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テレビの役割

テレビを見るのをやめて、何年たっただろうか。3年か4年くらい。

とはいえ、テレビはあちこちにあるので、食事の時とか、ホテルに泊まったときとか、見ることはある。

インターネットでもテレビでこんな番組が放送されて話題になったということがニュースになったりtwitterで話題になったりする。

さらに、youtubeにはテレビ番組の複製のような動画がたくさんあって、私はそれをむさぼるように観ているので、「テレビを見ていない」などと、カッコつけて言えないのかもしれない。


さて、このところ、トランプ大統領がシリアを爆撃して、北朝鮮にも、みたいなことが言われている。

私は暇さえあればtwitterを見る。仕事中はあまり見れないが、トイレの個室に入ったら呼吸をするように自然に見る。

私にとってtwitterはもう、体の一部のようになっている。


さて、そのtwitterで、最近よく見るのが、「シリアや北朝鮮で緊迫した事態が起きているのに日本では浅田真央の引退とか森友学園の問題とかどうでもいいことばかりニュースになっている」というようなツイートである。

こういうことが言われるのは今に始まったことではない。

たとえば、もうずいぶん昔の話だが、私が高校生の頃、東大の学生がボートに乗っていて転覆して死亡するとかいう事故が起きたことがあって、そのニュースが朝日新聞の一面トップに載ったことがある。

当時高校では「現代社会」という、なんだかよくわからない科目があって、その授業をやっていたのは東大卒の先生だったのだが、こんなことを一面トップに載せるべきではない、と、授業で話していた。


新聞や週刊誌などについても、アサヒは左だ、サンケイは右だ、フジは右でテレ朝は左だ、などということもよく言われる。自分でも、同じようなことを感じていた。

しかし最近はテレビをはじめ、ほとんどの放送とか出版とかいうものから遠ざかっていて、それらの情報に触れる機会さえない。

twitterとyahooジャパンくらいが私の情報源である。

日経新聞をとっているが、読む時間は日に日に短くなっていて、今では一面から最後までめくるのに3分くらいしかかからない。

読む速度があがったのではなく、読まなくなったのである。


その結果、報道とかマスコミとか言われるものは、私にとってほとんど無意味で無価値になった。

テレビで浅田真央のことを放送しようが森友学園のことを放送しようが、私には何も関係ない。不快も感じないし怒りも覚えない。


しかし、あらたな怒りが芽生え始めた。

そのような、「マスコミがあるべき報道の姿勢」みたいなことを言う人たちに対してだ。


オマエラは何様なのか。


それから、北朝鮮とかシリアとかのことが重大で浅田真央はどうでもいいというのは私も同意見だが、それはテレビや新聞が何を報じようがあなたはすでにわかっている。

真に重大なことはテレビや新聞では報道されないことはわかっているじゃないか。

そもそもテレビとは何か?

真実を伝える媒体か?違う。

テレビというのは娯楽媒体である。


娯楽のための放送である。

ナンセンスなお笑い、芸能人のゴシップ、スポーツ、マンガ、アニメ、ドラマなど、

仕事や学業で疲れた人が、リラックスしたり、憂さ晴らしのために見る、低級な娯楽を提供するための放送なのである。


真実を知りたければ、テレビなどに頼らず、自分で信頼できる筋から情報を得ればよいのである。


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死を望む人の死生観

最近は死にたい気持ちがいっそう募ってきた。単なる慣用句また感動詞としての「死にたい」ではなく、本格的な「希死念慮」という奴である。

そしてまた自殺の方法を調べた。恐怖と苦痛が少なく迷惑もかけない死に方はないか・・・。

すると、2ちゃんねるの自殺未遂体験を語るスレッドが見つかった。
以前にもちょっと眺めたことはあるが、じっくり読んでみた。

多いのは薬物とリストカットと足がつく場所での首吊りだった。
失敗した原因は、同居人のいる自宅で遂行した、電話やメールで知人にほのめかすかあるいははっきり宣言して助けられた、恐怖で自殺を思いとどまった、などである。

共通しているのは、すべて自分が死ぬ覚悟ができていなかった、死ぬ恐怖に打ち勝てなかったということである。

自殺の話になるとまず言われるのは「自殺なんかしてはいけない。命は授かりものだ。」という自殺罪悪説である。それから、「自殺未遂なんて本気で死ぬつもりなどないのだ。死にたいのならとっとと死ね」という未遂に対する罵倒。そして、「何があったの?死ぬ前に誰かに相談すれば?生きてればいいことあるよ」という心配。

「自殺は素晴らしい」という人はまずいない。
だが、非常に潔く動機も生活苦などではない場合はそれが賞賛される場合もある。
乃木稀典とか、三島由紀夫とかである。

私はこの2人の自殺にも興味を持っていろいろと調べてみたが、あまり手放しでは賞賛できないような事実をいくつか知った。そして、2人の死について否定的な考えを表明している有名人も大勢いることを知った。



