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進化するなら

また進化論のことを書いてみたい。

進化がおこると仮定して、その進化の動機や目的を抱く主体はなんだろうか。

何を例にしようか。キリンの首でもいいんだけど、もっと地味な目立たないものがいい。

思いつかないのでキリンにする。


さて、大昔のまだ首が長くなかったキリンを思い浮かべてほしい。

そのキリンを太郎と呼ぶことにする。

太郎はいつも、木の葉っぱを食べながら、「もっと首が長ければ高いところの葉っぱが食べられるのに。首が長くならないかな。」と思っていた。

でも、もちろん首が長くなることなどなかった。

別のキリンがいた。和夫と呼ぶことにする。和夫も太郎と同じことを思っていたが、和夫はわずかではあるが太郎より首が長かった。

ある日たまたま太郎と和夫が近くで葉っぱを食べていたら、太郎が届かないところにある葉っぱを和夫が食べていた。

さて、このとき、和夫が生き残り太郎が滅びるということが起こるだろうか。

和夫のほうがより子孫を残し太郎のほうが残さないというようなことが。


太郎の子が3頭、和夫の子が4頭だったとする。

和夫の子はやはり太郎の子より首が少し長くて、和夫の子は4頭ずつ子を残し、太郎の子たちは3頭ずつしか残せなかった。

それが繰り返されるうちに、キリンは首が長いものが多くなった。

これはなんとなく納得はできる。

でも、大きな前提条件がある。

それは、和夫の首が太郎の首より長かったのは、和夫の努力のたまものではないということだ。

仮に、和夫の行動や食べるものや睡眠時間や子を産ませるメスの選択が首が長くなるように作用したとしても、それは偶然でしかない。

もしかしたら、どうしても首を伸ばしたいという執念のようなものがあって、和夫はそれが強かったのかもしれない。

仮にそうだとしても、そのような執念が遺伝するだろうか。

人間の世界でも、背の高い親から背の高い子が生まれるといったことは観察できる。


それはあるだろう。でも、それは遺伝なのであって、いやでも背が高くなるのであって、

逆に彼らに背を高くする能力はない。かってになるのだから。先天的なものだ。


だから、仮に進化というものがあったとしても、生物の体を変化させる力、意志のようなものは、個々の生物にはない。外部から働くものだ。

「キリンは高いところの葉を食べられるように数百万年かけて首を長く進化させた」

というようなことが言われるが、その間に生まれて死んでいったキリンは無数にいる。

でも、一頭一頭のキリンはもちろん個別で、「我々は先祖代々からのキリンであり私はこの血統を後世に残すために全力をかけて戦う」などと思っているキリンはいないだろう。

いるかもしれないが、進化論を主張する人だってそんなことを言いたいわけではないだろう。

そして、首が長くなることはたしかに有利かもしれないが、数百万年にわたって生まれるキリン達が全員一致で首を長くすることを選択するなどということがあり得るか?

中には猿のように木に登れたら、鳥のように飛べたら、もっと言うと、究極的には直立二足歩行して火をつかい言葉をつかい人間という万物の霊長になることをどうして目指さないのか。

人間が生物の究極の進化形であるならなぜ地上に存在するすべての生物は人間にならなかったのか・・・?

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死を望む人の死生観

最近は死にたい気持ちがいっそう募ってきた。単なる慣用句また感動詞としての「死にたい」ではなく、本格的な「希死念慮」という奴である。

そしてまた自殺の方法を調べた。恐怖と苦痛が少なく迷惑もかけない死に方はないか・・・。

すると、2ちゃんねるの自殺未遂体験を語るスレッドが見つかった。
以前にもちょっと眺めたことはあるが、じっくり読んでみた。

多いのは薬物とリストカットと足がつく場所での首吊りだった。
失敗した原因は、同居人のいる自宅で遂行した、電話やメールで知人にほのめかすかあるいははっきり宣言して助けられた、恐怖で自殺を思いとどまった、などである。

共通しているのは、すべて自分が死ぬ覚悟ができていなかった、死ぬ恐怖に打ち勝てなかったということである。

自殺の話になるとまず言われるのは「自殺なんかしてはいけない。命は授かりものだ。」という自殺罪悪説である。それから、「自殺未遂なんて本気で死ぬつもりなどないのだ。死にたいのならとっとと死ね」という未遂に対する罵倒。そして、「何があったの?死ぬ前に誰かに相談すれば?生きてればいいことあるよ」という心配。

「自殺は素晴らしい」という人はまずいない。
だが、非常に潔く動機も生活苦などではない場合はそれが賞賛される場合もある。
乃木稀典とか、三島由紀夫とかである。

私はこの2人の自殺にも興味を持っていろいろと調べてみたが、あまり手放しでは賞賛できないような事実をいくつか知った。そして、2人の死について否定的な考えを表明している有名人も大勢いることを知った。



