身体感覚

混雑した場所、あるいは狭い場所等での人の態度に不満がある。

混雑した電車に乗るときに背中にリュック等をしょっている人。

大した荷物でもないのにキャリーバッグをガラガラ引きずっている人。

トイレに出入りするときに猛スピードな人。

複数人で歩くときに横に並ぶ人たち。


それから、出入り口、エレベーターなどで、一人ずつしか通れないとみなしている人。



彼らにはたぶん、人間の体がどういうカタチなのかの認識がない。

自動車でいう車両感覚のようなものだ。


人間の体は、おおざっぱに見ると棒状であるが、

横にやや広い。

頭から下はかまぼこ板のような形状だ。

そして、足は、縦に長い。


狭い道等を歩くときは、体を横に向けて、横ばいに歩くようにすればすれ違える。

別に一人が通るのを待ったりする必要はない。

お前らは何か、横ばいができないのか?運動オンチか?

横ばいまでしなくても、上半身だけひねるだけでもだいぶ違う。

そんなこともできない?


リュックは混んだ場所では前面に回せ。

足のつま先から顔の前には三角形の空間がある。そこに収めろ。

背中に余計なでっぱりを作るな。



トイレに出入りするときに、なんでそんな急ぐのか。

ぶつかりそうになることがよくある。

誰かが出てくるかもしれない、入ってくるかもしれないと予測し、

それに対応できるような速度と心構えで出入りしろ。

何年生きてるんだ。


団体は横に広がって歩くな。

他の人が通れない。


お前らはあれか、自分が人の後ろに回るとなんか悔しいのか?屈辱なのか?

バカなのか?

朝生の後

村本がちょっとかわいそうだった。
朝生の件である。
放送は見ていなかったが後でyoutubeで観た。

彼は憲法の9条二項は読んだことがないといいつつ「非武装中立」を主張し、外国に侵略されても甘んじて殺される、国民は憲法のことなどよく知らないから報道のありかたも国民よりに変えるべきだなどと発言していたら、落合陽一に「小学校でならったでしょ」「小学校行こうぜ」とバカにされた。

学者であるとはいえ憲法は専門でもない一回りも年下の男から小学校行けなどと言われその姿を全国に放映されたくやしさと恥ずかしさには同情を禁じ得ない。

「侵略されたら抵抗せずに甘んじて殺される」というのは、おそらく極論なのだろうが、今までにも何度か聞いたことがある。たしか爆笑問題の太田もそんなことを言っていた。
私は非武装中立など論外だとは思うが、村本氏のような極論を言いたくなる気持ちもわからないでもない。

今までその実現の可能性はなく、候補にすら値しないと思っていた「非武装中立」であるが、念のため確認してみた。

非武装中立の国は存在しているのか?したことがあるのか?スイスはそうじゃないのか?スイスは永世中立国ではあるが軍隊は持っている。その他にも近い体制をとった国はあるようだが全く武力を持たない国はないようだ。

私が憲法のことを勉強したのは小学校ではなく中学校だ。社会科の教師は生徒が忘れ物をすると、憲法の条文を暗記させた。子供の頃はニュースなどで外国では戦争が起きているのを見て、「日本もいつか戦争をするのだろうか」とおびえていたが、憲法で日本は戦争をしない旨が明記されているのを知って『日本は戦争をしない国なんだ』と安心したのを覚えている。

どうせだから9条を引用しておこう(Wikipediaより)。
1. 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2. 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

中学校の授業では「自衛隊は軍隊ではないのか」という議論がされた記憶はない。放棄するのはあくまでも「国際紛争を解決する手段として」の武力であって、文字通り「自衛」のための武力であるからよいのだと、理解した。もしくは、完全な武力放棄なんて無理だから大目にみてんのか、くらいは思ったかもしれない。教師がそのように教えたかもしれないが、よく覚えていない。

改憲のために必要な手続きについても習った。
この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行われる投票において、その過半数の賛成を必要とする。
これを 読んで、『こんなの絶対無理だな』と中学生ながらに思った。

憲法について矛盾とか、改正すべきだとか逆に死守すべきだとも特に感じず、とにかく「戦争にいかなくていいんだ」という自己本位なことしか考えなかった。


さて、落合氏の「小学校」発言であるが、村本氏のどの発言について、小学校で習うことだと言ったのだろうか?

