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痛風その後

左足の甲に違和感を感じて2週間がたった。

最初は明らかに痛みがあってかすかに腫れてもいたが、今はほとんど痛まない。

でも、まだ少し違和感がある。

激痛を感じることはなく、普通に生活し、酒も毎日飲み、食べたいものを食べて暮らした。

むしろ、いつもより飲み、食べたくらいだ。

週末にしていたランニングは中止。腕立て伏せもやめてしまった。

体重を測るのもやめた。


ときどき、両手の小指がしびれたような状態になることもあって、

体全体がやや不調になっているように感じる。


歳も歳だし、夜は12時前に寝れることなどまずないような日々が続いていたので、

疲れがたまっていたのだろう。


仕事の忙しさは少し落ち着いてきたので、なるべく早く帰るようにして、

無理をせずに、ときどき手を抜くこともするようにしている。


痛風になったことはかなりショックで、暴飲暴食の不摂生なダメ人間だという消えない烙印が押されてしまったように感じ、少し自暴自棄になっている。


本格的な発作が起きると赤く腫れあがり杖をついたりしないと歩けない程になるらしい。

私がtwitterでfollowしている人が私とほぼ同時に発作を起こしていたのだが、私とは比べ物にならないくらいの重症だった。

それを見ると、私のは本当に痛風だったのだろうか?と思うほどだ。


でも、健康診断の尿酸値は一線を越えていることを示している。


昨日、新宿を歩いていてバスから降りてきた70歳くらいの二人の男性は、ボサボサの白髪でパジャマのようなスウェットのようなものを着て、杖をついて、無精ひげでヨロヨロと、どこへ行くのか歩いていた。

病院へ向かうのか病院から帰って来たのか。

私は、このままでは確実に自分もあんな風になる、と暗澹たる気持ちになった。

あんな風になるくらいなら、もう今すぐにでも死んでしまいたいくらいだ。


死にたいという気持ちは20代の頃から、それこそ発作のように自分を襲った。

でも、体がそれを拒んだ。食欲や性欲や、自然を美しいと思う感情などが、死ぬことを拒んだ。

精神は、何故死なないのか、と反語を使うくらい、死ぬべきだと思っていた。


今や加齢によって体は死へ近づいてきたが、まだまだ反発している。

ビルの高い階で窓から外を眺めて、「ここから飛び降りたら死ねるな」と思うが、

飛び降りることなど絶対にできない。死んではいけないと思うからではなく、恐ろしいし、痛いだろうからだ。

死ぬなら一人でボロいホテルの部屋で首をつるというのが現実的だろうと思う。

首吊りは苦痛がすくなく成功率も高いときくが、

でもなんせやり遂げた人の体験談を聞くことはできないから、もしかしたら、

とても苦しいのかもしれない、

そもそも、

死んだあと、自分がどうなるのかがわからない。

自殺すると、死んだ後も苦しむというのは、私には本当に思えてならない。

それが、やっぱり、一番自死を思いとどまらせている一番の理由だ。







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死を望む人の死生観

最近は死にたい気持ちがいっそう募ってきた。単なる慣用句また感動詞としての「死にたい」ではなく、本格的な「希死念慮」という奴である。

そしてまた自殺の方法を調べた。恐怖と苦痛が少なく迷惑もかけない死に方はないか・・・。

すると、2ちゃんねるの自殺未遂体験を語るスレッドが見つかった。
以前にもちょっと眺めたことはあるが、じっくり読んでみた。

多いのは薬物とリストカットと足がつく場所での首吊りだった。
失敗した原因は、同居人のいる自宅で遂行した、電話やメールで知人にほのめかすかあるいははっきり宣言して助けられた、恐怖で自殺を思いとどまった、などである。

共通しているのは、すべて自分が死ぬ覚悟ができていなかった、死ぬ恐怖に打ち勝てなかったということである。

自殺の話になるとまず言われるのは「自殺なんかしてはいけない。命は授かりものだ。」という自殺罪悪説である。それから、「自殺未遂なんて本気で死ぬつもりなどないのだ。死にたいのならとっとと死ね」という未遂に対する罵倒。そして、「何があったの?死ぬ前に誰かに相談すれば?生きてればいいことあるよ」という心配。

「自殺は素晴らしい」という人はまずいない。
だが、非常に潔く動機も生活苦などではない場合はそれが賞賛される場合もある。
乃木稀典とか、三島由紀夫とかである。

私はこの2人の自殺にも興味を持っていろいろと調べてみたが、あまり手放しでは賞賛できないような事実をいくつか知った。そして、2人の死について否定的な考えを表明している有名人も大勢いることを知った。