調べれば調べるほど、自殺というのは限りなく困難なもので、ほとんど不可能に近いと思えてくる。
ロープを用意し、山の中まで行って首を入れるところまでいってもやめてしまう人がいる。
薬の大量服用については、本人の意志に関係なく吐いてしまい、まず成功することがない。

未遂に終わった場合、「二度と自殺なんかしない」という人が多いが、中には「今度こそ」と考える人もいる。実際、自殺に成功した人は何度か未遂を繰り返した人が多いそうである。



私は自殺を試み未遂に終わる人たちがすべて本気で死のうとしていないとは思わない。
彼らは本当に絶望していて、生きることは苦痛以外の何物でもなく、死ぬしかないと思っている。
しかし、いざ死のうとすると苦痛と恐怖で思いとどまってしまう。

思いとどまるときに、たと…

グリーン車で横の席に荷物を置く人

私は常磐線で通勤しているのだが、最近朝がつらくて、
グリーン車に乗ることが多い。

私が乗る駅では、グリーン車は窓際はまず埋まっている。

窓際に人がいる隣の通路側の席に座る。


だが、そこにカバンを置いている人が非常に多い。

私はそれがとても頭にくる。というか、その神経が理解できない。


なぜそんなことができるのだろうか?

私は休日にもグリーン車に乗ることがあるが、

ガラガラでもとなりの席に荷物など置いたことはない。

なぜなら、グリーン車は有料だからだ。


距離によるが、550円とか770円とか、ランチが食べられるくらいの料金だ。


まあ、ガラガラであれば、カバンを置いても、私はしないが、まあ許せる。

でも、通勤ラッシュ時で、上野につくころにはほぼ満席になる常磐線のグリーン車で、

隣の席に荷物を置くのは許せない。

その荷物をつかんで放り投げたくなる気持ちを懸命に抑える。


時々、そういう人にむかって、「すいません」と言って席を空けてもらって座る人がいる。

謝るのは荷物を置いている方だろ!


そういうときに、荷物を置いている人が謝るのを見たことがない。

私は、絶対に謝らない。そこまでして座りたくない。


が、そういう人がいると、顔をじっと見る。

そうすると、だいたいどける。



最近わかってきたのだが、この行動は無神経であるとか気が利かないというのではなく、

隣に人を座らせたくないので故意にやっているようだ。


なんという、利己的な行為だろう。私はそういう行為が本当に嫌いだ。


私も、なるべく隣に人がいない席を選ぶ。隣に人が来て欲しくないという気持ちはわかる。

でも、だからって荷物を置いて座らせないようにするなんてことは絶対にできない。

そんなことまでしたくない。


昨日は、隣の席に荷物を置いて寝ている人に、「すいません」と声をかけている人がいたのだが、

寝ている人は2、3度声をかけられても起きなかった。

多分、気づいているのに起きなかったのだろう。



私は振り返って、その人がどんな顔をしているか見た。

年齢は私よりやや上、50歳前後だ。

上着を着ずにワイシャツとスラックスの、ごく普通のサラリーマン風の男性である。


特にバカそうでもズルそうでもダメ人間でもだらしない感じでもない。

でも、そういうごく普通の人間が、このような利己的な行為をするものなのである。

これは静かなる暴力と言ってもいい。


キンタマを掴まれる

この話はツイッターで言いたかったのだが、どうしても「キンタマ」と書く勇気が出なかったのでこっちに書く。

私は猥談が嫌いだ。
猥談なんかしていたのは高校生まで。
わけあって私は一切猥談をしなくなった。
飲み会でもしない。飲み会でそういう話題になると貝になる。

そして、「キンタマを掴まれる」という言葉には性的な意味はない。
それは常識かもしれないがやっぱりキンタマなどという言葉を口にすることははばかられる。
わたしも「キンタマ」などという言葉を思い出したのは久しぶりで、懐かしささえ感じた。

なんで思い出したかというと、夢の中でキンタマを掴まれたからだ。
その夢では、わたしは背後にぴったりと誰かが張り付いているのを感じていた。
それは見えないし、ぴったりではあるがそっとなので気のせいかなと思うくらいだ。
だが、間違いなく張り付いていると確信した。だが、それを自分で払いのけることはなぜかできない。

そこで、近くにいた知り合いと思われる人に、「ちょっとこれはがしてくれない?」と頼んだ。

それを頼んだときに掴まれたのか、その前から掴まれていたのかわからないが、
その背後にはりついていた何者かがわたしのキンタマを掴んでいた。
とても痛かった。その痛みは鋭いものではなく、鈍く、重いものだった。

そして結局背後にいるものがはがされないまま、目が覚めた。
その目が覚める瞬間に、キンタマの痛みもすーっと消えていった。
そして、わたしは「あ、これは自分が作り出している幻覚にすぎないな」ということがわかった。