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新しい糖質制限の方法

今年は糖質制限をやってみることにした。

去年はグルテンフリーをやって、劇的な効果はなかったのだがちょっと体質が変わったように感じた。

また、食べるものの成分を気にするようになった。


たとえば、そばに含まれるそば粉の量が10割から3割くらいまで幅があることを知ったのは、

今さらながらだが大きなことだった。


「糖質制限」という言葉を最近よく聞く。

どうやら最近有名なライザップの基本は糖質制限にあるようだ。


「炭水化物ダイエット」というのはかなり前から耳にしていたが、「やせはするが筋肉量がへって太りやすい体になるし脳のエネルギー源が不足するから絶対やってはダメだ」という考えが私の中では確立していた。


だが、どうやらその考えはもう古いらしい。

youtubeであるボディビルダーが話しているのを見て糖質制限が効果があることを知ったのだが、

検索してみると同じようなことを言っている人がたくさんいる。



糖質制限をやろうと思ったのは年末のことだった。

仕事始めの日の昼食で、いつもの定食屋で「中」を頼んでいるのを「小」にしようかと思ったが、

なんだかみみっちい感じがして中にした。


私は寝不足のときは昼休みにコンビニでおにぎりを3つ買ってインターネットカフェに行って食べて昼寝をする。

これをやめる。鶏肉、豆腐、卵にしてみた。


糖質制限は完全に炭水化物をシャットアウトしなくてもよいのだが、

とりあえず抜くとどうなるのかを知りたいので当面は原則禁止とする。



今週は仕事始めの日の昼食にご飯を一杯食べたのと、夕方におせんべいを食べたが夜は米を食べていない。

そして土曜日は朝から焼肉を食べた。


たんぱく質を積極的にとるのだ。


糖質を制限するとお腹がすく。


が、たんぱく質と油はおおいに取ってよいのだ。


肉の脂身とか、タブー視していたが、これからは大いに食べる。

オリーブオイルなどをスプーンで飲むことは奨励すらされているのだ。



だが、休日である土曜日の今日、夕方に大盛りのナポリタンが食べたくなった。


「大盛りのナポリタン」なんて、グルテンフリーにも糖質制限にもNGな最悪の食べ物だ。



結局食べなかったのだが、店が満席だったから帰っただけであって、

完全に誘惑に負けていた。


しかも、一回満席だなと思って帰りかけたのだがやっぱり食べたくて、もう一度店にもどって店員に「満席ですか?」と聞きさえしたのである。


私は混んでいる飲食店が大嫌いで、満席の店に並ぶなどということは絶対にしないのに、そんなことをするなんて、かなり糖質制限がキツいということを表している。

そのあと中華料理屋へ行った。

ウーロンハイ、枝豆、豚の角煮、カキの炒め物を食べた。

豚の角煮なんて、今までは完全NG食品だった。


朝は焼肉だったしけっこう食べたのだが、

空腹で空腹でしかたなく、夕べあまり寝ていなかったので寝ていたのだがよく眠れなかった。


夕べスーパーで買った豆腐を食べたり豆乳を飲んだりしてなんとかしのいだ。




ちょっと冷静になったので、糖質制限によって体がどうなるかを整理しておこう。


糖質をとっているときは脳は糖分をエネルギー源とするが、糖分が不足するとその代わりに脂肪を分解して生成されるケトン体というものをエネルギー源とするようになる。

脂肪が分解される、脳のエネルギーも不足しない、メデタシメデタシ・・・・


とはならない。


分解されるのは脂肪だけでなく筋肉も含まれる。


筋肉が減っても痩せればいい、と思うかもしれないが恐ろしいのはそのあとで、

筋肉が減った体は体重は少なくても代謝量が減り、さらに、体は糖質不足で飢餓状態になって脂肪を分解しているから、次の飢餓状態にそなえて脂肪を蓄えやすい体に変質する、つまり、太りやすい体になってしまう。

だから「リバウンド」が起こるのである。そして、ダイエットするたびに筋肉が減ってどんどん太りやすい体になっていくという悪循環になる。

私はこれが怖くて糖質制限は敬遠していたのである。


しかしこれは絶食して運動しないような場合に起こることであって、

たんぱく質や脂肪は取って適度に運動すれば筋肉は維持できる、というのが最近わかってきたそうだ。


適度な運動というのは、三日に一回程度でよいらしい。


この3日というのにも根拠がある。


筋肉が大きくなるには破壊と修復というプロセスを経る。

破壊するのが限界まで筋力を使うトレーニングで、そのあと休ませることが必要である。

その修復に必要な時間が72時間くらいなのだそうだ。


だから、筋肉を増やすトレーニングは毎日やってはいけない。

ボディビルダーでさえ、毎日はやらないそうである。



あとは、「なぜわざわざそんなことをしないと生きていけないのか、人間は自然に生活していては健康に過ごせないのか?」という疑問がわくが、

そもそも我々は白米や小麦粉や精糖などのほとんど合成品のような食物になれて、いわば依存症に陥っている。

そこから脱却するための糖質制限なのである。


糖質は完全に絶つ必要があるわけではないが、なんでも過剰に摂取すればよくない、というだけのことである。


あともう一つ、ケトン臭。

これも私が恐れていたものなのだが、ケトン体が生成されると酸っぱいような体臭がするそうである。


太っている人に甘酸っぱいようなにおいがする人がよくいるが、あれではないかと思う。


ケトン体は酸性なのでレモンや酢などのアルカリ性食品で中和されるとのことである。


・・・でも、せっかく新たなエネルギー源として生成されたケトン体を中和してしまっていいのか?