非武装中立の態度そのものだろうか?軍隊をもたなかったらなぜ外国に侵略されるのかという疑問についてだろうか?憲法9条2項を「読んでいない」と言ったことだろうか。

彼はtwitterでこの発言の意図を説明している。
「なんで人を殺してはいけないの」「憲法9条はなんのため?」→社会の根本への疑問は知識習得前の議論が重要.初学者がその場で考えた結論は大抵,先人が既に議論済であって,時間有効化のために歴史を学ぶこと,それを起点に現代的発展を探す姿勢は小学校訓練から始まる.暗記のための教育じゃない. 
なんで疑問が生まれる材料が揃ったときに君は議論してこなかったのか,公教育にて横並びの同世代の初学者の中に身を置きながらその場が貴重であることを認識していなかったのか.先人も過去において「誰も答えがわからない」という同じような状況の中でいくつかの当時代なりの解釈を導いてきた.
これを10秒の時間枠で表現すると「小学校行こうぜ」

彼は思った以上に根本的に村本を否定していた。非武装中立がどうこう外国が侵略してこないという考えがどうこうではなく、小学校から議論したり歴史を学ぶことをしてこなかったことを自分よりも一回り年上の相手に向かってダメ出ししたのだ。

落合氏の言うことはもっともで村本氏は不勉強で議論する資格すらないと言えばそれまでだが、「そんなの議論しつくされてる」じゃなくて、もっと気の利いた答えはなかったのだろうか。

彼は通り魔に刺されるというたとえを出したが、外国が侵略してくるという前提自体に疑問を呈しているのに通り魔に例えても無意味だ。それならなぜ中国や北朝鮮を通り魔とみなすのか、という理由を彼は聞いたのだ。

「なんで人を殺してはいけないのか」について落合氏はどういう議論をし先人はどういう結論を出しており、その答えはどういうものだと考えているのだろうか。私はこの問いについてはもう20年くらい前だろうか、青年が幼女を殺すような猟奇的な殺人事件が続いて起きた頃によく聞いて、当たり前だと思われているがいざ説明しようとするとできない、という類のものだと思っている。

今検索してみたら弁護士7人に質問しているサイトがあってそのうちの一人が「殺してはいけないという法律があるから」と答えているが刑法には殺したら罰せられると書いてあるだけで「殺してはいけない」とは書かれていない。弁護士でさえこんな答えをするのである。

落合氏は、村本氏のなぜ外国が侵略してくるのかという疑問が、それと同じような当たり前だが説明するのは難しい疑問であるから、そんなことをこの場で持ち出すな、と言いたかったのだろうか。twitterの説明からはそのようにとらえられるがあの場ではそんな風には見えなかった。

当たり前だと思っている前提をあえてあらためて吟味してみる、ということは有意義だと思う。少なくとも小学校からやり直せと言われるほどのことではない。


落合村本事件についてはこのくらいにして、この番組を観たあと私は改めて改憲について考えてみた。

9条改正に反対している人の多くは平和や命の尊さなどを持ち出すが本音は単純に「自分が戦争に行きたくない」と考えているだけだ。その「自分」には家族も含まれるかもしれない。がせいぜい家族どまりで、日本国民誰もが戦争に行くべきではないなどという理想など持っていない。

それは日本人がダメだとか、今の日本人がダメだとか、そういうことではなく、政治家でもなければ人々は自分の生活で精いっぱいで国の在り方の理想を追求するヒマなどないしそんなことをする義務も必要もない。

一方改憲派もよく「国益」とか「戦略」などと言うが、一国としてその利益や将来の在り方を考えている人などほんの一握りである。その一握りの人たちでさえ、本気でそれを考えているのかは疑問だ。

改憲の議論が活発におこるようになったのは湾岸戦争の頃からだ。自衛隊が湾岸戦争に参加したことに対し、「戦争に加担している、憲法違反だ」とみなされて、反対運動も起きたが、後方支援だけするからセーフ、みたいなことでお茶を濁した。

その後、イスラム原理主義国のテロ行為が頻発するようになって、さすがにもう日本も戦争しませんでは済まない空気になってきた。改憲派が増えしかもそれを「当然だ」という人が増えたように感じる。