調べれば調べるほど、自殺というのは限りなく困難なもので、ほとんど不可能に近いと思えてくる。
ロープを用意し、山の中まで行って首を入れるところまでいってもやめてしまう人がいる。
薬の大量服用については、本人の意志に関係なく吐いてしまい、まず成功することがない。

未遂に終わった場合、「二度と自殺なんかしない」という人が多いが、中には「今度こそ」と考える人もいる。実際、自殺に成功した人は何度か未遂を繰り返した人が多いそうである。



私は自殺を試み未遂に終わる人たちがすべて本気で死のうとしていないとは思わない。
彼らは本当に絶望していて、生きることは苦痛以外の何物でもなく、死ぬしかないと思っている。
しかし、いざ死のうとすると苦痛と恐怖で思いとどまってしまう。

思いとどまるときに、たと…

グリーン車で横の席に荷物を置く人

私は常磐線で通勤しているのだが、最近朝がつらくて、
グリーン車に乗ることが多い。

私が乗る駅では、グリーン車は窓際はまず埋まっている。

窓際に人がいる隣の通路側の席に座る。


だが、そこにカバンを置いている人が非常に多い。

私はそれがとても頭にくる。というか、その神経が理解できない。


なぜそんなことができるのだろうか?

私は休日にもグリーン車に乗ることがあるが、

ガラガラでもとなりの席に荷物など置いたことはない。

なぜなら、グリーン車は有料だからだ。


距離によるが、550円とか770円とか、ランチが食べられるくらいの料金だ。


まあ、ガラガラであれば、カバンを置いても、私はしないが、まあ許せる。

でも、通勤ラッシュ時で、上野につくころにはほぼ満席になる常磐線のグリーン車で、

隣の席に荷物を置くのは許せない。

その荷物をつかんで放り投げたくなる気持ちを懸命に抑える。


時々、そういう人にむかって、「すいません」と言って席を空けてもらって座る人がいる。

謝るのは荷物を置いている方だろ!


そういうときに、荷物を置いている人が謝るのを見たことがない。

私は、絶対に謝らない。そこまでして座りたくない。


が、そういう人がいると、顔をじっと見る。

そうすると、だいたいどける。



最近わかってきたのだが、この行動は無神経であるとか気が利かないというのではなく、

隣に人を座らせたくないので故意にやっているようだ。


なんという、利己的な行為だろう。私はそういう行為が本当に嫌いだ。


私も、なるべく隣に人がいない席を選ぶ。隣に人が来て欲しくないという気持ちはわかる。

でも、だからって荷物を置いて座らせないようにするなんてことは絶対にできない。

そんなことまでしたくない。


昨日は、隣の席に荷物を置いて寝ている人に、「すいません」と声をかけている人がいたのだが、

寝ている人は2、3度声をかけられても起きなかった。

多分、気づいているのに起きなかったのだろう。



私は振り返って、その人がどんな顔をしているか見た。

年齢は私よりやや上、50歳前後だ。

上着を着ずにワイシャツとスラックスの、ごく普通のサラリーマン風の男性である。


特にバカそうでもズルそうでもダメ人間でもだらしない感じでもない。

でも、そういうごく普通の人間が、このような利己的な行為をするものなのである。

これは静かなる暴力と言ってもいい。


キンタマを掴まれる

この話はツイッターで言いたかったのだが、どうしても「キンタマ」と書く勇気が出なかったのでこっちに書く。

私は猥談が嫌いだ。
猥談なんかしていたのは高校生まで。
わけあって私は一切猥談をしなくなった。
飲み会でもしない。飲み会でそういう話題になると貝になる。

そして、「キンタマを掴まれる」という言葉には性的な意味はない。
それは常識かもしれないがやっぱりキンタマなどという言葉を口にすることははばかられる。
わたしも「キンタマ」などという言葉を思い出したのは久しぶりで、懐かしささえ感じた。

なんで思い出したかというと、夢の中でキンタマを掴まれたからだ。
その夢では、わたしは背後にぴったりと誰かが張り付いているのを感じていた。
それは見えないし、ぴったりではあるがそっとなので気のせいかなと思うくらいだ。
だが、間違いなく張り付いていると確信した。だが、それを自分で払いのけることはなぜかできない。

そこで、近くにいた知り合いと思われる人に、「ちょっとこれはがしてくれない?」と頼んだ。

それを頼んだときに掴まれたのか、その前から掴まれていたのかわからないが、
その背後にはりついていた何者かがわたしのキンタマを掴んでいた。
とても痛かった。その痛みは鋭いものではなく、鈍く、重いものだった。

そして結局背後にいるものがはがされないまま、目が覚めた。
その目が覚める瞬間に、キンタマの痛みもすーっと消えていった。
そして、わたしは「あ、これは自分が作り出している幻覚にすぎないな」ということがわかった。