・・・たぶん大丈夫なんでしょう。


・・・というか、いまさらケトン臭が出たからってどうってことないし・・・・。




今まで、糖質制限している人を二人知っている。

いずれも女性である。


一人はアレの人だったので、裸の体を見て触ることもできた。

プロポーションは素晴らしいのだが、触ってみたら超ブヨブヨで、『やっぱり炭水化物を断つのは最悪だな』と思った。

もう一人はとても痩せていた。骨と皮といってもいい。が、不健康な感じはせず、肌つやもよかったし元気もあった。


たぶん、二人ともあまり運動をしていなかったのだろう。


とりあえず、今は明らかに太っているのが体重をはかったり体脂肪を測るまでもなく、目をつぶってもわかるくらいなので、

とりあえずなんかやってみる。

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死を望む人の死生観

最近は死にたい気持ちがいっそう募ってきた。単なる慣用句また感動詞としての「死にたい」ではなく、本格的な「希死念慮」という奴である。

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グリーン車で横の席に荷物を置く人

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窓際に人がいる隣の通路側の席に座る。


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なぜそんなことができるのだろうか?

私は休日にもグリーン車に乗ることがあるが、

ガラガラでもとなりの席に荷物など置いたことはない。

なぜなら、グリーン車は有料だからだ。


距離によるが、550円とか770円とか、ランチが食べられるくらいの料金だ。


まあ、ガラガラであれば、カバンを置いても、私はしないが、まあ許せる。

でも、通勤ラッシュ時で、上野につくころにはほぼ満席になる常磐線のグリーン車で、

隣の席に荷物を置くのは許せない。

その荷物をつかんで放り投げたくなる気持ちを懸命に抑える。


時々、そういう人にむかって、「すいません」と言って席を空けてもらって座る人がいる。

謝るのは荷物を置いている方だろ!


そういうときに、荷物を置いている人が謝るのを見たことがない。

私は、絶対に謝らない。そこまでして座りたくない。


が、そういう人がいると、顔をじっと見る。

そうすると、だいたいどける。



最近わかってきたのだが、この行動は無神経であるとか気が利かないというのではなく、

隣に人を座らせたくないので故意にやっているようだ。


なんという、利己的な行為だろう。私はそういう行為が本当に嫌いだ。


私も、なるべく隣に人がいない席を選ぶ。隣に人が来て欲しくないという気持ちはわかる。

でも、だからって荷物を置いて座らせないようにするなんてことは絶対にできない。

そんなことまでしたくない。


昨日は、隣の席に荷物を置いて寝ている人に、「すいません」と声をかけている人がいたのだが、

寝ている人は2、3度声をかけられても起きなかった。

多分、気づいているのに起きなかったのだろう。



私は振り返って、その人がどんな顔をしているか見た。

年齢は私よりやや上、50歳前後だ。

上着を着ずにワイシャツとスラックスの、ごく普通のサラリーマン風の男性である。


特にバカそうでもズルそうでもダメ人間でもだらしない感じでもない。

でも、そういうごく普通の人間が、このような利己的な行為をするものなのである。

これは静かなる暴力と言ってもいい。


キンタマを掴まれる

この話はツイッターで言いたかったのだが、どうしても「キンタマ」と書く勇気が出なかったのでこっちに書く。

私は猥談が嫌いだ。
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わけあって私は一切猥談をしなくなった。
飲み会でもしない。飲み会でそういう話題になると貝になる。

そして、「キンタマを掴まれる」という言葉には性的な意味はない。
それは常識かもしれないがやっぱりキンタマなどという言葉を口にすることははばかられる。
わたしも「キンタマ」などという言葉を思い出したのは久しぶりで、懐かしささえ感じた。

なんで思い出したかというと、夢の中でキンタマを掴まれたからだ。
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だが、間違いなく張り付いていると確信した。だが、それを自分で払いのけることはなぜかできない。

そこで、近くにいた知り合いと思われる人に、「ちょっとこれはがしてくれない?」と頼んだ。

それを頼んだときに掴まれたのか、その前から掴まれていたのかわからないが、
その背後にはりついていた何者かがわたしのキンタマを掴んでいた。
とても痛かった。その痛みは鋭いものではなく、鈍く、重いものだった。

そして結局背後にいるものがはがされないまま、目が覚めた。
その目が覚める瞬間に、キンタマの痛みもすーっと消えていった。
そして、わたしは「あ、これは自分が作り出している幻覚にすぎないな」ということがわかった。