だいたい改憲派は社会的に成功している人が多い。現状に満足している人は保守的な思想になるのは自然なことだしよくあることだ。それをとやかくは言わないが、自分の考えが高邁な理想に基づくものあるいは論理的に当然のことだなどという態度を示されるとカチンとくる。

改憲派の典型的な考えは、「日本だけが自分の手をよごさず同盟国に戦わせることはよくない、倫理的にも外交的にも。侵略行為やテロ行為に対しては戦闘行為も認めるために自衛隊を軍隊とすることには賛成する、そうしたからといっておそらく日本が侵略行為に走ることはないだろう」というようなものだと思う。

非武装中立を訴える人が「中国は攻めてこないだろう」と考えるのと同じように、別に根拠があるわけではなく、きっと大丈夫だろう、と思っているだけだ。同じ「きっと大丈夫だ」で考えているだけのことなのに、あたかもそれが高邁な理想であるように主張するから反対派がムキになるのではないか。

非武装中立は極論だ。改憲に反対している人もそこまでは考えているのはごく少数だろう。戦争はしたくないけどテロリストや侵略国からは守って欲しいだから自衛隊は必要、でも改憲して自衛隊を軍隊と認めたら日本が侵略国になりかねないからそれはイヤだ、が大多数だと思う。

そして、テレビ番組での議論や有名人の主張はともかく、身の回りを見る限りこのような考えの人が非常に多い。そして改憲派といっても積極的な意見の人は少ない。今の憲法のままなら、少なくとも徴兵されることはないし、日米同盟(あえて安保とは言わない)があるから侵略されることもないしこのままでいっか、という人も多い。

それでは、積極的な改憲派の意図はなんだろうか?安倍総理は、憲法を改正して戦争をして外国を侵略しようと考えているのだろうか。北朝鮮と核兵器の打ち合いでもするつもりだろうか?それも極論である。

両極端を考えてみて、ようやく私も思い出したのであるが、
そもそも9条の問題というのは、日本国憲法が敗戦後戦勝国から押し付けられた憲法であるということに起因している。「押し付けられた」という言い方はあいまいなのでまたwikipediaを引用する。

1945年(昭和20年)8月15日に、ポツダム宣言を受諾して連合国に対し降伏した日本政府は、そこに要求された「日本軍の無条件降伏」「日本の民主主義的傾向の復活強化」「基本的人権の尊重」「平和政治」「国民の自由意思による政治形態の決定」などにより、事実上憲法改正の法的義務を負うことになった。そこで連合国軍占領中に連合国軍最高司令官総司令部の監督の下で「憲法改正草案要綱」を作成し[1]、その後の紆余曲折を経て起草された新憲法案は、大日本帝国憲法73条の憲法改正手続に従い、1946年(昭和21年)5月16日の第90回帝国議会の審議を経て若干の修正を受けた後、同年1946年(昭和21年)11月3日に日本国憲法として公布され、その6か月後の翌年1947年(昭和22年)5月3日に施行された。

要するに日本国憲法は、戦勝国が日本に戦争行為をさせないために作った憲法なのである。9条や96条は絶対に戦争はできないようにするための条文である。そもそもそういう意図で制定された憲法であるから、その解釈を議論するのは全くナンセンスである。

そして先ほど書いたような改憲派と護憲派の思想があやふやな状況で、9条の改正、つまり自衛隊を軍隊とすることに国民投票で賛成する人が過半数を超えるなど、絶対にない。96条はそのために作られたのだから。

もっとも正論でスジの取った考えは、上記のような経緯に基づいて定められた現行の憲法は破棄して自主憲法を制定しなおすべきであり、軍隊の保持や戦争行為や天皇などについてはあらためて議論する、というものだろう。

そうすれば、現状日本国が軍隊を持たずにアメリカとの同盟のもと軍事的負担をすべてアメリカに任せている現状がいかに異常であるか、天皇の意義、そもそも憲法とは何か、国とは何かなどの根本的なことを見つめなおすよい機会になる。