調べれば調べるほど、自殺というのは限りなく困難なもので、ほとんど不可能に近いと思えてくる。
ロープを用意し、山の中まで行って首を入れるところまでいってもやめてしまう人がいる。
薬の大量服用については、本人の意志に関係なく吐いてしまい、まず成功することがない。

未遂に終わった場合、「二度と自殺なんかしない」という人が多いが、中には「今度こそ」と考える人もいる。実際、自殺に成功した人は何度か未遂を繰り返した人が多いそうである。



私は自殺を試み未遂に終わる人たちがすべて本気で死のうとしていないとは思わない。
彼らは本当に絶望していて、生きることは苦痛以外の何物でもなく、死ぬしかないと思っている。
しかし、いざ死のうとすると苦痛と恐怖で思いとどまってしまう。

思いとどまるときに、たと…

グリーン車で横の席に荷物を置く人

私は常磐線で通勤しているのだが、最近朝がつらくて、
グリーン車に乗ることが多い。

私が乗る駅では、グリーン車は窓際はまず埋まっている。

窓際に人がいる隣の通路側の席に座る。


だが、そこにカバンを置いている人が非常に多い。

私はそれがとても頭にくる。というか、その神経が理解できない。


なぜそんなことができるのだろうか?

私は休日にもグリーン車に乗ることがあるが、

ガラガラでもとなりの席に荷物など置いたことはない。

なぜなら、グリーン車は有料だからだ。


距離によるが、550円とか770円とか、ランチが食べられるくらいの料金だ。


まあ、ガラガラであれば、カバンを置いても、私はしないが、まあ許せる。

でも、通勤ラッシュ時で、上野につくころにはほぼ満席になる常磐線のグリーン車で、

隣の席に荷物を置くのは許せない。

その荷物をつかんで放り投げたくなる気持ちを懸命に抑える。


時々、そういう人にむかって、「すいません」と言って席を空けてもらって座る人がいる。

謝るのは荷物を置いている方だろ!


そういうときに、荷物を置いている人が謝るのを見たことがない。

私は、絶対に謝らない。そこまでして座りたくない。


が、そういう人がいると、顔をじっと見る。

そうすると、だいたいどける。



最近わかってきたのだが、この行動は無神経であるとか気が利かないというのではなく、

隣に人を座らせたくないので故意にやっているようだ。


なんという、利己的な行為だろう。私はそういう行為が本当に嫌いだ。


私も、なるべく隣に人がいない席を選ぶ。隣に人が来て欲しくないという気持ちはわかる。

でも、だからって荷物を置いて座らせないようにするなんてことは絶対にできない。

そんなことまでしたくない。


昨日は、隣の席に荷物を置いて寝ている人に、「すいません」と声をかけている人がいたのだが、

寝ている人は2、3度声をかけられても起きなかった。

多分、気づいているのに起きなかったのだろう。



私は振り返って、その人がどんな顔をしているか見た。

年齢は私よりやや上、50歳前後だ。

上着を着ずにワイシャツとスラックスの、ごく普通のサラリーマン風の男性である。


特にバカそうでもズルそうでもダメ人間でもだらしない感じでもない。

でも、そういうごく普通の人間が、このような利己的な行為をするものなのである。

これは静かなる暴力と言ってもいい。


キンタマを掴まれる

この話はツイッターで言いたかったのだが、どうしても「キンタマ」と書く勇気が出なかったのでこっちに書く。

私は猥談が嫌いだ。
猥談なんかしていたのは高校生まで。
わけあって私は一切猥談をしなくなった。
飲み会でもしない。飲み会でそういう話題になると貝になる。

そして、「キンタマを掴まれる」という言葉には性的な意味はない。
それは常識かもしれないがやっぱりキンタマなどという言葉を口にすることははばかられる。
わたしも「キンタマ」などという言葉を思い出したのは久しぶりで、懐かしささえ感じた。

なんで思い出したかというと、夢の中でキンタマを掴まれたからだ。
その夢では、わたしは背後にぴったりと誰かが張り付いているのを感じていた。
それは見えないし、ぴったりではあるがそっとなので気のせいかなと思うくらいだ。
だが、間違いなく張り付いていると確信した。だが、それを自分で払いのけることはなぜかできない。

そこで、近くにいた知り合いと思われる人に、「ちょっとこれはがしてくれない?」と頼んだ。

それを頼んだときに掴まれたのか、その前から掴まれていたのかわからないが、
その背後にはりついていた何者かがわたしのキンタマを掴んでいた。
とても痛かった。その痛みは鋭いものではなく、鈍く、重いものだった。

そして結局背後にいるものがはがされないまま、目が覚めた。
その目が覚める瞬間に、キンタマの痛みもすーっと消えていった。
そして、わたしは「あ、これは自分が作り出している幻覚にすぎないな」ということがわかった。