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2017年1月8日日曜日

高齢者ドライバーによる事故の連鎖に思ったこと

これはタクシーに乗ったときに運転手にした話である。

同じことを2回話したのだが、1回目は同意が得られず、2回目は納得してもらえた。


話し方が悪かったかもしれないが、自分の中では確たる自信があるので、

あらためてここに書いておく。


去年、高齢ドライバーによる交通事故が続けて何件か起こった。

私は最近自宅でテレビを見ないので、情報源はほとんどインターネットである。


本当に連続して起きたのか、さらにそれは平年と比べて本当に多かったのかはわからない。

あくまでも「印象」の話である。


しかし、この話はデータとして件数が多いとか増えたとかということとはあまり関係ない。

私が言いたいことは統計的なデータを示すことではない。


そんなことには興味もない。



さて、去年の秋ごろだったと思うが、コンビニか何かの店に、車が突っ込むという事故が起きた。

運転手の年齢は60から70代だったと思う。


最近は飲酒したり故意に人混みに車が突っ込むような事件も起きているので、

そういう事件かと思ったがどうもそうではなく、単なる運転ミスのようだった。



報道というのは、何かあるとそれを一般化しようとする。

そしてこの事故も、「高齢者による事故」というように一般化されたような印象があった。


これも「印象」であるが、この印象ということが大事だ。


私は運転免許は持っているがもう10年くらいハンドルを握っていない。


だから、交通事故を自分が起こすかもしれないという心配はないので、他人事として傍観していた。

また、高齢化が進んでいるからこういうことも増えていくだろう、と自然なことだと受けとめていた。


だがその後、同様の高齢者の事故が続けて起きた。

1か月にいっぺんくらい起きたような気がする。



そこで、ちょっとおかしいな、と思った。

高齢化が進んでいるといっても、2016年に急激にすすんだわけではない。


何か別の要因があるのではないか?


電気自動車の普及か?


インターネットの噂では、特定の車種の事故が増えていると言っている人がいたが、

どうもそういう事実はないようだった。



そして私が考えたことは、こうだ。

「この高齢者の交通事故の連続発生は、過剰な報道が引き起こしたものである」



ひとつひとつの交通事故を単なる事故とはみなさないで、「高齢者による危険運転の増加」という社会現象として扱った。


これによって、多くの人々に高齢者の運転する自動車が事故を起こすイメージが強烈に刷り込まれた。


テレビでもインターネットでもよい。最近はインターネットでも動画が見られるサイトも多いから、

テレビのニュースを見ているのと同じような情報を、手のひらの上で、寝床でも電車の中でも、トイレの中でも入手できる。



事故現場の映像が脳裏に刻み込まれる。そして誰もが、もし自分がそこにいたら、自分が運転していたら、と想像するだろう。

「アクセルとブレーキを踏み間違えたのか?」「酒を飲んでいたんじゃないか?」「何か考え事をしていたのか?」

そして、自分の頭の中で、運転ミスをするような状況をシミュレーションするのではないだろうか。

少なくとも私はする。




そして、実際に運転をしていても、事故があったことが記憶に刻まれている。「自分も事故を起こすかもしれない、気をつけよう」と思うだろう。それはよい。

おそらく報道する人たちも、自分たちは警鐘を鳴らしている、新たな事故を防ぐ役割を果たしていると思ってしているのだろう。



だが、私はそれがアダになっているように思えてならない。

事故を起こす悪いイメージが刻み込まれ、さらにそのシミュレーションまでしてしまった人が去年の秋ごろ大量に発生していたと私は推測するのだ。


そのため、普段であれば事故になどならないようなちょっとした状況で、軽いパニックになった人がシミュレーションしていた誤操作をとっさにやってしまったのではないか。


これはほとんど仮説のようなものだが、

タクシーで話しているうちに、それが正しいのではないかという思いが強くなってきた。



こういうことが起こりうるなら、それは交通事故に限らない。

たとえば芸能人の不倫。

これも立て続けに起きた。


クスリで逮捕された芸能人も続いた。



報道というのはどうしてもセンセーショナルになる。

なんでもないことでも「社会問題の表出」みたいに扱われる。


人間や社会や国家が根本的にかかえている闇、問題、課題のように扱われる。



「最近イヤなニュースばかりだ」というのをよく聞くが、報道というものは本質的に暗くなるものだ。


「世の中の幸せなできごとを皆に発信しよう」という動機で報道をしようと思う人はほとんどいないだろう。



私の仮説に反論する人はおそらく、交通事故や不倫や薬物中毒など、自分にメリットのないことをやる動機がない、などと言うだろう。


薬物に関しては報道が繰り返されるうちに興味を持ってしまったりということはあるかもしれないが、

私が言いたいのはそういうことではない。



興味を持つ持たない以前の、自分でも意識していないくらいの薄い、軽い記憶、もはや記憶とも言えないくらいの、情報の刷り込みである。



そして、酒にも酔って調子に乗った私は、タクシーが目的地に近づくと無理やり話をまとめにかかって、次のように話した。



そのように、人は悪いイメージを無意識に持ってしまいがちである。

だから、昔から大人たちは「漫画やテレビばかりみていないで本を読みなさい」と言ったのではないか。



この言葉は、形式しかふれていない。マンガ、テレビ、本にもさまざまな内容があり、いいものも悪いものも、低俗なものも高尚なものもあるだろう。



どの形式が高尚か、という話も実は興味があってそれについても考えていることはあるが、
今回はそれは措いておいて、


つまり「本を読め」という言葉は、「よいイメージを刷り込みなさい」ということだと思うのだ。



誰だって、本を読めというときにエロ本とかホラー小説のことを言っているのではないだろう。


いわゆる古典、傑作、名作、つまり高尚なもののことを言っているのである。



私は、読書、映画を見ること、音楽を聴くことなどについては、そういうものだと意識している。


ある特定の世界に触れたいと切望してそれに浸る、というより、自分が知らない世界に触れたいという方が強い。


人は周囲に影響され、つられるものだ。

人が大勢いる居酒屋などで、特にテーマもなく雑談していると、となりのテーブルから聞こえてきたフレーズを気づかずに使っていることがある。


生きていくというのは居酒屋で雑談しているようなものだ。

どこからか聞こえてきた話がその人の世界を作っている。誰かが話した言葉以外にどうやって人が言葉を覚えるだろうか?


辞書と文法書で言葉を覚えることは不可能である。

それらだって、生きた人々が発した言葉から作られたのである。


ひとはマネをして、模倣をして生きる。

しかも、自分がそれをしていると意識さえせずに。