むしろ、9条だけ改正するよりもこちらの方が現実的だとさえ思えてきた。

が、きっと現実的にはそんな悠長なことはしていられないのだろう。





レンガを積むようには考えない


私は「論理的に考える」ことを重視していない。

そもそも、考えるということは論理なしに成立せず、「論理のない思考」なんてものは存在しない。

「論理的な思考」「ロジカルな思考」というのは、だいたい「事実に基づいた思考」ということを指しているように見受けられる。

論理的な思考を否定する、なんていうとすごく馬鹿で低能で無教養な人間の発言と思われそうだが、私はけっして自分をそういう馬鹿だとは思っていない。

大学こそロクにいかずに中退してしまったが、子供の頃から勉強は好きでよくできて、級友や私と仕事をした人には大体おどろかれたものだ。

私が重視していないという「論理的思考」というものは、レンガを積み上げるような考え方の事だ。

事実に基づき明白なことだけを手掛かりとし、主観や感情を排除して考えを進めていく。

私も、煮詰ったときとか、疲れたときとか、冷静さを失っていると感じた時などにはそういう態度をとることもあるが、調子のいいとき、心身が正常であるときはそんなことはカッタるくてやっていられない。

バンバン主観で判断し、事実を確認しないまま推論で考えを進めていく。そうしないと、間に合わない。

いろんなタイミングとか、思いついたことが、レンガ積み上げ思考では蒸発し干からび飛び去って逃げ去ってしまう。


いろんな材料やチャンスが十分に与えられていて時間もありルールに守られた世界では悠長に確実な物事だけを積み上げていけばいいのかもしれないが、私が今まで生きてきた世界はそうではなかった。

何もかもが不平等であり情報はほんの一部しか公開されず、「非対称」どころではなく、それも大体は悪意をもってそうなっていて、「ルール」というものも少数の人間の利益のために恣意的に作られた理不尽なものばかりだった。

法律でさえ、そういうものだと思っている。

そういう世界で生きていくために、私は子供の頃していたような地道で堅実な考え方を捨て、完全性は後回しにして、仮説をふんだんに用いた大胆で雑な思考をするようになった。

当然、頓挫したりとんでもない方向へ進んでしまったりすることはあるが、そうなったら元へ戻って新たな仮説を採用してまた急いで考えを進めればよい。

それを繰り返していくうちに全体が見え始め、確実性も増していき、目的地に到達できる。


一方、レンガ積み思考においては、誤ることは少ないのだが、誤ってしまったときには取り返しがつかなくなる。

誤りに気づけばまだいいが、往々にして気づかない。気づいても認めない。自分は確実な方法を採用したのだから間違っているはずはない、と思い込む。

大体、事実とか真実などというものはあやしいものだ。何をもって事実とし真実とするかは、ほとんどの人は信頼できる他者の証言に頼っている。具体的には「名前」である。

どこかの学者とか、有名企業とか、学校とか、そういう権威の後ろ盾をもって事実とか真実とかみなしてそれをレンガのように積み上げるのである。

しかし、そのひとつひとつのレンガが本物なのかということを、自分で確かめてはいない。

天動説が真理の時代もあった。
エーテルが存在すると信じられていた時代もあった。
万物は木火土金水から成り立っていると考えられていた時代もあった。

というか、これが真理だ、と唱えるいろいろな人がいて、時代や地域によってそれが信頼される人は異なっていた、ということだ。

だから、私はそういう権威を絶対視しない。

もちろん、私だって重要でないこと、たとえば何を食べるとか、どこへ行くとか、
何を着るとか楽しみですることなどについては権威と呼ばれるような人の意見を参考にはするが、本気で何かをするときには何もかもを疑ってかかり誰も信じない。

しかし、私は何も信じないからといって何もしないわけではない。逆に、何も信じないからこそ何でも採用しどこへでも行くしどんなことでも受け入れるのである。

そして自分の目と手と足と心と頭とでそれを確認して、最終的な目的を果たすのである。

そうやってたどり着いた境地は、他の権威をうのみにして全面的に信頼してレンガのように積み立てたものとは違って、もっと堅牢でもっと美しい。

美しいのは無駄がないからだ。

そしてその境地からは落ちることがない。


カツカレー

大坂なおみがセリーナウィリアムズを破って優勝した時のインタビューで「カツカレーが食べたい」というのを聞いてから、食べたくなった。 最近はカレーライス自体をほとんど食べることがなかった。 さらにそれにカツが入っているとなると重すぎる。 体調がよく空腹のときに何回か食べ...