で思っている人。



不機嫌だったり不満だったり、怒っていたりしている人が客だったり上司だったりして、

聞いている人はその話を受け入れて、あわよくば機嫌をなおしてやろうと思うことがある。

私もある。


でもそれは、本当に相手のことを思ってしているのではなく、

面倒くさい、せいぜいが相手に怒られたくない、後で文句を言われたくない、

という消極的かつ自分本位の動機によるのである。


そして、それを恥じていない。ひどいときには気づいてさえいない。


その、「死にたい」ということを言ったときに、相手が何をいったのかは覚えていないが、

自分が相手の言ったことにたいして猛然と腹が立って、まったく顔を見ることもなく、

次のようなことを何度も言ったのは覚えている。


「毎日頭の上から石が降ってきたり誰かにナイフでブスブスさされるような人生を送っている人にとっては生きていることは地獄でしかないでしょう?そんな人に対して、生きていればいいことがある、イヤなことは忘れて楽しいことを考えなよ、なんて言えるか?そういう人にとっては死んだほうがその人にとって幸せなんだ。これは極端な例だが、俺が死んだ方がマシだというのはそういう意味だ」

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死を望む人の死生観

最近は死にたい気持ちがいっそう募ってきた。単なる慣用句また感動詞としての「死にたい」ではなく、本格的な「希死念慮」という奴である。

そしてまた自殺の方法を調べた。恐怖と苦痛が少なく迷惑もかけない死に方はないか・・・。

すると、2ちゃんねるの自殺未遂体験を語るスレッドが見つかった。
以前にもちょっと眺めたことはあるが、じっくり読んでみた。

多いのは薬物とリストカットと足がつく場所での首吊りだった。
失敗した原因は、同居人のいる自宅で遂行した、電話やメールで知人にほのめかすかあるいははっきり宣言して助けられた、恐怖で自殺を思いとどまった、などである。

共通しているのは、すべて自分が死ぬ覚悟ができていなかった、死ぬ恐怖に打ち勝てなかったということである。

自殺の話になるとまず言われるのは「自殺なんかしてはいけない。命は授かりものだ。」という自殺罪悪説である。それから、「自殺未遂なんて本気で死ぬつもりなどないのだ。死にたいのならとっとと死ね」という未遂に対する罵倒。そして、「何があったの?死ぬ前に誰かに相談すれば?生きてればいいことあるよ」という心配。

「自殺は素晴らしい」という人はまずいない。
だが、非常に潔く動機も生活苦などではない場合はそれが賞賛される場合もある。
乃木稀典とか、三島由紀夫とかである。

私はこの2人の自殺にも興味を持っていろいろと調べてみたが、あまり手放しでは賞賛できないような事実をいくつか知った。そして、2人の死について否定的な考えを表明している有名人も大勢いることを知った。



調べれば調べるほど、自殺というのは限りなく困難なもので、ほとんど不可能に近いと思えてくる。
ロープを用意し、山の中まで行って首を入れるところまでいってもやめてしまう人がいる。
薬の大量服用については、本人の意志に関係なく吐いてしまい、まず成功することがない。

未遂に終わった場合、「二度と自殺なんかしない」という人が多いが、中には「今度こそ」と考える人もいる。実際、自殺に成功した人は何度か未遂を繰り返した人が多いそうである。



私は自殺を試み未遂に終わる人たちがすべて本気で死のうとしていないとは思わない。
彼らは本当に絶望していて、生きることは苦痛以外の何物でもなく、死ぬしかないと思っている。
しかし、いざ死のうとすると苦痛と恐怖で思いとどまってしまう。

思いとどまるときに、たと…

グリーン車で横の席に荷物を置く人

私は常磐線で通勤しているのだが、最近朝がつらくて、
グリーン車に乗ることが多い。

私が乗る駅では、グリーン車は窓際はまず埋まっている。

窓際に人がいる隣の通路側の席に座る。


だが、そこにカバンを置いている人が非常に多い。

私はそれがとても頭にくる。というか、その神経が理解できない。


なぜそんなことができるのだろうか?

私は休日にもグリーン車に乗ることがあるが、

ガラガラでもとなりの席に荷物など置いたことはない。

なぜなら、グリーン車は有料だからだ。


距離によるが、550円とか770円とか、ランチが食べられるくらいの料金だ。


まあ、ガラガラであれば、カバンを置いても、私はしないが、まあ許せる。

でも、通勤ラッシュ時で、上野につくころにはほぼ満席になる常磐線のグリーン車で、

隣の席に荷物を置くのは許せない。

その荷物をつかんで放り投げたくなる気持ちを懸命に抑える。


時々、そういう人にむかって、「すいません」と言って席を空けてもらって座る人がいる。

謝るのは荷物を置いている方だろ!


そういうときに、荷物を置いている人が謝るのを見たことがない。

私は、絶対に謝らない。そこまでして座りたくない。


が、そういう人がいると、顔をじっと見る。

そうすると、だいたいどける。



最近わかってきたのだが、この行動は無神経であるとか気が利かないというのではなく、

隣に人を座らせたくないので故意にやっているようだ。


なんという、利己的な行為だろう。私はそういう行為が本当に嫌いだ。


私も、なるべく隣に人がいない席を選ぶ。隣に人が来て欲しくないという気持ちはわかる。

でも、だからって荷物を置いて座らせないようにするなんてことは絶対にできない。

そんなことまでしたくない。


昨日は、隣の席に荷物を置いて寝ている人に、「すいません」と声をかけている人がいたのだが、

寝ている人は2、3度声をかけられても起きなかった。

多分、気づいているのに起きなかったのだろう。



私は振り返って、その人がどんな顔をしているか見た。

年齢は私よりやや上、50歳前後だ。

上着を着ずにワイシャツとスラックスの、ごく普通のサラリーマン風の男性である。


特にバカそうでもズルそうでもダメ人間でもだらしない感じでもない。

でも、そういうごく普通の人間が、このような利己的な行為をするものなのである。

これは静かなる暴力と言ってもいい。


キンタマを掴まれる

この話はツイッターで言いたかったのだが、どうしても「キンタマ」と書く勇気が出なかったのでこっちに書く。

私は猥談が嫌いだ。
猥談なんかしていたのは高校生まで。
わけあって私は一切猥談をしなくなった。
飲み会でもしない。飲み会でそういう話題になると貝になる。

そして、「キンタマを掴まれる」という言葉には性的な意味はない。
それは常識かもしれないがやっぱりキンタマなどという言葉を口にすることははばかられる。
わたしも「キンタマ」などという言葉を思い出したのは久しぶりで、懐かしささえ感じた。

なんで思い出したかというと、夢の中でキンタマを掴まれたからだ。
その夢では、わたしは背後にぴったりと誰かが張り付いているのを感じていた。
それは見えないし、ぴったりではあるがそっとなので気のせいかなと思うくらいだ。
だが、間違いなく張り付いていると確信した。だが、それを自分で払いのけることはなぜかできない。

そこで、近くにいた知り合いと思われる人に、「ちょっとこれはがしてくれない?」と頼んだ。

それを頼んだときに掴まれたのか、その前から掴まれていたのかわからないが、
その背後にはりついていた何者かがわたしのキンタマを掴んでいた。
とても痛かった。その痛みは鋭いものではなく、鈍く、重いものだった。

そして結局背後にいるものがはがされないまま、目が覚めた。
その目が覚める瞬間に、キンタマの痛みもすーっと消えていった。
そして、わたしは「あ、これは自分が作り出している幻覚にすぎないな」ということがわかった。